第3話 味噌汁
部屋に戻ると
(ちえ、なっちゃいねえや)
夜吉は先ほどのやり取りを思い浮かべ、数回頭を振って苦い顔をした。すると今度は寝転んだまま懐から簪を取り出すと、真剣な目をしてじっと眺めている。それは朝顔の花と蔓が彫り込まれた平打ちの簪で、若い娘によく似合いそうな洒落たつくりをしていた。
「お花のやつ、喜んでくれっかなあ……」
簪を作り上げた興奮のまま、勢いでお花に渡そうとしてみたのだが、それも失敗したいま、興奮も冷めてやや不安がもたげてきたらしい。
夜吉は
一人っ子であったため、まさにその時に天涯孤独となってしまったのだ。長屋の者総出で夜吉の親戚を探したが、結局は見つからず、名乗りをあげてくる者も一人もいなかった。
すでに一緒の長屋に暮らしていた虎蔵の家族は、そんな夜吉を哀れに思ったのだろう、自分たちで引き取って育てる事に決めた。
虎蔵は夜吉が十歳になるとその将来を考え、まずは生きていくための仕事を身につけさせようと、錺り職人としての技能を仕込みはじめる。
夜吉も錺り職という仕事に性分があっていたのか、それとも虎蔵に子供ながらに恩義を感じていたからなのか、ともかく素直に努力した。
そういうわけで夜吉とお花は
その頃から夜吉はひそかに、お花を自分の嫁に貰おうとも決めていた。もちろんその気持ちをお花に打ち明けたわけではない。だからお花といえば、そんな夜吉の気持ちなどお構い無しに相変わらず兄妹として振舞っている。
だが夜吉はそれで満足であった。孤児になった自分を育ててくれた恩もあろうが、なによりこの血の繋がらない家族が大好きだったからだ。
ちょうど同じころ、お花は夜吉のことをぼんやりと考えていた。もちろん八助との喧嘩のことではない、自分に向けられた夜吉の気持ちのことをである。
(ほんと朝っぱらかなにいってんだか……わけわかんない)
どことなく落ち着きのない感じのお花は、どうやら下心がどうのというあたりから聞いていたらしく、簪のことはまだ知らないのだろう。小さくため息をつくと、朝餉のたくあんをぽりぽりと音をたてて食べた。
黙って食べている虎蔵の横では、女の子がちょこんと座って不器用な手付きをしながら箸を使い、ご飯を食べている。その満で三歳になる女の子の口の端からご飯がこぼれると、お花はそれを拾って自分の口に入れた。
「ととさま、まだあ? おちごとまななの?」女の子はまだ回らない口でそう云うと虎蔵が、「確かに遅えなあ、おいお花、ちょっと相楽さんとこ見て来い」と応える。
「そうね、ちょっと遅いわね」そう云いながらお花は立ち上がり、「もしかしたらもう帰っているかもしれないわね」と云って女の子の頬っぺたについているご飯粒をつまんで見せた。
相楽の部屋の前でお花が声を掛けると、果たして相楽が慌てて戸を開けて出てきたようだ。
「いや、これはお花殿! 申し訳ない、迎えにいくはずが、つい寝入ってしまいました」
そう云って詫びる相楽の事は気にもせずに、お花は云う。
「
雫と呼ばれたさっきの女の子は相楽の娘であり、たった一人の家族である。少し言葉が遅いことを除けば、幸いにも健康に育ってくれていた。
相楽遼之進が以前は小大名の家臣であり、出奔した時にはすでに妻帯していたことは前にも述べた。江戸に流れ着いた相楽は、その妻に苦労をかけてはならぬと、その一心だけで頑張ってきたのだ。
体力も神経もすり減らし、心身共に疲れは溜まる一方であったが、元々病弱な妻にはそんな姿は見せまいと気丈に振舞ってきた。
武士の誇りも捨てて人足仕事さえ厭わずやった。だが相楽も人間である。そんな生活が三年続き、もうこれ以上は頑張れないと思ったとき、妻が子供を身篭ったと知ったのだった。
その時の相楽の喜びは計り知れない。ふたたびやる気を取り戻した相楽は、死ぬ気で妻と生まれてくる我が子のために働くのである。そして雫が生まれるという大きな喜びを迎えると同時に、相楽は妻を失った。難産に耐えられる体ではなかったのだ────
この長屋の住人たちはそんな相楽の一部始終を目撃していたから、相楽に対しての同情は惜しむわけもない。何かにつけて味方となり、みんなで力になってきた。
生まれたての赤子の面倒は長屋中の女房たちがし、乳の余った女を隣町から捜してきたのは大家の
もちろん困った時はお互い様とはいうが、あれから三年、今もなお相楽が長屋の人たちに親切にされているのには、やはり相楽の人柄による理由もあったろう。
武家なのに腰が低く、住人たちにも愛想よく進んで話しかけ、長屋の
