第7話 浪人

 文字通り鉄火場の渦中にいながらも、表情ひとつ変えぬままに端座していた相楽は、いま夜吉をみて特別な思いを抱いている。さっきは夜吉に奇遇だなどと云ったが、もちろん夜吉が八助の為にここへ来た事くらい分からないはずがない。


 用心棒を仕事とすることも多い相楽は知っている。この本職のやくざ者たちというものが、どれだけ凶悪であり、また堅気の町人にとってどれだけ恐ろしい存在であるかということを。


 そのことを考えると、夜吉のいましていることは無謀を通り越して、狂気の沙汰ともいえるだろう。


 しかし相楽はそうは思わなかったようだ。                    

(まさかこの様なところで義を目にするとは、な──) 


 夜吉を馬鹿だと笑うのは簡単である。しかしこの世の中で友達のために馬鹿になれる者が一体何人いるだろうか? 相楽はそんな夜吉をみて(美しいな)と思い、暫し見惚みとれてしまっていた。


 武士には生きるうえで大切とされる士道というものがある。その中で最も大切とされる理念は『義』であった。それは打算や損得のない美しい心のままに死ぬることであり、そのためには美しく生きねばならぬことをも意味している。


 だがその生きることが、ただ生活に追われるだけとなり果てて、いつしか相楽は、そんな大切な士道さえも忘れてしまっていた。しかしそれを責めることはしたくない。彼は彼で必死だったのだ。それでも相楽自身はいまそんな自分を恥じている。


(情けないはなしだ)


 仕事の不満を抱えながら疲れた顔で愚痴をいい、心の弱さを酒で紛らわす。所詮はこの世に身の置き所のない浪人者だと諦め顔で、そのくせ見苦しく振舞う浪人たちを嫌悪するのだ。


 相楽はそんないまの自分を振り返り、(まるで美しさの欠片もありはせん)と毒づいた。


 確かに浪人はこの世の役には立てぬ者たちである。そもそも役割が世の中にないのだ、だから彼らには世間体の悪い仕事しか残されていない。傘張りのような内職もそうだし、用心棒もそうだ。生きるための仕事とはいえ、自尊心は否が応でも疲弊していこう。


 それ故に自分は武士だと無駄に威張ってみたり、相楽のように酒に逃げたりして現実逃避をするのである。気の毒のようにも思えるが、いまだ武士であることを選んでいるのはその本人なのだから仕方がない。


 ところで武士である以上は士道を忘れて生きることなど、本来は決して許されないことである。まさに自らの存在理由を否定するにも等しい愚行なのだから当然と云えよう。


 泰平の世が続き武家社会においても士道が形骸化しているのも事実である。それでも主君に奉公する侍は士道不覚後ともなれば腹を切り、己が命で責任を取る。


 しかし浪人にはその責任を負うべき主君がいない。その士道はすべて己と向き合うための行動規範となるのである。早い話が士道不覚後といえど死ぬことを選ばないということも出来るのだ。つまり自分に言い訳さえできれば、その士道を忘れて生きることも容易たやすい。

 そしてその言い訳が相楽にもあった。


『遼之進さま──』


織枝おりえ……?)


 相楽がそう心の中で呟いた名は、先に逝ってしまった妻の名前である。その妻がいま、自分の名前を呼んだ気がしたのだ。

 でもなぜだろう、なぜ織枝が私の名前を呼んだ気がしたのだろう? その答はすぐに判ることとなる。


(ああ、そうか……夜吉殿のこの姿をみたせいか)


 自分のためにではなく、大切な者のために必死で殴り合っている夜吉をみて、不思議とかつて自分も織枝のために、必死で働いてきたときのことを思い出したのである。


 浪人となり武士らしい仕事もなく、日雇い人足たちと一緒になって働くことも多かった。そんな泥まみれの自分は、おそらく他人の目からは無惨な武士に見えたことだろう。

 しかし相楽にはそんな事どうでもよかった。織枝さえ守れれば、その笑顔が絶えることがないのなら、幸せはそこにあると思えた。

 むろん士道のいう義とは違うかもしれないが、それでも大切なものの為に迷いなく死ねる気持ちは、夜吉のいまの気持ちにも通じよう。


 それゆえ必死な夜吉の姿が、あの頃の自分に重なって、織枝の声が甦ってきたのかもしれない。


(だが、もうおまえはいないのだな……)


 そう、それが相楽の言い訳だった。織枝のいない今生で、自分は何のために生きているのかと、その意味を見失っていた。士道はもとより、武士であることさえ虚しく思えるほどに……


 織枝が逝ってからすでに三年。娘の雫のことを考えれば、いい加減に前へ進まねばと思うのだが、立ち止まった足はなかなか言うことを聞いてはくれない。


 その理由は妻への深い愛情もあるが、相楽には誰にも話せぬ業縁がそうさせていたことを知っている。もし自分と出会わなければ、織枝は死ぬ事もなかったろうにと────


 


