第6話 夜吉

 夜吉の怒りはおさまらなかった。胃の中のものが逆流してくるのを感じるほどの激しい怒りであった。八助は自分の大事な友達であり、兄とも慕っていた人なのだ。それをいたずらになぶったやつらがいたのである。


(ゆるせねえ……)


 夜吉が大事な人を想う気持ちが強いのは、幼い時に両親を失くして孤児になったせいかもしれない。

 育ての親であった虎蔵の女房が死んだ時も、誰よりも深く悲しんでいたのが夜吉であった。そのことは長屋の住人ならみなが知っていることだ。また子供の頃には、お花が誰かに苛められて泣いて帰ってくると、夜吉は頭が破裂したような怒りを感じ、我を忘れてお花を苛めた相手に向かっていった。


 そして今、夜吉は八助を苦しめた相手のところへ向かって歩いている。鳴き蝉の権太が開帳している賭場へである。もちろん子供の頃のように我を忘れているわけではない。いや、むしろ我を忘れていた方が幸せであったかもしれないだろう。

 もしこれが現代であるならば、友達のために一人で暴力団の事務所に乗り込むようなものなのだから。


(右腕一本じゃすまねえだろうな……)


 夜吉は腋の下から冷たいものが流れるのを感じながらも、真直ぐに賭場へと歩いて行くのであった。


 長屋では決して乱暴な事などしない夜吉であったが、一歩外へ出るとなかなかどうして喧嘩もよくしていたようだ。

 もともと血が熱い質であったし、なによりもまだ若い。体も大きく度胸もあり、腕っぷしが強いともなれば、揉め事などで頼ってくる友達が多くいても不思議ではなかろう。そのせいでかなり危ない喧嘩も何度かやってきた。

 だがそれは相手がすべて同じ素人での話しで、今度のような博徒という玄人を相手にするのとはわけが違うのだ。



 鳴き蝉の権太の賭場へは、前に友達に連れられて二三度来たことがあったので、迷うことなく着くことができた。夜吉は見覚えのある権太のところの若衆わかいしが、近づいていく自分を抜け目なく警戒していることを認める。


 その若衆はわざと興味の無い顔をして、いま夜吉に気がついたというふうに惚けた、「おや、あんた前にもいらした方だね、でも場が立つにはまだ早いようですぜ?」


「いや、遊びに来たんじゃねえんだ。ちょっとあんたの身内の者に用があってな」


「ふぅん……で、誰にだい?」


「名前はわからねえが、世話んなった棒天振ぼてふりのことで話しがあるって通してもらえばわかると思う」


 するとその若衆の目がにわかに興味をそそられたように、残忍な光を帯びる。


「へえ、棒天振ねえ」


「…………」


「こいつは面白えや」


 この若衆からは、明らかにわけを知ったうえで面白がっている様子が感じられた。いまにも怒りが破裂しそうでいた夜吉は、我知らず拳を握りしめていたが、ここで騒ぎをおこすほど愚かではない。


「おい小僧、何が面白えんだ」と、ひとこと云って怒りをのみ込んだ。


「いや別になにも……ただ、さっきあんたと同じ様なことをいってきた野郎がいたもんでさ」そう云って若衆は薄ら笑いを浮かべたようだ。


(えっ?)


 夜吉はあまりに意外なことを聞かされて声を出しそうになったが、なんとかそれを隠しながら訊いた、「それはどんな人だ?」


 若衆は自分で確かめてみなと、入り口の方へ顎をしゃくってみせる。夜吉がそれに頷き入り口へ歩き出すと、後ろから若衆がその背中を見ずに云うのであった。


「兄貴たちは機嫌が悪いようだぜ? おとなしく帰ったほうがいいと思うけどなあ」



 夜吉が賭場に入るとすぐに、脅しをきかせた男の怒鳴り声が聞こえてきた。咄嗟に身を固くした夜吉であったが、どうやらそれは自分に向けられたものではないと気づき、用心深く耳をそばだててみる。