いま相楽は人生に疲れ、酒で気持ちを紛らわし、ともすれば溺れがちになっていることは否めまい。しかし住人の誰一人として、それを批判的な目で見ようとはしていない。むしろみんな同情し静かに見守っているようであった。
「うまいっ!」相楽はそう云ってお花の作った味噌汁に舌鼓を打つ、「お花殿の味噌汁は格別に美味でござるな」
「大げさですよ、相楽さん」お花はそう云って、
実際ただの青菜の味噌汁なのだが、深酒をした後のあつあつの味噌汁は相楽に限らずうまいものなのである。
相楽は横に座る娘の雫を抱き寄せると、自分の膝の上に乗せて味噌汁を飲ませようとした。
「ほれ、雫、こぼちゃないでめちあがれ」そんな幼児言葉をわざわざ使って、雫の機嫌を取ろうとすると、「いやっ! ととさま、くちゃい、へんなにおいつるもの」そう云って雫は顔をそむけた。
相楽は自分の息が酒臭いと気づき、雫に拒まれたことに狼狽する。
「相楽さん、いけませんよ、そんなお行儀のわるい食べ方を雫ちゃんにさせて」
お花は虎蔵にお茶を注ぎながらそう云った。
「いまどき町人だって、そんな行儀のわるい食べさせ方はさせやしませんよ、ましてや雫ちゃんはお武家様のお子です」
「やっ! これはごもっとも」
「雫ちゃんをお可愛がりなのは分かりますけど、もうご自分で立派に食べられるんですから」
相楽はお花のその言葉を聞いて慌てて雫を膝から下ろし、自分の隣に座らせると「いやはや、これは失敗でした」そう云って照れて苦笑いをする。
すると虎蔵がお花をじろりと睨み、「おい、お花、口が過ぎるぞ」と少し怖い声をだす。虎蔵は無口な男だが、物事に無関心ではない。たしなめられたお花は素直に、「すみません」と謝るのであった。
さて夜吉である。この男、徹夜の疲れから部屋で寝ているかと思えばそうではない。いまもお花の部屋の前を不決断にうろうろしているのだ。そしてその様子を外で遊んでいた八助の子供たちが不審そうに横目で見ていた。
もう一度お花に簪を渡そうとしているのかといえばそれも違う。さっきお花が相楽を呼びにきた声を聞いて、居ても立ってもいられなくなったというのが本当であった。
(お花のやつは相楽さんに惚れているんだろうか……)
いま、夜吉の頭の中はそんな考えが膨らんで一杯になっていた。そんな事を考えるようになったのも、最近とくに相楽の娘の雫をお花の家で預かることが多くなり、そのせいもあって相楽が頻繁に飯を馳走になったりする事が増えたせいであろう。
そんな時のお花が妙に浮き浮きとして嬉しそうに見えるのが、夜吉の心配の種だった。
(けっ、町人とお武家とじゃあどうにもなりゃしねえさ!)
そう考えては自分を云い聞かせている夜吉であったが、不安は収まりそうもなかった。しかも厄介なことに夜吉は相楽のことも好きであったので、自然独りで悶々とすることが多くなる。
(今日も相楽さんはお花んちで飯か……うっ、いけねえ! こりゃいけねえっ)
夜吉はとうとう我慢できなくなり、そうっとお花の部屋の戸を開けて中を覗いた。
この夜吉の見るからに怪しい行動を、八助の子供たちが見逃すわけがない。三人の子供たちは目を輝かせ、嬉々として大声で叫んだ。
「夜吉のやつが悪いことをしようとしているっ!」
飛び上がらんばかりにして驚いた夜吉は、口をぱくぱくとさせ意味不明な身振りをしながら、「なっ、ばかっ、てめえこの餓鬼っ、あっちいけ!」と喉で声をころして狼狽えている姿は、流石に大人としてどうかと思う。
当然ながら八助の子供たちはそんな夜吉を面白がった。ますます囃し立てることに容赦はない。
「やめろっ、しーーーっ、静かにしろ!」
必死で子供たちを黙らそうとした夜吉であったが、むろんその甲斐もなくお花が戸を開けて顔を出し、不審そうに夜吉を見たのは云うまでも無かろう。
「……なにしてんのよ、あんたは」
「うっ、いや、えっと……うん、腹がへっちゃって……」
夜吉が咄嗟に云った嘘の言い訳に、お花はまだ不審そうな顔をしたが、やがて苦笑いをして、「おはいりよ、夜吉ちゃん、あんたの分くらいまだあるから」と云って部屋の中に入っていった。
夜吉が不決断にまだそこに立っていると、八助の三人の子供たちがニヤニヤしながら夜吉を見ており、わざとらしく囁きあっている。
「みてごらん、あれが一人前の男のすることみたいだよ、うん、おぼえとこう」などと聞こえてくるではないか。
(うううっ……)夜吉はすっかり泣きそうな顔になってしまったのだった。
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