或る夕のこと

 金曜日の夕刻である。

 明日も明後日も休みだけれど何一つとして予定のない僕は、窓外を呆と眺めていた。腹が減ったが動き出すのが面倒で、もう三十分ほど、こうして座り込んでいるばかりだ。あいにく、冷蔵庫はほとんど伽藍堂の有様である。待っていても飯は出てこないので、仕方なく立ち上がると、近所のコンビニへ足を運んだ。

 コンビニというのは近場にあると実に便利である。安くはないが、生活において痒くなるべきところに、きちんと手が届く。僕には必要ないけれど、避妊具でさえ置いてあるのだから驚きである。日の暮れた町の中で、きちんと姿勢を正して営業しているコンビニを見ると、僕は少し嬉しくなって、なんだか独りではないような気がする。冬の寒い夕暮れなどには、殊にそんな感じがする。

 夏の今は、店内の清潔に冷やされた空気がなんとも言えず有難いのであった。自動ドアをするりと抜けて入店してから、少し息を深くした。おそらくは学生であろう若い男性店員の崩れた挨拶ですら、ちょっと好ましく思われた。こういう時、他人や世界は少しだけ僕に親しく、街ゆく人々が隣人であるかに幻覚される。

 そんな、誤差みたいな安心感に若干気を良くした僕は、弁当を物色する。品揃えも大したものである。数分悩んだ末、麻婆丼を選び取った。続いて冷えた緑茶をペットボトルの群れから抜き取り、雑誌コーナーを見るともなく眺めてから、ペットボトルが汗をかき始める前にレジに並ぶ。

 前の二人の清算の後に進み出ると、そこに立っていた店員は小さく笑った。

「おっす」

「やあ」

「またコンビニ飯か?体に悪いぜ」

「店員の君に言われるとはね」

「温める?」

「頼むよ」

 口は動かしながらも正確に業務をこなし、「お客様を想ってのことでございます」などと吐かしてみせる。器用な男だ。僕は提示された金額を確認してから千円札をトレーに置くと、はしたの小銭の調整にかかった。一円玉や十円玉で財布が肥るのは嬉しくない。

「そういや、ヨタカのやつが探してたぞ」

「ヨタカ?何の用で?」

「知らん。今日な、購買の前で鉢合わせたんだ。お前を見かけてないかってな」

「そう。気が向いたら話してみるよ」

「おー、そうしてやってくれ」

 そう言って、彼は代金を素早く回収すると、キリの良いお釣りを手渡してくれた。電子レンジが止まるまで、まだ少しかかりそうだ。

 彼はカウンターに手をつくと、露骨に訝しがった振りで首を傾げる。

「しかし、どうしてお前は、そんなにヨタカに気に入られてるんだ?」

「別に、気に入られてはないよ。気に入られたくもないし」

「そうか?や、でもアイツは、ずいぶんお前のこと気に入ってるって言ってたぞ」

「へえ、そうなんだ」

「相変わらずドライなやつだなぁ。そんなんじゃ、人生もカッサカサになっちまうぞ」

「大きなお世話だよ」

「つまんねぇの」

「それとも何?僕が彼女と恋仲になるとでも?」

「なったらおもしれーかな、とは思う」

 そう言って彼がニッと笑った時、レンジが無機質に鳴った。


 両方レジ袋に入れてもらったけど、お茶がぬるむのを恐れて、結局ボトルは手に持った。せっかくなので封を切り、ちびちびやりながら歩く。暮れかかった陽が、藍色の夜空から追い出されようとしていた。街灯に群がる羽虫の影がいかにも夏らしい。

 ガムと呼ばれる彼はコンビニのアルバイト店員であり、僕の同級生でもある。ガムはもちろんあだ名であり、その由来は、呼吸さながらにガムを食い続けていることだ。あやつはガムベースを分解してブドウ糖に変える回路を持っているのだとかいう出鱈目すら耳にしたことがある。

 いわゆる陽キャである彼は講義においても最前列か、それに近いようなところに座っていることが多いが、やはりガムを含んでいる。それによって一度、こっぴどく注意を受けているところを見かけたが、やめるつもりもないらしい。目立つことを恐れぬ人間は、生まれつき心臓が頑丈に設計されているようである。

