あの日、自遊長屋にて
灰色テッポ
第1話 相楽
夜の匂いが未練がましくその男にまとわりついていた。それはもしかしたら、その男がまとった酒の匂いのせいかもしれない。じきに訪れる朝がやけに憂鬱に思えた。
神田明神下から本郷の武家屋敷が立ち並ぶ坂を上っていくと、加賀前田家の広大な屋敷の塀が見えてくる。その手前を左に折れて細い横道を行けば大きな火除の空地があった。
そこにはすすきが一面に生い茂り、薄っすらと明るんできた町にきらきらとした色を放っている。
男はそこまで来て立ち止まると、ひとつ深い溜め息をついて呟いた。
「どうしてあんな道端で……俺は寝込んでしまっていたのだろう……」
そしてやり切れないという顔をして首を振り、「だが、いつものことだ」と云って再び歩き出した。
その火除の空地を突っ切ると樹木が鬱蒼と立ち並ぶ古い寺の裏に出る。その樹々からは次々と枯葉が舞い散っており、男はそれを見上げると、(今日まで働きどおしで、お前らも大分疲れたんだな)と、枯葉たちの気持ちを思いやった。
天空より落ちてくる一枚の枯葉を手に取り、「俺も大分疲れたよ……」そう酒臭い息でまた独り言を云ったのだった。
枯葉の舞い散る横道を抜けるとすぐに、向かい合った二棟の裏長屋に突き当たる。
日当たりは余り良くはないが、間口は二間あり、狭いながらも四畳半と三畳の二部屋を持つ、小ざっぱりとした長屋である。その入り口には「
(こんな生活がいつまで続くのか……)心の中でそう愚痴ともいえる独り言を呟いた男は、今の仕事である『用心棒』の事を考えて眉を寄せたようだ────
その男は
相楽は用心棒の仕事が嫌いなのである。武士という看板だけで浪人者が大きな商家などに雇われ、雇われた浪人は武家という面目を保とうと雇い主にも無駄に威張ってみせたりする。
しかしその実、雇い主はそんな浪人者を軽蔑し、用心棒をしている浪人もまた己の浅ましさに嫌気がさすという。そんな不健全な雇用関係はどことなく退廃した空気を作りだし、相楽にはそれが息苦しく思えてならない。
「なにが武士だ……」
相楽はそう吐き捨てながら左腰に差してある大刀を、やり切れないという目でちらりと見た。
(こんなことの為に、俺は剣の修業をしてきたわけではないのだがな……)
相楽がこんなことと云ったのは、いま相楽が用心棒として雇われている、ある商家での出来事を思い出したからであった。
その商家は金貸し業を営んでおり、その日も四十歳代とみられる浪人者が店にきていて、しきりと借金の願いを訴えていたようだ。
「ご主人、頼む、あと二両、いや一両でもいい、助けると思って貸してはくれぬか?」
そう云って頭を下げる浪人者は、自身のその目を神経質そうにギョロギョロと動かしている。いかにも着たきりと判る着物からは嫌な臭いがし、彼を店の隅から眺めていた相楽のところまで届いてきていた。
「そうは云われましても、貴方様にはもう五両三分もお貸ししておりますからなあ、まずはそれをご返済なされてからでないと、無理な話というものですな」そう断った商家の主の目つきは、その浪人者をいかにも軽蔑しているようにみえる。
「いや、この次には必ず利息だけでも入れる、だから何とか頼む」
こういうやり取りに見飽きていた相楽は、心の中で溜め息をつくと、(どんな事情があるのか知らぬが、浪人の身でそんな大金なにに使うのやら……)と半ばうんざりした気持ちで聞いている。するとその浪人者がいきなり両手をついて主人に云ったのだ。
「妻が病で臥せっておる、もしかしたらコロリかもしれぬ、その為の
その途端、相楽は思わず腰を浮かせて(なんということだ……)と呟いた。そしていかにも気の毒だという顔をすると、自分からも店の主人にお願いしようと振り向く。だがその前に主人は鼻でひとつ笑いながら、意外なことを話し出したのだった。
「そういう芝居はいりませんので」
(なに?)相楽はおもわず声を出しそうになるほど驚いた。
「貴方様のお連れ合いが、とっくに貴方様をお見限りになって家を出ていかれたことは、もう承知しております。お武家様がみっともない真似をなさるものじゃありませんよ」そう云って呆れ顔をした主人の顔は、武士をやり込めて楽しんでいるかのようにも見える。
とはいえそれは図星であったのだろう、浪人者はみるみる顔を赤くすると、「だ、黙れ下郎、商人風情がいい気になるな!」と云って刀を抜こうとした。
だがそれは不可能であったようだ。その時すでに相楽は浪人者の側にいて、その手で刀が抜けぬよう押さえていたのだから。
「馬鹿な真似はおよしなさい」
浪人者はいつ相楽が側にきたのかさえ分からなかった。それ故ひどく仰天していたようであったが、頭に血がのぼっていたのだろう、今度は相楽へと嚙みつく。
「馬鹿な真似だと? 貴様は武士が侮辱されたのをみて、それでも平気なのかっ」
「いやしかし、刀を抜くのは物騒に過ぎます」と相楽は困った顔する。
すると浪人者は相楽を睨みつけ、声を震わせながら「貴様のような商人の犬に成り下がった者には、武士の面目の何たるかなど分からんのだ」そう言葉を吐き捨てたのであった。
