第4話 尊皇攘夷

 この年の文久二年(一八六二年)は、年の初めから恐ろしいような事件が起こっている。幕府老中の安藤信正が水戸の浪士に襲われ負傷したのだ。いわゆる坂下門外の変である。

 二年前には桜田門外で当時の大老井伊直弼が襲撃されて殺されていた。江戸では再びそのことが思い起こされ、重い空気が御城下にたち込めていたようだ。

 他にも京都では寺田屋事件があり、品川の東禅寺におかれたイギリス公使館が襲撃されたり、神奈川で島津候の家来がイギリス人を四人殺したり(生麦事件)と、日本国中が「尊皇攘夷」という不穏な気配を充満させているような具合なのである。


 しかし世の中がどう動き、国がどう変わろうと、人々には生活があり、生きていくためには働かねばならぬ。それはいつの時代でも変わらぬ定め事であった。



 お花が今いる上野も相変わらず人で賑わっていた。ここ上野は少し外れて不忍池の方に歩いていけば、そこはもう全く違う場所に来たかと思うほど静かで、さらに足を伸ばして根津まで行けば、まるで田舎にも似たような、のどかな場所になる。


 その上野でとりわけ賑やかな下谷広小路の一角に、桔梗屋という小間物屋があった。虎蔵はその店を得意先としており、もう二十年にはなる付き合いであろうか、今日もお花はその桔梗屋に虎蔵の作った簪や、鎖などの小物を納めに来ていたのである。


 そしていま、少し早足になって帰りを急ぐお花の顔が、心なしか明るくみえるのには訳があった。


(夜吉っちゃん、喜ぶだろうな)


 何を喜ぶかといえば、桔梗屋の主人がお花にこう云ったのだ。最近夜吉の簪がとても評判がいい、そこで今度まとまった注文をするかもしれないと夜吉に伝えてくれと。


 いまでも虎蔵のもとで下職を続けている夜吉であったが、付き合いの長い桔梗屋は虎蔵一家の内情もよく知っている。事実上の跡継ぎとして夜吉のことを認識しており、ただの下職としてはみていない。ゆえに独り立ちした職人と同様に夜吉へ注文をだすこともあったようだ。


 職人として自分の技術が評価されることほど嬉しいことはなかろう。そのことは職人の娘として育ったお花が一番よく知っている。だからこそ、その話を直ぐにでも夜吉に伝えたいと心が急く。


 秋も深まって空は益々高く、少し寒いくらいの風が広小路を吹き抜けていくと、お花は目を細めてその蒼天を仰ぎ見た。


(それにしても……)とお花は思った。夜吉が自分を想う気持ちのことである。


 お花もまた子供の頃から、嫁にいくなら夜吉なのかなと漠然と思い続けていたようだ。虎蔵にだって異存があるわけがないことも知っていた。それなのに何故、自分はそのことを真っ直ぐに考えることを避けているのだろうか?


(そっか、あたし、怖いんだな……)


 もちろんそれは嫁にいくことがではない。お花は夜吉と兄妹同然に育ってきている。そして兄としての夜吉が大好きでもあった。それがもし自分が嫁にいくことになれば、夜吉はもう兄ではなく亭主となるのだ。


(もうこの世に自分の大好きだった兄はいなくなってしまう……)


 それを思うとき、お花は大切な何かを失ってしまうような感覚に囚われ、無性に怖くなってしまうのであった。



 お花はそのような事をぼんやりと考えながら歩いていたのだが──


「おい、気をつけろ!」といきなり怒鳴られて、あわてて我へと返り冷や汗が吹出す。それは目の前にいた武士と危うくぶつかりそうになったからだ。


「ごめんなさい!」と云って横へ飛びのいたお花を、怒鳴りつけた男は暫らく睨みつけたままでいた。


 浪人者であろうか、やけに目がぎらぎらとしている。お花は自分の体が震えだしているのを感じていた。なんとか謝ろうと口をひらくのだが、その震えが歯につたわり言葉がでてこない。そんなお花の様子をみていた浪人者も、やがてフンと鼻を鳴らして不機嫌そうに歩いていってしまった。


「怖かった……」


 ようやく震えが収まったお花は、思わず小さく声をだしていた。そしてひとつ大きく息をつくと、(昔はこんな町ではなかったのに……)と心の中で独りごちたのである。


 子供の頃から何度もこの道を往復してきたお花である。それは仕事の用事で家から桔梗屋までを、母親の手に引かれながら歩いたほんの幼い頃からのことで、人々が活き活きとしたこの上野の町並みを、お花は心弾む思いで眺めてきたものだ。


(さっきの怖かったお武家さまもそうだけど、こういう人たちが現れてからこの町も変わってしまった)そう思ってお花が見た先にいたのは、三~五人で群れて歩く浪人者のような男たちであった。



 この異様な雰囲気を纏って歩いていく浪人たちは、誰の目から見てもただの浪人たちではない。気が付くとそのような集団が其処此処に歩いている。

 彼らの中には御家人や江戸では聞きなれない言葉を使うどこかの家中も混じっていて、それは嘉永六年(一八五三年)にペリーが黒船で来航して以来の政情不安を物語っているようにも感じた。


 黒船がやって来た時、お花はまだ十歳の子供で、その黒船が何を意味していたかは分からなかったが、それでも町中には大人たちの興奮が溢れており、自分も訳もわからぬままに興奮していたことを覚えている。


 あれから足掛け十年が経つ。その間に黒船が来る以前では考えられなかった、血腥い事件が次々とおこっていった。そんな時代の渦中で育っていったお花は、今にこの江戸で恐ろしいような、何か取り返しのつかないような出来事が起こるのではないかと、漠然とした不安に襲われるのであった。


「尊皇攘夷──」お花はわれ知らずそう呟いて思った。この町にいる異様な武士の集団も、きっと尊皇攘夷を掲げている人たちなのであろう。

 天子様を敬い悪い異人を追い出す事、そのくらいにしか尊皇攘夷を分からないお花であったが、最近では彼らから倒幕という声もきく。


 その志はともかく、正直言ってお花には彼らが不気味でもあり、好きにはなれそうもない人たちにも思える。

 もしかするとそれは、江戸という徳川家の城下町で暮らす町人たちにとって、少なからぬ共通した気持ちであったのかもしれない。


(相楽さんも、ああいう人たちのお仲間になることがあるんだろうか……)


 そんなことをふと考えたとき、お花は何だか急に相楽が自分の知っている相楽でなくなったような気がして、怖いような気持ちになってしまった。お花はその自分の考えを打ち消すかのように慌てて首を振ったようだ。


(だめだな、あたしって)


 おそらくお花はいま幸せなのだろう。そしてそのいまがずっと続けばいいのにと、心の底では思っているのかもしれない。しかしいまとは違う日がやがて必ず訪れる予感に、お花はもう気づかぬふりをしては居られないことも知っていた。

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