第20話 ケムリ

 秘剣の無構えが破られた相楽はいま必死だった。その文字が表す通り、死を覚悟して懸命に戦っている。

 馬鹿のように泥濘ぬかるみの話をしたのも、必死さの現れのひとつであろう。しかし煙はそんな相楽を黙殺し着実に追い詰めていた。



「そろそろだと、其許も判っているのではないか?」


 煙がそう投げかけてきた言葉は、いま煙が相楽を捉えている呼吸のことだ。


「なにも俺に付き合う事はないのだぞ、呑まれる前に打って出てはどうだ?」そう云って、煙はまた一歩前へと詰めた。


 相楽とてそんな事は判っているし、打って出ようと試みてもいる。だが悉く逆に斬られることしか想像できずに止めていたのだ。

 ゆえに相楽は体中剣の構えのまま変化をみせない。刀を芯に合わせ、間合いを遠くに維持する事で精一杯である。


 しかしそれさえも今では煙にそうさせられているような、自分で動いているのではないという違和感を覚え相楽の気持ちを焦らす。


 二人の斬り合いはその刀を振るうことはなくとも、お互いの呼吸を支配しようとする戦術的攻防がずっと続いていた。

 同時に気を練り傷の痛みを消す作業も進行させていた二人は、集中が高まる事でいよいよ呼吸の奪い合いの決着をつけようとしている──


 前にも述べたが呼吸とは拍子、つまりリズムのことである。人間はその生命活動において無意識に、呼吸や脈動といったリズムを刻みながらその中で動いている。そのリズムを支配されるということは、相手のペースに巻き込まれることを意味した。


(確かにそろそろだ……)


 生唾をひとつ飲み込んだ相楽は、自分が煙との呼吸の攻防にやがて敗れるだろうことを認め溜め息をつく。


「やれやれ、私も呼吸を捉えることには自信があったのですがね、それがこの様です。まったく貴方は悉く私の上をいく」


相楽はそう云って苦虫を噛み、肩をすぼめた。


「いっそのこと逃げ出したいくらいです」


「ふむ、悪くない考えだが、その足の傷でかね?」そう云った煙の言葉は皮肉でもなんでもない。殺し合いにおいて、逃げて生き延びるのは恥ではないのだ。二人の剣客はそのことを知ったうえで話をしていた。


(まあ、無理な話だ……)相楽はそう心の中で呟くと、息を止め、間合いを前後に動かしながら、煙に呼吸を支配されることにしぶとく足掻く。もはや徒労と知りながらも必死に……


(──死ねぬのだ、だからと云ってまだ死ねぬ。まぐれでも何でも、生きのびて自遊長屋に帰らねばならぬのだから……)


 そう相楽が思った時である、突然頭の中に自遊長屋でのある記憶が浮かんできた。別に戦いへの集中が切れたわけではない。ただ自遊長屋へ帰るという思いが、脳に連想を与えたにすぎないのだろう。


(まぐれ、か……)


 一瞬に駆け抜けた記憶と共に、相楽は心の中で弱々しく呟いた。


(たしか長屋でも、そんな似た様な話をした事があったっけな────)



『そりゃまぐれだ夜吉、間違いねえ』そう思い出されたのは八助の声だった。


 鳴き蝉の権太とのケリをつけた後、八助の見舞いに相楽と夜吉の二人で行った事がある。その時に博徒と夜吉の殴り合いの顛末を聞いた八助が、したり顔でそう云ったのだ。


『まぐれまぐれ、そうでなきゃ玄人三人も相手にして無事で戻れる訳がねえよ。相楽の旦那だってそう思いますでしょ?』


 すると夜吉は口を尖らせて『まあそうだけど……何かおめえに云われると腹立つな』とヘソを曲げる。


 相楽は『まあまあ』と、とりあえず夜吉をなだめてから『しかしあれは、まぐれとは少し違うようですぞ』と、同意を求めた八助にそう答えた。


『ってえと、夜吉が奴らより強えってことですかい?』


 八助がそう驚いた顔をしたのに対し、相楽は『それも少し違います』と真面目な顔をしたようだ。


『わたしが見たところ彼らは居着いておりました。それゆえ不覚をとるのも必然と云う訳です』


『何ですかい? その居着くってやつは?』と、夜吉が興味深げに訊く。


『そうですな……一つのことに心が囚われて、その心身が膠着したり無意識に抑制してしまったりする事を云います。の宮本武蔵なども「居つくは死ぬる手」と厳しく戒めており剣じゅ、つ……』