結局このあと、店の主人がこれ以上騒ぎを起こすなら町方を呼ぶと云った為、浪人者は悪態をつきながら帰っていった。しかし相楽の気持ちはやけにざわついたままだ。
店の主人は「やれやれ」と意地の悪い顔をして、「どうせ貸しても全部博打ですってしまうのですよ、お武家もああなると哀れなものですなあ」と、誰にとでもなく云って店の奥へ行ってしまったようである。
相楽はいつか自分もあの浪人者のように堕落してしまうのではないかと、そう思うと恐ろしくもあり、やり切れなくもなっていた。
結局その日は塞いだ気持ちを酒でまぎらわし、深酒をすることとなったわけだが、今日もまた同じような理由で、相楽は深酒をして朝帰りをしていたのである。
長屋の木戸をくぐった相楽は、まだ寝静まっていて誰もいないそこを見渡しながら、大きくため息をつく。そして「みな生きるために必死……か」と呟いて、一番端の自分の部屋へと入っていったのだった────
浪人暮らしを始めてからおよそ六年。相楽自身も必死に生きてきた。
むろん相楽も元は侍である。西国の小大名の家臣で、五十石を頂き馬廻りを勤めていたが、止むを得ない事情からその藩を、妻を連れて出奔することとなったのであった。
そういう行き立てで相楽と妻はこの江戸に流れ着き、浪人暮らしをすることとなる。江戸には十七歳の時に二年間、藩費で剣術修行の留学の為に来ていたので、相楽にとって初めての土地ではない。
故郷の土地以外で知る土地といえば江戸しかない相楽にとって、自然足はそこへと向かった。また江戸でなら何とか暮らしていけるかもしれないという漠然とした思いもあったらしい。
しかし浪人となって再び来るとなると話が全く違ったようだ。
初めの頃、相楽はその心細さに、神経がどうにかなってしまいそうだと思ったものだった。当たり前のことだが生まれた時から侍の家で育ち、侍奉公しか知らずに生きてきた。
そんな男が突然に市井での生活など出来るわけがないのである。早い話が夫婦揃っての世間知らずなのであった。
住居を借りたくても借り方もわからない。仕事を見つけたくとも探し方もわからない。結果だらだらと旅籠暮らしが続くこととなれば、あれよあれよという間に
浮世の風に晒されたこの夫婦は、すぐにそのことが身に染みた。
もちろん新たに仕官することも考えていたし、実際いくつもの藩の門戸を叩きもした。
しかしどの藩の江戸屋敷でも失笑つきの門前払いで終わったのは、まあそれが当然というものだ。紹介状も持たぬ浪人者を屋敷に入れるほど世の中は甘くはない。
なんだかこれでは相楽が馬鹿みたいな様に思えてくるが、相楽は相楽なりに一応仕官できるに足るだけの根拠はもっていた。
それは相楽が国許では誰もが認める、優れた剣士であったということだ。むろんすぐに剣術なんかより和算の勉強をしておけば良かったと、激しく後悔することとなる。
泰平の世では役にも立たぬ剣の腕よりも、経理の腕のほうがずっと商品価値があったようだ。
ここで相楽の名誉のために申し上げておくが、彼がかなりな剣術の腕前であることは事実であり、念流の免許を二年間の江戸留学のあいだに皆伝もしている。
これは当時に相楽を天才と呼ぶ者があったほど、その道場では大きな出来事であったらしい。特に体捌きにおいての速さは道場随一の神速といわれ、師範でさえ遠く及ばなかったほどである。
ならばその留学先の道場へ訪ねれば、上手くいけば師範代の職に就けることもあるかもしれず、それが叶わずとも、どこか他の道場への紹介くらいはして貰えるのではないかと考えるのが普通であろう。
実際、早々に仕官の道を諦めた相楽は、何度もそのことを考えたようである。それなのに再び江戸に来て六年になる今でも、留学の時に学んだ道場へは一度も挨拶に行った事がない。
(浪人となったこの身で先生にお会いするなど、とてもとても……)
それほど浪人とは武家社会の中では肩身の狭い存在なのである。しかし相楽の場合はむしろその性分から会えなかったと云えよう。
主君の為に先生から学んだはずの剣の技。それを浪人して自ら主君を捨てたことを、相楽は先生への裏切りだと思っている、会えるはずもない。つまりはこの男、真面目なのだ。
真面目ゆえ、生きづらい事もまた多いのかもしれぬ。
相楽は部屋に入り水瓶から柄杓で水をすくうと、一気にその水を飲み干すのだった──
相楽が住居にしているこの裏長屋は、本来は
その地主という人が風狂な人で、自分でこの裏長屋に「自遊長屋」と名をつけたらしい。そんな事を大家の菜衛門に聞いたような覚えが相楽にはあった。
それにしても自遊という漢字を相楽はいままで見た事がない。おそらく地主の笠次郎が考えた造語なのであろうと、勝手に思ったりもしている。
江戸の朝は早いといっても、まだ明け六つ(午前六時)までには間があり、夜が明けたばかりのこの時間は寝ている者の方が多い。
しかしながら長屋の一部屋からは何かを小さく叩く音が絶え間なく聞こえてくる。
キンキンという単調な心地よい拍子のとられたこの音は、何か金属を加工している音のようにも思えた。相楽はその音をぼんやりと聞きながら、着替えもせずにいつしか眠りに落ちていった。
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