第5話 いろは
秋は駆け足で過ぎてゆき、冷え込みの強い朝には日陰に霜柱がたつようになった。相楽は嫌いな用心棒の仕事をなるたけ断るようにしたせいか、このところ安定した仕事がないらしい。
毎日仕事を探しに
それでもたまに日雇いの力仕事などもしているようで、楽ではないが生活に困るほど貧しているわけではないようだ。
その相楽がめずらしく興奮した様子で部屋の戸を開けて飛び出してきた。それも何か嬉しそうな顔をしているのだから、滅多にない事だといっていい。井戸端で立ち話をしていた大家の菜衛門とお花は、その相楽の様子に驚いて思わず口を揃えて「どうしました?」と訊いた。
「おお、菜衛門殿にお花殿! ちょうど良かった、これを、これを見てくだされ!」
そう云って興奮する相楽が見せたのは、きれいに伸ばしてある一枚の反古紙である。
菜衛門とお花はそれが何を意味しているか分からずに不思議そうな顔をすると、相楽はさも得意そうな顔をして「 い でござる!」と云った。
「はあ?……」
二人は相楽が差し出している反古紙をまじまじと見てみると、そこには確かに『い』と読めるかな文字が書いてあるようだ。
「いろはの い でござるぞ」
わけを聞けば埒もないことで、その文字は相楽が娘の雫に手習いをさせて書かせたものであった。
今日雫に生まれて初めて筆を持たせて文字を書かせてみたところ、雫が見事に──みみずが這ったような文字ではあるが──文字を書いたのがよほど嬉しかったらしい。
「菜衛門殿、お花殿、どうでしょうか? こんな幼子にして立派な文字が書けるとは、将来は能筆家になるなんてことも? いや、まさかとはおもいますが、いかがでしょう?」
菜衛門もお花も、あまりに真剣な相楽の様子が冗談とも思えずに、なんと云って答えていいかわからぬまま、とりあえず二人は顔を見合わせて無意味に頷きあった。まことに気の毒なことである。
困っている二人にはお構い無しに、相楽はさらに目に力を込めて、同意を求めるかのように見つめてくる。まさに親馬鹿である。
「ととさま、まやかくのよ、ちずくのかみ、もってたや、なめでちょ」
不意に雫が相楽の後ろから現れたことに三人が気付くと、お花はちょっと救われたような気持ちになって、「お上手に書けましたね」と雫に頬笑んでみせた。
相楽もそれに相槌を打ちながら真面目な顔で云う、「見事だ」
雫にしてみれば、ただ墨で線を書くということだけが楽しいのである。二人が自分になにを云いたいのかなどわからない。それゆえ不審そうな目を相楽にむけると、「かえちて!」と相楽の手から反故紙をひったくって部屋に駆け戻っていった。そんな雫を三人は微笑して見送ったようだ。
すると少し冷静になった相楽は急に苦笑いをして、「これはとんだお見苦しいところをお見せしてしまった」と照れたのを、「なに、親なんてものは自分の子の事になると、まあそんな様になるもんです」と菜衛門が目を細めて頬笑みながら云ったのは、昔の自分を思い出していたせいかもしれない。
お花は何だか相楽の嬉しそうな姿をみたのは久しぶりだなと思ったとき、自分もまた嬉しくなっていることに気がついた。
確かに相楽は雫の前ではいつも愉し気に振舞ってはいたが、でもそこには隠しようもない心の翳りが滲んでいることも多い。一人でいるときにはそれが顕著に表れて、時には痛々しくみえたりもするほどなのだ。
(まだ奥様をお亡くしになられて三年だもの……)無理もないと思うお花ではあったが、やはり心配なのである。
やがて菜衛門が話しの穂を継ごうとしたのか、何気なく相楽に、「最近用心棒のお仕事はどうですか?」と尋ねたようだ。
「用心棒ですか……」そう云った相楽の顔は明らかに曇っており、「できればもうやりたくはない仕事ではあります」と云って溜息をつく。
菜衛門は相楽の思わぬ反応に少し狼狽したが、顔には表さず、「これはとんだ余計なことを申しまして」と謝った。
相楽は菜衛門に気を使わせてしまったことに気づき、「いやいや、とんでもない、もっとも今は用心棒の仕事は断るようにしていましてな」と云って慌てたように手を振り笑ってみせた。
「あの仕事はたいてい身体は楽なのですが、心が疲れます。要するにまともな人間のする仕事ではありません」そう云って相楽は急に疲れた顔をし、話を続ける。
「働くことで生きる希望が持てないというのは辛いことのようです」
菜衛門は黙って目を瞑り、ゆっくりと気持ちを込めて頷いているようだ。
お花は相楽がそう話すのを聞いていて、胸が強く痛んだ。それは日頃の相楽の疲れた様子の理由の一端を見たような気がしたからである。
(あっ……!)