 そこまで話した相楽は、夜吉と八助がなんだか分からないという顔をしているのに気が付いて、慌てて云い直した。


『つ、つまりですな、彼らは夜吉殿を初めから格下と判断し、その思い込みに合わせた力しか発揮できなくなっていたようです』


『ああ、なるほど合点がいった! ところでその宮本さんってお人は、相楽の旦那のご親戚か何かですかい?』と、八助は真顔で相楽をみたものだ。


『宮本さんって……八っつあん、あんたまさか宮本武蔵を知らねえのか?』


 とまあ、こんな何時もの感じの他愛もない記憶であったのだが────



(居着いて、いる?……)


 その瞬間、相楽はハッと何かに気付いた様に目を見開いた。


(いや待て、いまの俺がまさに居着いた状態そのものじゃないか……!)


 自分では客観的に煙との技量差を見極めて、勝てぬと判断した上での対抗措置を考えているつもりでいた。

 しかしそれがどうせ勝てぬという思い込みにすり替わり、無意識に勝ちを諦めてしまっていたのではなかろうか?

 そんな思考停止状態がゆえに、煙に呼吸を支配されるのを、小手先で足掻いてみせながら、ただその時を待っていただけになっていたのではないのか?


 そこに考えが至った時、己の心身の膠着が解け思考が再び開始された様な、そんな変化を確かに感じたのであった。


(危ういところであったわ……)


 むろん相楽のこの変化は、ほんの一瞬の出来事である。その間もずっと呼吸への攻めを続けていた煙は、僅かだがそれを感じ不審な顔をした。


「…………」


 この期に及んで相楽の居着きが消えたことの意味は大きい。とは云え間もなく煙が相楽の呼吸を支配し、絶対に有利な立場に立つ事に変わりがないのは相楽も分かっていた。

 そして煙も分かっている。長過ぎるとも云えた時間を使い、慎重に呼吸の支配に拘るのも、次の斬り合いで確実に生死の決着がつく事を予期して完全を求めたからだ。


(なるほど……ならば、賭けてみるか──)


 その刹那、相楽は無防備に息を吐き、煙が呼吸を支配しようとしてくる事への抵抗を突然やめた。

 それは煙にもすぐに分かり、かえって警戒への緊張感が走ったようだ。


「……何のつもりだ」


「つもりもなにも、そのままです。どうせこれ以上抵抗しても無駄でしょうからな」


 煙は自身の呼吸に相楽のそれが完全に同調している事を認めると、まるで相楽を試すかのように大胆にその間合いへと入り込む。しかし相楽はそれを嫌うでもなく動かない。


 少しの間、不動のまま対峙していた二人であったが、漸く決着をつける時が来たことをここに覚る──



「なるほど……己の運命に諦めがついたと云う訳かね」


「諦め?」


 相楽は真面目に不思議だという顔をして、煙の問いに答えたものだ。


「己の運命に対して準備ある者、それが武士だと思っていましたが。煙さん、貴方は違うのですか?」


 煙には相楽の返答が虚勢に聴こえたのであろうか。不快そうに眉を寄せると同時に刀の鯉口を切る。


「つまらぬ事を……」


 そして右手を刀の柄へとかけながら、「ならば終わりにしようか」という感情のない声を口から零す。


 二人の間合いはすでに十分にお互いの中に入っている。相楽は青眼から八相へと構えを変え、「望むところです」と気合と共に一声発すると、身体の動きをぴたりと止めた。


 それが合図となり、煙の身体が相楽に向かってすうっと動く。すると止めたはずの相楽の身体は釣られるように反応させられ、煙めがけて刀を振り下ろす予備動作が晒された。


 呼吸の支配は成った。煙は相楽の起こりを捉え、ただそれに合わせるのみ。鞘の中で存分に加速された瞬電の一刀が抜き放たれる。

 相楽の振り下ろしたはずの大刀は、天空を指したまま行き場を失うだろう。そして一文字に薙ぎ斬られた腹からは臓物が溢れるはずだ。

 煙にはそれが確定された事実のように、すでに視えている──


 そして相楽もそれを待っていた。煙が筋書き通りの完全な勝ちに拘っている事くらい、刀を交えていれば否でも判るというものだ。

 ならばこそ相楽はあえて煙による呼吸支配を受け、その筋書きを読むことに賭けた。起こりを捉えられている圧倒的不利に対処するには、読んで先に動くしか活路はない。

 むろん読み違えば斬られて死ぬだろう。それゆえ賭けなのだ。


(もとより捨て身が我が流派の刀法!)