 そんな様子を僕は教室後方から眺めていたから、彼のことは知っていた。だから最寄りのコンビニで彼がアルバイトに精を出していることも、大学一年の頃から知っていた。しかし向こうは僕のことを承知していなかったらしく、コンビニで出くわしても知らぬ顔、もとい店員顔で接してくるのであった。これは都合が好かった。頻繁に出入りしても気まずくならない。

 しめしめと、僕は素知らぬ顔でコンビニを利用し続けていたが、その快適な環境は一年の後半、英語の講義にてぶち壊されることと相成った。プレゼンテーションに関する講義であったので、履修者どうしで話し合う機会が多々あったのだ。そこに彼がいた。

 ちなみに、彼と僕が交わした最初の会話はこんな具合だった。

「あんまり話したことないよな」

「あんまりどころじゃないかもしれない」

「そうか。ま、よろしくな」

「うん、よろしく」

「ところでさ、このinsaneって単語、意味判るか?」

「さあ、なんだったろう。陽キャとか、そんな意味じゃなかっただろうか」

「あ、マジで?ってか、もしかして結構英語できるカンジ?」

「人並みには」

「助かるわー。一緒に頑張ろうな、相棒!」

 ちなみにinsaneの正しい意味は知っていた。


 まもなく帰宅しようかというとき、階段の手前で誰かとすれ違った。

 いつもぼんやりしているので、知人のそばを通っても気づかないことの多い僕だが、この時ばかりはハッとして振り返った。雨上がりみたいな花みたいな、よく判らない良い匂いがしたからだ。その人は一足先に気付いていたらしく、すでに体をこちらへ向けて、柔らかに微笑んでいた。

「こんばんは」と彼女は言った。

「こんばんは。こんな時間にどちらへ?」

「ちょっと買い物にね。君は、晩御飯かな?」

「はい、コンビニまで行ってました。麻婆丼です」

「美味しそう。でも、また痩せたんじゃないの?ちゃんと食べてる?」

 レジ袋をプラプラ揺すって、僕は苦笑した。星が見えているくらいだから、彼女の表情の全てを知ることはできない。殊に新月の今日は町全体が闇に溶け、そばの街灯が頼りなく僕らを半分こずつに照らしているだけだ。それでも、きっと慈母が如き有様であろう彼女の顔を脳内で補完するのは、ぜんぜん難しいことではなかった。

「食べてますよ。アサガオさんこそ、もう少し肥っても可いんじゃないですか?」

「ダイエット中なの知ってて言ってる?」

 そう答えてくすくす笑ったが、彼女のシルエットはやはり細くて女性的だった。僕は肩をすくめる。

「餓死しちゃいますよ。少しはヨタカの図太さを見習ったらどうです?」

「あー、言ったね。ヨタカちゃんに告げ口しちゃおーっと」

「勘弁してください」

 もっとも、その程度の誹りで彼女が傷つくわけも怒るはずもないけれど。人を視る目に自信はないが、そればかりはおそらく正しいであろうと思われる。

 アサガオさんはふっと夜空を見上げた。清く美人な彼女がそうしていると、映画のワンシーンみたいだった。ぬるい風が吹いてきて、彼女の黒髪を小さく揺らした。

「ヨタカちゃん、今日も、なのかな」

「おそらく」

「心配ね…ひどい目に遭ってなければいいんだけれど」

「アイツに限っては、多少ひどい目に遭った方がいいんじゃないですか?少しは懲りるでしょう」

「またそんなこと言って、ほんとは、君も心配なんでしょう」

「ぜんぜん。僕は、人の生き方について否定も肯定もしないつもりですから」

 アサガオさんはくすくす笑って、「ブレないわね」と呟いた。これには僕も笑った。ヨタカと知り合ったとき──僕がガムと知り合って少し経った頃を思い出す。そういえばあの日も新月であった。

『別に、否定も肯定もしなくていいよ。そんなものが私の人生に触れることなんて期待してないから』

 僕なんかよりもずっと澄んだ瞳を持っている彼女は、けれども遠いところを眺めながらそんなことを呟いていた。

「アイツは同情や高説を求めてませんよ。それだけは確かです」

「…そうかもしれないわね」

「それじゃあ、また」

「ええ」

 僕は彼女に背を向けると、錆びた一段目に足をかけた。

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