第2話 長屋の朝

 キンキン、キンキン────


 何かを細工するかの様に小さく叩かれる金属音。微睡みの中でそれを聞きながら相楽は心地良いなと思った。


(真剣で迷いのない良い音だ……)


 自分の仕事と真直ぐに向き合えるのは幸せな事だな──そんな当たり前のことを羨ましく感じてしまう己に嫌気がさしたのだろうか、相楽は少し不貞腐れる様に寝返りをうつ。


 やがて長屋の一部屋から聞こえてきていた、キンキン──という金属音が止んだ時、薄い寝息だけがその音に代わって残っていた。



「ふう……よし、できたぜ」


 その金属音を出していた男は、いま出来上がったばかりの一本のかんざしを手に取ると、真剣な眼差しでその細部を睨んでい、やがて満足そうに、「うん、悪くねえ。俺にしちゃあ上出来だ」と云って深く息を吐く。


 この男の名は夜吉よるきちという。この長屋で暮らすかざりり職人であり、歳は二十三になるが、未だ独り者なのは江戸では珍しい事ではない。

 むしろ職人は未婚の者の方が多いくらいで、一人で暮らしていても特に不便を感じることの無い都市生活者の未婚率の高さは、昔も現代もおなじことが云えた。


 夜吉が簪を丁寧に布で磨いていると、障子の隙間から射し込んできた光と共に明け六つの鐘が鳴る。それを合図にしたかのように、さっき出来あがったばかりの簪を懐に収めて部屋の外へと出ていった。


「お花のやつはもう起きているかな……」夜吉はそう呟きながら、井戸端のあたりを見回してみたが、お花という女はいないようである。


「まだ来てねえか……」


 そのとき不意に自分の背後で人の気配を感じた夜吉は、ぎくりとして振り向く。するとそこには、四十がらみの小太りで小柄な男が陰気な顔をして立っているではないか。


「な、なんだ八っつあんかよ、おどかすない」夜吉はそれが隣に住む八助はちすけだと分かると、妙に陰気な顔をしているのが気になった、「どうしたい? 朝っぱらからしけたつらして……」


「おめえのおかげよ、夜吉」


「おれの?」


「おおとも、おめえだ」


 八助はひきつった笑顔をし、辛抱がきれたというふうに怒鳴りだす、「しけたつらだと? こんちきしょう! 一晩中チンカンチンカン耳障りな音立てやがって、こちとらちっとも眠れやしねえっ、それをこのつらがどうしたって? えっ!」


 夜吉は八助にそう云われて、明らかに自分のしくじりを認めた顔をした。


「こいつはすまねえ、またやっちまったなあ」夜吉はそう云って頭をかいた、「いやこんなつもりじゃあなかったんだが、どうも俺ぁ夢中になると他のことがてんで見えなくなるっていうか……いやそうじゃねえ、言い訳とかなしだ、俺が悪かった、勘弁してくんねえ八っつあん」


 八助はそう云って素直に頭を下げた夜吉をみて、途端に機嫌がなおった。なんとも単純な男である。


「なあに、男なら仕事に熱心になるってえのは悪いことじゃねえさ」そう云うと今度はいかにも話のわかる年長者な風を装いはじめたものだ。「気にするない」


「ありがてえ、恩に着るぜ八っつあん」


「なあに、友達のよしみよ、いいってこった」


 つまるところ八助も大して腹を立てていたわけでもなく、二人はいつもこんな具合のやり取りをしながら仲良く付き合っているのだろう。


 八助はポンと夜吉の肩に手をのせて続けた、「しかしあれだ、急ぎの仕事ってえのはおだやかじゃねえ、かなりあれだな、稼ぎのほうも、うん、やっぱりあれだろ?」


「あれだあれだって、なにがあれなんだよ」


「つまりあれよ、このところ酒ともご無沙汰なもんだからさ、あれだ、たっぷり頂戴する手間賃がちょっぴりおいらの酒代にばけてもいいんじゃねえかい?」そう云って八助は少し下卑た笑いをうかべたようだ。


「一晩中眠れねえのを我慢したんだぜ? やっぱあれだと思うんだがな」


 すると夜吉は少し目を細めて、「ははぁん」と云い、「どうりで堪え性のねえ八っつあんが我慢なんぞしていたわけだぜ、おめえはなから酒代目当てで辛抱してやがったな」


 図星である。だが八助は悪びれた様子もなく、「そういうこった」と云ってニヤリと笑った。


「ちぇ、なにが友達の誼だよ……まあいいや、八っつあん、生憎だが手間賃なんかビタ一文もありゃしねえよ、当てが外れたな、ご愁傷様」そう云って夜吉はひとつ大きなあくびをした。


