第21話 昏鐘
いまもし木場を訪れたならば、木挽たちが材木を大鋸で切っている音が、春のうららかな風に運ばれて聴こえてくるのに気付くだろう。それはいかにも小気味良い音だ。
そしてお花がいる木曽甚の離れ屋の庭にも、その音は届いている。なのにお花の耳はそれを聴く様子もなく、まるで音がある事など忘れたかのような表情で庭の裏手にある井戸の水を汲み上げていた。
汲んだ水を
(まだ、お目覚めにならない──)
お花はそう心の中で呟くと、このまま相楽が目覚めることなく死んでしまうことを想像し、慌ててその想像を打ち消したようだ。
三日前のこと、夜吉と二人で相楽に会うため、この木曽甚の離れ屋へやってきた日を思い出すと、いまでもぞっとして震えが止まらなくなるお花なのである。
血なまぐさい匂いが庭一面に広がっており、お花と夜吉はすぐに何か異変がおきている事に気がついた。
夜吉が素早く相楽を見つけ抱き起こした手には、べっとりと相楽から流れるまだ暖かい血がついている。おもわず息をのんだ夜吉であったが、反射的に相楽の口元へ耳をつけると、気は失っているものの息は微かにまだあった。
お花はその様子をみた時に、自分がまったく半狂乱になってしまっていた事を思い出し、(いざとなったら私はだめね……)と自身への失望を覚えるのであるが、それは自分に厳しすぎると云うものだ。気を失ってもおかしくない程の凄惨な現場だったのだから。
その事を考えると夜吉は冷静であった。我を失って泣き叫んでいるお花の頬をひとつ平手で叩き、「落ち着け! まずは外科医を探さなくちゃならねえ、お花、お前は店へ行って医者を呼んで来てもらえ」そう指示しながら相楽の着物を脱がせて傷口を確かめ、自分の着物を脱いで切り裂くと、きつくその傷口を縛った。
この時はすでに倒れている他の三人のことにも気がついていたが、夜吉にしてみれば今は相楽の手当だけで精一杯というふうで、目もくれずに相楽にかかりきっている。
(ちくしょう、一体何があったんだよっ)
夜吉とてほんとうは泣きたいような気持ちであったのだ。
お花は店に駆け込んでいったが、そこには誰も居なかった。店中を走り大声で呼びまわるのだが、返事がまったく返ってこない。
今日が店の慰安の日である事など知る由もないお花は、すっかりそれで狼狽してしまい、慌てて外に飛び出すと大声を張り上げた。
「どなたか! どなたか外科のお医者をしりませんかっ! お願いします、お医者を! 外科のお医者を探しているんです!」
そう叫び続けるお花に異様なものを感じたのだろう、近所で働く職人たちが集まって来てくれて、その中の一人が運良く外科医が近くにいることを知っていたらしい。すぐに俺が呼んでこようと云って駆け出していってくれた。
医者が来たときにはもう、相楽と三人は離れ屋に運ばれて寝かされていたようだ。相楽の傷をひと目みた医者は、すぐに縫合すると云って手際よくまわりの者に手術の指示をだす。
そのあいだに他の三人のことも診たが、これはすでに絶命しているので番所に知らせて役人を呼んでこいと云いつけた。
あとで知った事だが、この医者は
だがこのときはそんな事を知らないお花であったから、氷庵が相楽の傷を縫合しながら独り言でいう「出血が多すぎる」「肋骨まで断たれておるか」「とうていもつまい」などの不吉な言葉にひどく腹を立て、心の中で(こんな藪医者になにがわかるものか!)と毒づいていたらしい。
ともあれ氷庵が名医であったことは、相楽の一命をとり止めた事実だけでも分かるというものである。
そんな氷庵でさえ、もしあと少し相楽の発見が遅れていたら、自分にも手の施しようがなく確実に死んでいたろうと云っていた。その時お花はあらためてその生死の際どさに血の気のひく思いをしたことを覚えている。
いまもそのことを思い出すと、お花はあの日に自分たちが相楽へ会いに行った偶然が、きっと相楽の命を救ってやろうという神仏の思し召しであったのだと、自分を励ますかのように考えるのであった。
(きっと大丈夫……)
すると庭の裏木戸が開いて、雫の手をひいた夜吉が手ぬぐいを肩にのせて入ってきた。
「おう、お花、おめえも湯屋へ行ってこいよ。さっぱりするぞ」
夜吉はわざと明るい調子でそうお花に笑顔を作ったが、心の曇りは隠しようがなくその目は笑っていない。
「もう三日も寝ずに看病してるんだ、ここらで休まねえと、おめえの方がまいっちまうぜ?」
だがお花は夜吉の言葉には曖昧に頷くだけで、その手を休めようとはしなかった。夜吉は微かに溜め息をつくと、お花の持っている鬢盥を自分の手に引き取る。
「今日は八っつあんのおかみさんが着替えを持ってきてくれるはずだったな」
お花はなかば気の抜けたような顔で、「お梶さん、今日きてくれるんだっけ?」とぼんやり応えた。
「なんだ、きのう大家さんが見舞いに来てくれた時に、そう云ってたじゃねえか。覚えてねえのか?」
「うん……覚えてない」
夜吉はお花の顔をみて、心配そうに眉を寄せ、「なあ、お花、この店の主人も相楽さんの看病は店の者で引き受けるって云って下さっていることだし、これ以上の無理はなんねえよ」と、優しく諭したのだった。
木曽甚の主人は自分が留守中におきたこの異変にたいし、はじめ非常に怒っていた。
夜吉が主人に現状を説明しているあいだも、迷惑そうな顔をし続けていたし、さすがに医者へは挨拶はしたが、番頭に始末をまかせて早々に引き上げる際も、その眦は吊り上がっていた。