「あんたもしつけえな! お武家だと思って下手にでてりゃあ調子に乗りやがってよ」


「お気楽に、どうか心をお気楽にしてお話ししましょう」


 夜吉にはその声の主が誰であるかがすぐに分かったようだ。


(こりゃ、相楽さんじゃねえかよ……)


 怒鳴っている男の声に反して、相楽の声は場違いなほどに悠長なものであった。


「いや、くどい話をするつもりで来たわけではないのですよ。あなた方のお仕事の邪魔をするのは拙者としても不本意でござるのでな」


「だったらとっととけえりやがれっ」


 賭場には権太の身内とおもえる若衆が三人いた。そしてその三人が八助を嬲った男たちなのであり、ちょうど相楽を取り囲むようにしてそこにいる。


「むろん拙者も帰りたいのですが、それにはこちらのお願いに応えて頂かねばなりませんのです」


「なあ、あんた、俺たちが二本差しを怖がるとでも勘違いなさっているようだが……」


 見事な刺青が彫られた下帯したおび姿の男が、額に青筋をたててそう云う、「あの棒天振に詫びを入れて見舞をよこせってえのは、俺たちに喧嘩を売りに来なすったってことですかい?」


「はて? わたしは喧嘩ではなく、お話しをしたいと申しておるのだが?」


「野郎っ! なめるな」


 その刺青の男が気色ばんで方膝を立てると、残りの二人の男にも緊張が走る。


 だが相楽は相変わらず正座の姿勢を崩さずに悠長に構えていた。


(こいつはいけねえ!)


 部屋の外から様子を見ていた夜吉は、相楽の身に危険を感じ、慌ててその戸を開けて中へと入りこんだ。


「だれだてめえは!」


 中にいた三人の若衆に一斉に振り向かれ、鋭く睨まれた夜吉は一瞬で気を吞まれそうになった。無理もない、相手は本物の博徒なのである。しかも相楽とのやりとりで、かなり頭に血が上っているのだ、その迫力は半端なものではなかろう。

 しかしいま煮詰まりかけていたこの場の空気を、なんとかほぐさなければ相楽の身が危ういと思った夜吉なのだ。


「いや、なにね、ちょっとあんたらに用があって来たんだが、なんか取込み中でご迷惑でしたかね?」夜吉は巧に男たちの意気を逸らすように、少し惚けてみせ、「外にいた兄さんにね、中に入んなっていわれたんですよ」


「兄さん? ああ、あの見張りの餓鬼か」


「なんか面白がっていたようでしたぜ?」


「ちっ、あの野郎め……」


 なかなかどうして、夜吉は度胸もある男のようである。びっしょりと冷汗に濡れてはいたが、確かに場の空気を変えることができたのだから大したものだと云えよう。


 すると「おや?」と、まるで緊張感のない声をだしたのは、もちろん相楽である。いま夜吉に救われたことも知らずに、さも嬉しそうな顔をして、「おお、これは夜吉殿ではないですか、奇遇ですなあ」などと場違いなことを云うのには、さすがに夜吉も少し呆れた。


(ちえ、暢気なお人だぜ)