「ちょっと待て、手間賃がねえってどういうわけだ?」


「どうもこうねえよ」夜吉は懐から布を取り出すと、それを開いて中の簪を八助に見せた、「売りもんじゃねえってことさ、どうよ、上等なもんだろ」


 八助はその簪と夜吉の顔を交互に見ながら、「じゃあこれはなんだ?」と少し噛みつき気味に云ったものだ。


「おめえ簪をしらねえのか?」


「そんなわけあるかっ、売りもんじゃなければなんだって訊いてるんだよ!」


「ちえ、うるせえなあ」夜吉は布に包みなおした簪を懐に戻しながら、「お花にな、ちっとは年頃の娘らしい簪を持たせてやりたくてよ」


 そう云った夜吉の顔には、よく見れば照れが浮かんでいることに気づいたであろうが、いまの八助にはそれどころではなかった。


「お花ってえのは、お花坊のことか?」


「俺は他にお花って女はしらねえぜ?」


「ってことは、今晩の酒だけを楽しみに辛抱してた俺はどうなるんだ?」


「しらねえよ、そんなこと」


「ってことは、俺の辛抱はおめえの下心のためにあったってわけか?」


「おい、下心ってなんだ、人聞きの悪いことをいうもんじゃねえ」


 ご覧の通り、八助の思惑はなんとも浅ましいものであった。しかし貧しさゆえに滅多に酒など飲めない八助なのである。一晩中妄想した挙句のことだと思えば、些か同情してもよいのかもしれない。


「はッ、人聞き悪いとはおそれ入ったね、女がらみで下心がねえってえのは初耳だ、やい夜吉、てめえの手の内は見え透いているぜ!」


 やはり同情はやめておこう、あまりにも見苦しい。夜吉もこのあからさまな八助の八つ当たりには、いよいよ腹が立ってきたようだ。


「てめえ、俺の真心を下心といいやがったな!」そう云うと、少し凄味を利かした目で八助を睨んだ。



 夜吉は上背が五尺八寸(約一七五センチ)あり当時では大柄で、しかも目に険があるから睨まれると怖い。だが八助からはそんな夜吉の顔つきを怖がる様子はまったくなく、むしろ睨み返している。

 もし夜吉以外の者にそんな目で睨まれていたら、八助はたちまち怖気づいていたであろうが、説明するまでもなく二人は友達なのだ。


「真心がきいて呆れるね、やいやい夜吉、白状しやがれ! おめえがお花坊に惚れてることぐらい長屋のもんはみんな百も承知だぜ」


 これは本当である。なのでいまさら八助が威張って云うようなことでもない。当然そのことは夜吉も気づいていたので、「それがどうしたい! だからこそ真心が大切なんだろうがよ、それを下心ったあ勘弁ならねえ!」と開き直って云い返した。