そのときお花の頭の中で何かが閃くのを感じた。そして感じた時にはわれ知らず話し出している自分に、お花自身が驚いてもいた。
「あの、相楽さん」
「ん? なんでしょう?」
「あの……相楽さんは子供に読み書きなどを教えるのが、お好きなんですか?」
相楽にはお花の質問の意味がよくわからない。もっともお花自身もよくわからないまま相楽に話し出したのであるから、相楽にその意図が伝わっていないのも無理からぬことである。
「それは雫のことでしょうか? そうですな、雫に手習いを教えたのは今日が初めてでしたが、愉しくはありました」
「あ、いえ、そうでなくて」お花は自分でも自分が恥ずかしいような気持ちになり、段々と声を小さくする。
「雫ちゃんというよりも、小さい子供たちに……」
「ふむ? 子供たち……」相楽は少し不審そうな顔をしながら「よくわかりませんが、まあ嫌いではないかもしれませんな」と答えて口の端をあげた。
お花は顔を真っ赤に火照らせて、自分はなんておっちょこちょいなんだろうと思った。
「すみません、おかしなことを訊いてしまって」と目も合わせる事もできずに相楽に詫びるお花であったが、その考えるところが菜衛門には少し分かったような気がしていたらしい。
(ほほう、なるほど)
菜衛門が自分を見つめている事に気づいたお花は、さらに顔を赤くする自分を持て余しているようにもみえた。
するとそのとき何やら長屋の木戸の方が騒がしくなり、誰かが叫ぶ声が聞こえてきたようだ。お花と菜衛門そして相楽もそれに気がついて木戸へと歩き出すと、すぐにその声のぬしが八助であることを知ることとなる。
「痛えよおっ、おっかあ、俺の腕が、腕がとれちまったよおっ」
八助は六十歳くらいの見慣れぬ男に支えられながら足を引き摺って歩いており、顔の所々には殴られた痕のような痣に血に滲んでいる。
「これはいかん」そう云って菜衛門が見た八助の右腕が、肘のところから妙な方向に捻じ曲がっていた。
「おまえさんっ、しっかりおし!」八助を認めたのであろう女房のお梶が、子供たちと一緒になってすっとんでやって来て、八助を抱きかかえる。
「ちゃん! でえじょうぶか? ちゃんっ!」子供たちはすっかりのぼせ上がってしまって、無意味に声を張り上げ、八助のそばを走り回っていた。
「これ、落ち着きなさい!」
大家の菜衛門がそう一喝して、やっと八助の家族は我に返ったというふうに黙る事ができたようだ。
とりあえず菜衛門は八助を部屋に寝かすように指示し、医者を呼んでくるようにと長屋の者に云いつけた。そして八助を連れて来てくれた男に礼をのべると、こうなった
男の話によると彼は隣町の料理茶屋で使い走りをしている下男らしい。たまたま通りかかったところ、八助が武家屋敷に囲まれた人通りのない道で、三人のやくざ者たちに絡まれているのを見たのだと話してくれたのである。
「へえ、それがもう無体なことでして……」
やくざ者たちが八助の売り物の野菜をみて、『人間様に犬畜生が喰う様な屑を売ろうったあ、ふてえ野郎だ!』そう言って八助の天秤棒を蹴り上げたのだそうだ。
しかし八助は辛抱強く、これはちゃんとやっちゃばで仕入れたものだし、屑には違いないが少し傷んでいるだけで、人が食べても問題ないものだと説明したらしい。
だが、やくざ者たちにとってはそんなことは初めからどうでもよくて、ただ八助を
「へえ、そうしましたら、ぼきりっていう嫌な音がしまして……」
八助の悲鳴が聞こえたかと思うと、その右腕が反対方向にねじ曲がっているのが見えたという。その腕をみて笑いながら、三人はその場を去っていったと話した。
「それでそのやくざ者が、どこの何者たちなのかはご存知じゃありませんかな?」
菜衛門がそう訊くと、初め男は少し云うのをためらった様子をみせたが、思い切ったという顔をして、「あれは確か、鳴き蝉の権太という博徒の身内の者だと思います」と云った。
菜衛門は目を瞑り何度も頷きながら、「よく話して下さった。あんたには決してご迷惑はおかけしませんよ」そう云って自分の紙入から一朱銀を二枚出し、懐紙に包んで礼を云いながら男に渡したのだった。
男を見送った菜衛門が大きな溜め息をついて首を振ったのは、どうにもやり切れない気持ちのせいであろう。