 夜吉の頭突きをくらい、鼻から血を流して蹲った刺青の男がその顔を上げた。その瞬間、男が纏っていた雰囲気が、がらりと変わっていることに夜吉は気がつく。初めて感じた雰囲気であったが、それが人殺しが纏うものであることは、直感でわかった。


「やろう……」


 刺青の男はゆっくりと立ち上がると、下帯の腰のところに挟んであった匕首(あいくち)を手にしギラりと刃物を抜く。それを見て他の二人の若衆わかいしもようやく立ち上がり、懐から匕首をとりだした。


 夜吉は生唾を飲み込もうとしたが、のどが張りついて上手く飲み込めない。そればかりか息ができないでいる。


(なんだこりゃ……)


 それは恐怖とはなにか違う、得体のしれない圧迫感が夜吉を包み込んで、身体の自由を奪ってしまったからだった。


 刺青の男は無表情のまま、匕首をすうっと流れるように夜吉の腹に伸ばしてくる。そのまったく躊躇のない動きを、夜吉はただ動けずに見つめ、(ああ、俺は吞まれちまったんだな)と他人事のように考えていた。


(これで終いか)夜吉は匕首が自分の腹に届くのを目で追いながらそう思った。


 その刹那だった、なぜかその匕首は夜吉の腹を急に避けたかとおもうと、腕をわずかに切り裂きながら刺青の男もろとも床板に転げ落ちたではないか。


「刃物はいけませんなあ、危ない、実に危ないです」


 刺青の男が転げたのは、夜吉を刺そうとした瞬間に、相楽が大刀を男の足に絡めて倒したからであった。


「あ、これはいかん!」相楽は夜吉の腕の傷を認めて立ち上がると苦情を述べる、「だから危ないと申したのだ……夜吉殿、痛みますか?」


「いえ、大丈夫です」そう云って夜吉は血の滲んだ傷のあたりをさすった。


「ふむ、確かにかすり傷のようですが」


 相楽は三人の若衆に振り向き、ゆっくりと見据えたその目は少し怒っているようにも見える。


「もういいでしょう、あなた方もへんに意地を張るのはおやめなさい。八助殿に謝罪してすべて水に流してしまいましょう」


「もういいだと? ふざけるなっ」


 背の高い男が荒い息をしてそう云うと、口の中に残った胃のものを唾と一緒に吐き捨てた。


「さんざん俺たちを虚仮にしやがって……生きて帰れるとでも思ってんのかっ!」


 その言葉が終わる間際、男は相楽の喉下めがけて匕首を突き出した。長い腕から蛇のように伸びた匕首が、ぬるっとした軌道を描いて襲い掛かってくるのを見た相楽は、正直やりづらいなと思ったようだ。


 刀法にはない攻め方をしてくるためか、こちらの受け方に一瞬の躊躇が生まれてしまいそうで油断がならない。とにかく相楽は男の匕首を紙一重で避けようと、上体をゆらりと動かした。


 だがその時、相楽の右目の端に小柄な男が低い位置から、体ごと相楽に鋭くぶつかってこようとしている姿が写った。


(むっ!)


 相楽は咄嗟に背の高い男の匕首を避けるのをやめた。やめてどうしたかといえば、消えたのである。いや、正確には消えたのではない。音もなく跳躍したのだ。相楽は二人から一間半(約二・七メートル)も離れたところに立ち事もなげに云う。


「危ないと申しておるのに」


 それを横目に、背の高い男は変に伸びあがった格好で匕首を相楽のいない宙に突き出し、そこへ右からきた小柄な男がぶつかって二人して転ぶ。最初の刺青の男も加えて、三人して転がっているのだから、ざまあない。


 だが実際のところ、三人の若衆は相楽にやられた気はしていなかろう。ただ転んだだけなのだから然もありなん。


「て、て、てっ……!」と、もはや啖呵もきれないほど逆上して体を震わせている三人であった。

 なめていたとはいえ素人の夜吉に手を焼き、痩せ浪人と小馬鹿にしていた相楽にまで愚弄されたとあっては面子が立たない。三人の血走った眼は明らかな殺意をもって相楽を睨み匕首を向けた。


「やれやれ、しつこいな……」


 相楽はそう呟くと、右手に持った大刀を左手に持ちかえる。そして一間半離れたその場所でゆっくりと腰を沈め、三人の正面に対峙した。


 その相楽の変化をみた三人の若衆は、今までとは違う相楽の様子に油断なく身構えたが、実はこの瞬間に彼らはその呼吸を、相楽に支配されてしまっていたのだ。呼吸とは現代でいうリズムやタイミングのことを指す。


「死ねやあっ」三人がそう叫び、相楽のところへと襲いかかった途端であった、果たして相楽はその三人の目前もくぜんに何故かいて、腰を沈めたままの姿勢で刀に手をかけている。三人は虚をつかれ、(あっ)という顔をして棒立ちとなってしまったようだ。


 この男たちは、知らぬ間に相楽の呼吸で動かされ、そしてその呼吸を外された刹那に相楽が動いたのである。加えて相楽の体捌きは神速ともいえるものなのだから、すべてが感覚外での出来事だ。所詮は博徒に過ぎない三人が、理解できる次元のことではない。