 若衆たちは二人が知り合いであると気づくと警戒の色を露にし、一体なんの用だと夜吉に訊いてくる。


 夜吉は少し黙ってからゆっくりと、どうやらこちらのお武家さんと同じ用できたらしいと、怒りを堪えて答えたのであった。



「ああ?」夜吉のその返事をきいて、いったん冷めた空気が急に熱を帯びてきたのは云うまでもない。


「なら二人して帰えんな、こっちにはもう用はねえ」と云って三人の若衆たちは立ち上がり、夜吉に近づいて凄味をきかせてくる。


 夜吉はじっとその三人を睨んでいたが、どうやら三人の目当てが相楽から自分に変わったと認めると、やがて静かに、「棒天振を嬲ったのはあんたら三人かい?」と訊いた。


「だったらどうする?」


「謝ってもらいてえな、それに見舞を添えてね」


「それはもう、その浪人者から聞いたぜ?」


「でも俺からはまだだろう?」


 三人の若衆は再びかなり苛立っていた。しかしそれ以上に夜吉の怒りは大きく、まったく怯んだ様子は見せてはいない。

 思いがけず相楽と鉢合わせはしたものの、もとよりケリは自分でつけるつもりでいたのである。またそうでないと夜吉の怒りもおさまりそうにはなかった。


 刺青の男は夜吉に息がかかるほど顔を近づけて云う。


「死にてえのか?」


「……どうだかな」


 男を睨んだままそう応えたときには、もう今にも夜吉の怒りが破裂する寸前まできていた。もちろん恐怖心が消えたわけではない。しかしそれ以上に怒りのほうが大きかったのである。


 ところがこの期に及んでも相楽はあいかわらずで、「まあまあ、みなさん、お気楽にして話し合おうじゃありませんか」などと云っているではないか。


(ほんとにこのお人は……)目の端に相楽をみた夜吉は、わずかに苦笑いを浮かべたが、その理解しがたい暢気さを憎む気にはまったくなれなかった。

 それはおそらく八助を思いやってくれた相楽の気持ちが、嬉しかったせいであろう。そんな思いもよらない親切を、夜吉は我がことのようにありがたいと思った。


 するとその時、刺青の男の横にいた背の高い男が、いきなり夜吉の胸ぐらを掴もうとその長い腕を伸ばしてくる、「いい加減にしやがれ、目障りなんだよ!」


 夜吉は反射的にその腕を右手で跳ね上げて避けた。「てめえ!」避けられた背の高い男は逆上し、とうとう夜吉に殴りかかってきたようだ。もちろん夜吉はここへ喧嘩をしにきたのではない、話をつけにきたのだ。しかし結局はこうなることもわかっていたのだった。


 夜吉はその拳を間一髪で避けると、いままで我慢していた怒りに身を任せたかのように、男の腹へと猛烈な蹴りを入れる。果たして背の高い男はその場にうずくまり、胃の中のものを吐いた。


(こりゃもう、とことんまでいくしかねえかな……)


 夜吉は心の中でそう云って自分に舌打ちをしたのだが、べつに後悔していたわけではない。ただおそらくもう無事では帰れないだろうということを、そのとき覚悟したようである。

 当然のことながら、無事で帰すつもりのない残りの二人の若衆が、すぐさま夜吉に襲いかかってくるのは明らかであり、果たしてそうなった。


 夜吉はすかさず刺青の男を見据える。目を見開き歯を剥き出しているその男の顔は、苛立ちの捌け口をようやくみつけて喜んでいるかのようにみえた。


(もう一人の男はどこだ)と、夜吉が目で探そうとした時、その男がいきなり後ろから夜吉に組み付いてきた。小柄ではあるが腕力のあるその男を、夜吉は力任せに背負いで投げ飛ばす。が、その刹那、刺青の男の拳が夜吉の顔めがけて伸びてきて、右目の下をしたたかに殴りつけたのだった。


 それは流石に素人の拳とはちがった。夜吉はその一撃で一瞬にして意識を飛ばされそうになったが、まったく無意識にその刺青の男が殴りつけてきた方の腕を抱えるように掴み、ぐいっと引き寄せたかと思うと、夜吉は頭突きでその男の鼻柱を強打する。


「お見事っ!」


 相楽が思わず感嘆の声を上げるのを、夜吉はくらくらする頭でちらと見た。


(ちえ、おみごとじゃねえや……)


 こうして喧嘩が始まった今でも相楽はあい変わらず端座している。別に加勢をして欲しいなどとは考えもしない夜吉であったが、ただ相楽のその落ち着き振りが、夜吉にはなにか奇妙なものを見ているかのようにも思えるのであった。

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