「自身番へは、あっしが届けて来やしょう」
虎蔵が菜衛門にそう云うと、そこに虎蔵と相楽がいることに初めて気がついたという顔をし、「ああ、虎蔵さん、すまないがそうしてもらえるかね」とお願いして、菜衛門はもう一度溜め息をついた。
「しかし虎蔵さん、相手がやくざ者となると……これは泣き寝入りかもしれませんねえ」
「まあ、おそらくそんなところでしょうな」そう云って虎蔵は重い足取りで表通りへと歩いて行き、「八助には気の毒ですがね……」そう呟くように言葉を残していったのだった。
相楽は暫らく虎蔵の後姿を見ていたが、菜衛門が八助の部屋の方へ歩き出すと、「菜衛門殿」と呼び止めて訊いた。
「役人は何もしてはくれないのですか?」
「何もせんでしょうな、こっちはただの貧しい町人ですから」
「…………」
相楽が腑に落ちないという顔をしていると、菜衛門は苦笑いを浮かべたようだが、その目は笑ってはいない。
「なに、よくある話ですよ、相楽さん」
「なるほど、あるいは確かにそうかもしれませんが……」
相楽はそう云いかけて口を閉じ、どこか遠くを睨むかのように目を細めると、そのまま黙ってしまったようであった。
昼の八つ(午後二時)の鐘が鳴った頃に、夜吉は自遊長屋に戻ってきた。この日夜吉は朝から仕事の材料を仕入れに出かけていたのだが、お花から八助のうけた暴行の話を聞くとすぐ、八助のところに見舞へと駆けつけた。
「ちくしょうっ! 俺は悔しいよ、夜吉ちゃん」
涙ぐみながらそう叫ぶ八助に夜吉は、「そんだけでかい声がでるなら大丈夫だな」とわざとおどけた顔をしてみせた。
「右腕がとれちまったらしいが、なんだい、そのくっついてるやつは?」
「ちえ、冗談じゃねえや」
そう口を尖らせる八助の右腕は、幸いな事に綺麗に折れていて、大事をとれば骨はちゃんと繋がるだろうと医者が云ったそうである。
「奴らさ、商売のいろはを教えてやるとかぬかしながら、売り物の野菜を踏みつけやがったんだ……俺にはそれが悔しくてたまらねえのよ……」
「…………」
「だってそうだろ? こちとら真面目に汗水垂らして生きてんだぜ、やくざ
八助が身体を震わせてそう訴えるのをみた夜吉は、自分の身体もまた震えている事に気付く。しかしこの場でその怒りを
「わかるぜ八っつあん……だがまあ、今は働きづめに働いてきたその身体をさ、いい休養だと思ってのんびりさせてやりなよ」
「そうはいってもなあ……」
「なに、暮らしのことは心配すんな、長屋のみんなで何とかすらあ」
するとすっかり落ち着きを取り戻した女房のお梶が、「出がらしでわるいけど」と云って夜吉に番茶をだし、「菜衛門さんもそう云ってくれたんですけどねえ」と話しだした。
「長屋のみんなだって楽なわけじゃないし、あたしも日雇いかなんかで働こうと思ってるのよ。一番上の娘がもう十三になりますからね、家の事くらいは出来るでしょうから」
「まあ、そうだけれどさ、お梶さん」そう云って夜吉は茶を一口飲み、「今もし、あんたにまで何かあったらそれこそ大変ですぜ、日雇いといったら力仕事だ、どんな事故が起こるとも限らねえよ?」
「でもねえ……おまえさん、どう思う?」
お梶が意見を求めて八助の方を見ると、八助は声をころして涙を流しているではないか。
「すまねえ……俺に甲斐性がねえばっかりによお……」
「ばかだね、よしておくれよ」
そう云ったお梶の目には光るものがみえる。そしてそれを前掛けで慌てて押さえると、もう一度「ばかだねえ……」と呟いたものだ。
夜吉は一瞬眉をひそめ唇を噛み締めたが、すぐにその表情を明るく変えて云った。
「おいおい八っつあん、らしくねえぞ。陽気だけが取り柄のあんただ、笑いねえ」
八助ははっとした顔をして、「ちげえねえ!」と云い、無理やり笑顔を作ってお梶を見たその顔には、鼻ちょうちんがぶら下がっているではないか。
「あらやだ、汚いねえ、おまえさん、鼻水くらいかんだらどうだい」
お梶も笑顔を作ってそう云うと、夜吉に湿っぽくしてごめんなさいねと謝ったのであった。
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