「けっ、そういうことは俺みたいな一人めえの男になってからいえってんだ、まだ所帯も持てねえような半人前のてめえには、真心と下心の区別もつきゃあしねえのよ」


「ははぁ、おめえが一人前の男とはね、それこそ初耳だ、ずいぶんと一人前も安くなったもんだな」


「な、なんだとてめえ、どういう意味でい」

 いやはや聞くに堪えない喧嘩になってきたが、まあ続けてもらおう。


「わからねえか? なら教えてやらあ、おめえんちの五人の子供のことよ、毎日腹をすかせて鳴いている姿をみるたんび、俺はそれが哀れでならねえってんだ」


 すると八助の顔が引きつった。しかし夜吉もお花への気持ちが本気だった分、むきになってしまって止まらない。


「女房子供にひもじい思いをさせても一人前の男っていえるとは、こいつはべらぼうだ、おめえみたいな甲斐性なしの男はな、世間では半ちくっていうそうだぜ」



 八助の稼業は棒天振ぼてふりであった。市場で売れ残った屑野菜を安く仕入れ、それをまた屑野菜だと分かっていても買っていく貧乏人に、天秤棒で担いで安く売っているのだ。

 当然生活は楽ではなかった。しかも食べ盛りの子供が五人もいては年中腹を空かしているのも仕方ない。


 夜吉はそんな事情を知っていながら言った自分の残酷な言葉に、すぐ後悔を覚えた。


 その小柄な体を震わせて目に涙をためている八助は、やるせなさが滲んだ声を漏らす。

「おめえ、いったな。そいつをいったな……」


 夜吉は思わず顔を歪め、「ううっ」と口の中でもごもご呟いたのをみると、明らかに自らを呵責しているのであろう。だが後の祭りである。


 すると向こうの井戸端から若い女の声が、「夜吉よるきっちゃん、今のはあんたが悪いよ!」とよく通る声で云うのが聞こえてきた。


 夜吉と八助は(あっ)という顔をして、同時にその女のいる方を見る。女は他の女房たちと一緒に井戸端で、朝餉に使うのであろう青菜を洗っていたようだ。


 女を認めた夜吉が何かを言いかけようとするが、その前に八助がすかさず女に云った。


「そうだろ? お花坊、長屋の住人といえば家族も同然じゃねえか、それなのにこいつときたら、ひでえ薄情なことを……うううっ」


 そう言って八助は泣き真似をすると、夜吉をちらりと見てニヤリとした。さっき本気で涙目になっていたのを考えると、おそろしいほどの逞しい精神である。


「お花坊、もっとこいつに言ってやってくれよ!」


 夜吉を睨んだお花は、夜吉がすっかりしょげ返っているのを見ると、わずかに苦笑いを浮かべ腰に手を当てる、「まったく、もう」


 おはなは十九歳。丸顔で目がくりっとして大きく、肌の色が白かった。美人と言うほどではないが愛嬌があり、その年頃の娘の持つ健康的な色気が隠そうとしても溢れている。

 十九歳といえばもう嫁に行っていても不思議ではない歳ではあったが、そうしなかった理由の一つは、父親の虎蔵とらぞうを独り置いて家を出る事に抵抗があったからだった。


 お花の母親は四年前の流行り病であっけなく死んだ。それ以来お花が独りで虎蔵の面倒を見ている。虎蔵は今年で五十歳になったが、まだ体は元気である。

 腕のいい錺り職人であったから生活には困らない。いざとなれば手伝いのばあ様くらい雇えるからと、お花には自分のことは気にせず早く嫁に行けと言っているのだが、お花はいつも笑って首を横に振るだけであった。



 小さくため息を吐いたお花は、わずかに夜吉への目線をそらしてから訊く。


「さっき……なんかあたしの事でおかしな話をしていたみたいだけど……」


 どこから聞いていたか定かではないが、その歯切れの悪い口ぶりからおおよその見当はつくというものである。

 夜吉は下心云々で誤解される事を恐れ、慌てて何か云おうとした。


「あ、いや、ちがっ」


 しかしお花は夜吉の返事を待たず、今度はややぶっきら棒に、「用があるなら後にしてね、朝は忙しいのよ」と云って洗った青菜を笊にあけ、自分の部屋へと入っていったものだ。


 夜吉はしょぼくれて、もうそこにお花もいないのに「うん、すまねえ」と呟いている。


 八助はそんな夜吉をニヤニヤしながら眺め、「ひひひ」と意地悪く笑った。するといつの間に現れたのか、井戸端にいた八助の女房のおかじが、「おまえさんはいつまで油を売っているんだい! とっととやっちゃばで仕入れて稼いできなっ!」と八助に雷を落とす。


 因みにやっちゃばとは今でいう青果市場のことである。神田と駒込のどちらへ行くのかは知らないが、とにかく八助は急におろおろとして、「だってお前、朝めしがまだじゃないかよ……」と情けない声をだした。


「晩の残りの冷や飯と漬物でたくさんだろ、それとも何かい? それだけじゃあ精が出ないとでもいうのかい?」


「い、いや、そんなこたあねえけどさ……」


「そうだろうともさ、今日こそは一人前の男の稼ぎってやつを拝ませてくれるんだろうね?」そう云ってお梶がげらげらと笑った。八助にしたらもう身も蓋もない。


 するとお梶、今度は夜吉に向かって云ったものだ、「夜吉っちゃん、少しはあたしに下心もったっていいんだよ? 年増の味も悪くないさね」


 とうとう周りにいた他の女房たちも一緒になっての大笑いである。


 八助と夜吉はすっかり情けなくなった顔を見合わせて、二人でとぼとぼと部屋へ帰っていくのであった。

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