 相楽はカチリと音をたてて刀の鯉口をきった──


「抜いてもいいのか?」



 その一言で勝負は終わったようだ。三人の若衆は立ち竦んだままピクリとも動けずにいる。相楽はゆっくりと鯉口を戻すと、不意に後ろを振り向いて誰もいないはずの空間に向かって云ったものだ。


「どなたか存じませんが、お騒がせして失礼いたしましたな」


 夜吉は誰も居ないそこへと振り向いた。決着はもう着いていたのだが、夜吉にはまだそれがわからないでいる。だから新手の仲間が来たのかと緊張が走った。

 するとその緊張を裏付けるかのように戸が開き、わずかに見覚えのある男がそこに現れたのであった。


「気づいていなすったか……いやはや、恐れ入りました」


 それはまぎれもなく鳴き蝉の権太であった。赤銅しゃくどういろの皮膚に丸坊主の頭、三十貫(約百十二キログラム)は越えていると思われる大男で、その顔に眉毛がない。確か歳は五十の少し手前だったか。


「それにしても……」と権太は三人の若衆を睨んで大喝する。


「この盆暗ぼんくらどもめがっ!」


 そのれ鐘のような声はなおも続けて云う、「こちらのお武家様とおめえたちとじゃ、段が違うってことくれえ、はなから見極められねえのかよっ!」


 権太に怒鳴りつけられた三人は哀れなほどに縮み上がり、さっきまでの威勢は見る影もなく萎んでしまったようである。


 権太は相楽に向き直り、「こいつらにはきっちりけじめを付けさせますんで、どうかこの度はご勘弁ください」と頭を下げた。


「そう云って下さって安心いたしました」


 相楽は頬笑んでそう云うと、「ところでお手前はどなたですかな?」と訊いたのは、権太を知らないのであるから無理もない。


「こいつはしくじった!」権太は強面こわもてであるにもかかわらず、妙に似合ったおどけ顔をして見せ、自分の禿げ頭をぺちりと叩くと、自分が鳴き蝉の権太であると相楽に名乗る。


「拙者は相楽遼之進と申す。こちらは夜吉殿で、同じ長屋に住んでおります」


 すると夜吉は権太にぺこりとお辞儀をした。

 鳴き蝉の権太は夜吉へは一瞥しただけで、すぐに相楽へ顔を戻すと、なんとも人懐っこい顔をして云った。


「相楽様ですか、いやしかし、凄まじい御腕前をお持ちでいらっしゃる」


「はて? なんの腕前ですかな」


「惚けちゃいけません、刀に決まってますよ。長いこと鉄火場で生きてきた私ですが、あれだけ使える方は見たことが無い」


「それは権太殿の勘違いですな」


 そううそぶいて相楽は自分の大刀をぽんぽんと叩くと、「わたしはこれを抜いてなどいません」と頬笑んだものだ。


 その笑顔に呼応するように権太はニヤリと笑い、「相楽様もお人が悪いですな、先ほどのは呼吸でございましょう?」と訊いて、相楽のその表情を探るようにみる。


「左様、呼吸です。ですので大したことではありません」


 そう事も無げに相楽が白状するとは思っていなかった権太であった。相楽の剣術の秘密を暴いて、一泡吹かせてやろうとしたのだが、これでは拍子抜けである。しかも大したことではないとまで云いきられては、これ以上話せば野暮になりかねない。


 実際のところ剣術においての呼吸とは、実践場面における相手との関係の中で、とても大きな役割をはたしていた。数多くの剣術書がその呼吸について言及しており、気や間、拍子などという言葉で表現されながら、相手の呼吸を支配することがいかに高等な戦術として有用かを述べている。つまり大したことなのだ。



 権太は自分の禿げ頭をつるりと撫で、(くえないお人だ)と口の中で云ってぺちりと叩く。


「ところで相楽様はいま、ご浪人をなさっているとお見受けしましたが?」


「左様……浪人です」


「いかがです、うちで用心棒をなさっては下さりませんかな? 余所での経験はおありのようですし、難しいことではないかと」


 相楽はその言葉をきいて嫌な顔をした。鳴き蝉の権太にすさんだ今の自分を見透かされたような気がしたからだ。


「それは、しかし、どうも……」


 そう云い淀む相楽に、「謝礼はたっぷりとださせて頂きますよ、なんでしたら相場の二倍でも構いません」と被せてきた権太であった。


 その眉毛のない顔をちらりと見た相楽は、すぐに目を逸らすと、ふたたび嫌な顔をする。いやむしろ泣きそうな顔だったかもしれない。


「……せっかくですが、よしておきましょう」


 相楽はたっぷりの謝礼を懐に、賭場で酒を飲みながらごろごろと用心棒をしている自分を思い浮かべてしまったらしい。そして一瞬でも(わるくないな……)と思った自分の浅ましさを恥じ、もう一度泣きそうな顔をしたのであった。

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