ヨタカ

 その新月の夜から三日が過ぎた火曜日、僕は自室で小説を書き進めていた。

 書き始めたころ、小説というのはつまるところ個人の妄想でしかないと思っていた僕は愚かで、まもなく、それだけではすぐに行き詰まってしまうと知った。妄想には限界があって、単なる妄想はひどく陳腐で虚しかった。登場人物は魂の抜けた人形に成り下り、同じような台詞を吐くばかりになってしまった。

 この問題を解決すべく、いったい自分が何を書きたいのか、それを考えながら書くことにした。頭を支配している疑問はいつだってただ一つだった。

 死んだらどうなるのだろう。


 昼から講義が一つ入っていたので、寝癖を直す程度の身支度を済ませてから登校した。梅雨明けの今は七月も半ば、ひどく蒸し暑い。木々の緑が青空に映えて眩しく、生きているものはなんだってこんなに判然としているのだろうと思った。

 教室には本来居るはずのガムもヨタカもいなかった。彼らは過去問の輸入先にアテがあり、しかも教授が毎年ほとんどテストを変えないと知っているのだ。そういう器用さは学力と並んで評されるべき人間力である。僕などは学習によって不足した人間力を埋めるほかないので、これは少し羨ましいことでもある。

 始終スマホを弄りまわしていた学生の横で一時間半の苦行を了え、ノートを仕舞ってから立ち上がる。みなも同じようにして、ぞろぞろと教室を出ていく。今日も何一つ変わらぬ景色が、そこに広がっていた。

 さて、帰ろうか──そう思って一歩目を踏み出した時である。

「あ、見つけた見つけた!」

 肩の下くらいまで伸ばした髪を茶色く染めた女子学生が、小動物を思わせる所作とスピードで駆け寄ってきた。

「どこ行ってたの、探してたのに」

「どこへも行ってないし、君こそ講義をフケてまで、いったいどこへ行ってたの?」

「お、それ訊いちゃう?後悔するよ?」

「じゃあいい、興味も無いし。どうせどこかで春をひさいでたんでしょう」

「ご明察だね」

 相変わらず綺麗な瞳を細くして、彼女は笑った。中身を挿げ替えられたなら、今頃はまともな恋愛にうつつを抜かしていても不思議じゃないというのに。

「君は前世でどんな悪事をはたらいたんだろうね」

「ひどいな。好きでやってるんだから、別に罰だとは思ってないよ」

「そっか。それにしても、平日の昼間から相手が見つかるものだね」

「ネットで募集かければスグだよ。便利なご時世だよねー」

 躊躇いの欠片さえ感じられない口振りには閉口せざるを得ないが、たしかに彼女の言う通りかもしれない。そんなものがあるから、ただの女子大生にも売春ができてしまうのだ。

「それで、いったい僕に何の用?」

「美味しそうなレストラン見つけたんだけどさ、一人で入るの寂しいからついてきてほしいの」

「友達呼べばいいでしょう」

「アンタだって友達じゃん」

「そうだったの?や、でもそういうことじゃなくてさ…」

「はーい、つべこべ言わない!行くったら行くの!」

 痺れを切らしたらしいヨタカは僕の右手を掴むと、ずんずん歩き出す。教室に残っていた数人が僕らを見ていた。あまり気分はよくない。詮方なく、彼女に従ってさっさと退室することにした。

 僕が逃げるとでも思っているのか、彼女はキャンパスを出ても手を離さなかった。そのまま歩調を緩めると、僕の隣に並ぶ。気になる視線も無かったので、特に指摘はしなかった。

「どこまで行くの?」

「割と近くだよ、歩いて行けるくらいの。でも最近まで知らなかったんだよねーホント、我ながらビックリ」

 歩道沿いには青葉の茂った木が並べて植えてあって、好い工合に木陰が落ちていたけれど、それでもなお暑かった。蝉の声が樹皮から湧き出ているみたいで五月蝿い。隣を見遣ると、彼女は襟をパタパタやっている。

「暑いなら離れなよ」

「やだ」

「どうして」

「寂しいから」

 毛先ほどの可愛げもなく、全然甘えないで彼女は答えた。まったく素面の音声である。この一年余り、幾らかヨタカについて理解を深めてきたつもりだが、その知見から言って、こういう時の彼女は人の言うことを聞かない。内心で何を考えているのかも解らないが、たぶん解ってくれることも望んではいないのだろうから、いつからか心中を推し量ることも辞めてしまった。

「…そういえば、君は、どうして売春なんてするようになったの?」

「どしたの、藪から棒に」

「や、そういえば聞いたことなかったと思って。僕にはどうだっていいけど、興味はある」

 これも彼女に関する知見の一つであるが、彼女は、上っ面ばかりの婉曲な言葉を好まないようだった。だから二人で話しているとき、僕はあえて言葉を選ばないようにしている。

 彼女は困ったような笑い顔を作って、小さく首を傾げた。

「んー、どうしてって言われると、はっきりしないんだけどね」

「何となく、ってこと?」

「まあ、そうなるかな。モチベーションとしてはね。でもセックス自体について言うなら、私は、コミュニケーションの延長なんだと思ってる」

「コミュニケーション?」

「うん。人間関係の、人との交わりの一つの形式。だから、別にお金稼ぎたくてやってたわけじゃないんだけどね」

「でも、今はお金とってるんでしょう」

「まあね。もちろんみんな、タダでヤリたいってのが本音だと思うけどさ、意外とね、対価を払いたがる人も多いの。それで話が早く進むならって。それを見た時には思ったね、ああ、私はちょっと考え方がおかしいんだって」

「おかしい」

「そ。なんかね、下品な話だけどさ、私の体ってほんとに売れるんだって思っちゃったよね。売り買いされるものだから、お金を払うのが当たり前、みたいな暗黙のルールがあるみたいで。私にとっては対価を求める行為じゃなかったのに。まあ結局、バイトもしなくて済むし、今じゃすっかり商売って感じだけどねー」

 これを受けて、僕は少し考え込む。風俗店なんかが存在するのだから、性行為はそれなりな価値を持つもので、それは通貨によって購われるべきものなのだろう、きっと。それもまた常識で、けれども彼女の言う対価も愛情も求めない性行為だって、別に在って可いのだろう。

 よく解らなくなってきた。

「何考えてんのー?」

「あ、ごめん、よく解らなくなってきて」

「解らなくていいよー、別に。アンタも変わんないね」

「どういうこと?」

「そうやって何でも深刻に考える癖だよ。早死にしちゃうよ?」

「そう、かな」

 たしかに、僕には昔から呆と考え込む癖があった。つまらないことを考える癖が、いつの間にやらついてしまっていた。

「ま、私はアンタのそういうところを気に入ってんだけどね」

「へぇ」

「だから私は、アンタとは寝たくないな」

「どうして?」

「なに、寝たいの?」

「そうじゃなくて。どうして僕はダメなの?」

「だって、必要ないでしょ」

 それはそうだと思う反面、なんだか答になっていない気もした。しかし僕が追及する前に、彼女が前方を指さした。

「お、アレだアレだ。今日は奢ったげるよ、先刻さっきの人が太っ腹で儲かったからさ」

 そう言って彼女は、どこか気怠げな笑顔を向けた。

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