そんな薄情な態度を見せたのも、初めこの店の主人は、雇った用心棒が仲間のうちで喧嘩にでもなって斬り合いをしたのだろうと、勝手に独り合点をしていたと云うのが理由である。
ところが役人がきて調べているうちに、煙たち三人が大阪や京都で何件かの盗みをはたらき、その逃亡途中には同心を二人殺しているという凶悪な手配人である事が判った。
その事実から状況を推察した町方の役人は、どうやら相楽が独りでこの三人から店を守ったのだろうという結論に至り、そのことを主人に説明した。すると主人の態度が露骨に豹変したというわけだ。
木曽甚の主人は涙を流して相楽に感謝をし、何度も何度も昏睡している相楽にむかって「この店の恩人だ」と手を合わせているのだから現金なものである。まあ事情が判らなかった事でもあるし、やむを得なかろう。
とは云えこういう現金さを持ち合わせていない夜吉とお花にしてみれば、相楽を初めから悪者扱いされた事に内心かなり腹を立てていた。
しかしこれから暫らくは世話にならなければならない相手なのだ。そこはぐっと我慢したようだ。
それでもお花は、相楽の看病を店の者にまかせるつもりは端からない。自遊長屋に住む相楽は自分の家族も同然なのだ、その家族を他人の手に委ねる事など出来るはずもないのである。
だがいま、お花の疲労が限界に達しているのも事実であった。ぼんやりと視線を落としていた目を夜吉にむけると、「お梶さんがきたら、少し代わってもらって休むわ」そう云って、力なく夜吉に頬笑んでみせた。
お花の性分を知っている夜吉は、ひとつ頷くと、それ以上はもう何も云わなかったようであった。
相楽の昏睡状態は六日目となり、高熱もいまだ続いたままだった。この日は八助と虎蔵が見舞いにきており、さっき虎蔵がずっとこの店に詰めている夜吉に、「仕事の方の心配はしないでいい」と話していた。どうやら取引先の桔梗屋に事情を説明して、納期を遅らせて貰ったようだ。
やはり夜吉も自分の仕事のことが気にもなっていたのであろう、ほっとしたような顔をして虎蔵に礼をいっていた。
そのせいで気が軽くなった訳でもないであろうが、とかく沈みがちになる病間ではめずらしく、夜吉が明るい声で話しだす。
「昨日、思いがけねえ人が見舞いにきてくれてね、誰だかわかるかい? 八っつあん」
八助は急に話をふられたもので、昏睡の相楽をまえに神妙な気持ちになっていただけに、へんな慌てかたをして応えた。
「お、おれか? 俺がわかることなら、そいつはありがてえ」
夜吉は小さく苦笑いをし、「鳴き蝉の権太がきたんだよ」と云ってニヤリとする。
「ええ? そいつは本当かよ」
「うそを云ってどうするよ」
「ちげえねえ、しかしなんだって野郎が……」
「俺もおどろいたんだがな、権太はここでの出来事をみんな知っていやがったよ」
夜吉によると権太の来た理由は、いかに自分が相楽に惚れ込んでいるかと云う事に尽きるらしい。どうにか助かって欲しい気持ちでじっとして居られなくなり、堅気のみなさんには迷惑であるとは思ったが、我慢できずにやって来てしまったのだと。
八助は自分の折られた右腕をさすりながら聴いていたが、夜吉が話し終えると「むう……」とひとつ唸って、「もしかして権太ってやつは、いいやつなのかな?」と相変わらず人のよさそうなことを云う。
夜吉も目に笑いを浮かべ、「どうだかな?」と云って応えたが、話はそこで終わってしまい、やはりみんな相楽のことが心配で、その気持ちもすぐに沈んでいってしまうようであった。
するとそこへ、お花が医者の草薙氷庵を案内して部屋に入ってきた。部屋にいた三人は居住まいを正すと氷庵に会釈し、氷庵もまた目礼で返す。
もともと氷庵は無口で愛想のない人ではあったが、その名前とは違って冷たい心の持ち主ではない。患者の相楽はもちろん、心配する長屋の人たちの為にも、出来るだけの治療を施したいと考えている。
しかし氷庵の顔は曇っていた。昏睡の時間が長すぎるのだ。太腿と脇腹にできた金瘡の縫合は、今のところ化膿することもなく安定しているのだが、それでも──
夜吉とお花に手伝ってもらいながら、新しい晒を巻いた氷庵は少し迷った顔をした後、冷静な口調で長屋の者に伝えた。
「あと数日、おそらく二日くらいだろうか、このまま意識が戻らぬ時は、お覚悟なされた方が宜しかろう」
その言葉をきいて、そこにいた者すべてが一瞬息をのむ。特にお花は途端に身体がガタガタと震えだしたようだ。
それに気づいた夜吉はお花のその手を強く握った。
「傷口の塩梅がよくねえんでしょうか?」
誰も声を発せないでいたなかで、虎蔵だけがしっかりとした口調でその理由を訊くと、「いや、そうではない」と返事をした氷庵は眉を寄せて話し出す。
「失血が多すぎたのだ、目覚めぬことにはこの衰弱には抗えぬ」
その後、氷庵はまた明日来ると云って帰っていった。いつも玄関まで見送るお花であったが、この日は腰が抜けたようになって動けず、代わりに後からきたお梶が見送ることにしたようだ。
相楽のまわりに座る長屋の者たちは、誰も口を開こうとせず、病間には重い空気が泥のように垂れ込んで、ただただ息苦しさだけが残っている。
外では日暮れを告げる鐘の音が鳴っていた。
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