 天空を指した相楽の一刀は、その胴をがら空きとさす。構えが八相ゆえ煙の攻めに小手と面はないだろう。ならばやはり胴か足。おそらく定石の胴。

 相楽は刀を振り下ろさぬまま大きく後ろへと跳躍する。


 果たして煙の剣閃は相楽の読み通り胴への軌道を描いたが、所詮相楽のした事は斬り込むと見せかけてのフェイントにすぎない。

 煙ほどの優れた剣士であれば、フェイントをしてくる可能性も筋書きの内であろう。

 斬撃の心象を即座に修正した煙は、後ろへと跳んだ相楽に吸い付く様に身体を寄せた。むろん放たれた一の太刀も空を斬らぬまま、凶暴にまだ生きている。


 相楽とて跳躍ひとつで、この不利な形勢を変えられるとは思ってはいない。それでも太腿の傷にも耐えた完全な跳躍が、こんな瀬戸際まで煙の長刀に追われるとは俄に信じ難かった。

 その凄まじき剣速による圧力は、触れずに相楽の臓腑を熱くする。


(だが、させるかよっ! 賭けはまだここからだ!)


 相楽の素早い体捌きは煙の想像を僅かに超えた。ぎりぎりのところでその胴に届くことなく、刀は虚空へと流れたのだが……煙は嗤っていた。


「このっ! 痴れ者めが」


 そう吠えると、抜き付けで鞘を握っていた左手を刀の柄へと握り替え、両手で追撃の二の太刀を相楽へと浴びせにきたのだ。

 当然狙うのは、隙だらけとなる相楽の着地である。体勢十分な煙は渾身の力で刀を振り下ろす。が、その刹那、相楽の大刀が煙に向かって真っ直ぐに鋭く投げられた。


「むっ──!」


 煙は相楽の投げた刀を身体で躱す余裕はなかった。すでに二の太刀の動作途中であったせいもあるが、何より煙は虚を突かれている。自分に向かって矢のように飛んでくる刀を、己の刀で弾くのが精一杯であったのだ。


 すなわち煙の二の太刀を封じる。これが相楽の賭けであった。


 着地寸前に刀を投げた相楽は、地にその足が着いた途端、すかさず低い姿勢から大地を蹴り、煙の懐へと踏み出した。あたかもそれは疾風のように大気を抜け、抜き放たれた脇差しが、ぎらりとその光を流す。


 だが、煙も相楽の動きは捉えている、「剣術を愚弄するかっ!」と叫ぶと同時に、左から斬り上げようと足を踏みしめた。その時である、煙自身も予期していないことが起きたのだ。

 それはほんの一瞬の出来事であったが、踏みしめた足が泥濘を感じ、無意識に足場を固めようと力を込めてしまったのである。

 いや、足場への対処は本来正しい。無意識にもそれをした煙はやはり優れた剣士だと云えた。

 にも関わらず煙にとっては仇へと変わる。この計算外の一瞬の力みが遅れとなり、まさに相楽の勝機へと繋がったのだから。


 相楽の神速の斬撃はその一瞬の遅れを逃さなかった。紙一重の差で相楽の一刀が先に煙に届くと、その胴を深々と斬り裂く。しかしそれはあまりにも紙一重すぎた。一瞬遅れた煙の剣もまた、すれ違い様に相楽の左脇腹へと届き、そのまま背中へと斬り上げていた。


(相打ちか……)


 相楽は今の剣戟が相打ちになったことを決して残念には思っていない。賭けに勝ったとさえ思っている。

 無構えが破られた時点で負けは決まっていたのだ、それが技とも云えぬただの必死の剣で相打ちに持ち込めた。望外の結果と云っていい。


 相楽はすぐに煙に向かって脇差を青眼に構えなおすと、煙もまた相楽に向いて右手一本で刀を青眼にとった。


「まさか刀を投げてくるとは呆れる」煙はそう云うと、胴から臓物が落ちないように左手で抑えて続ける。


「あんな見苦しい剣術で後れを取るとは……不愉快な話よ」


 もう二人ともこうして立っているだけでも精一杯な状態なのである。しかしまだ刀を握れる以上は、何度でも立ち合いに備えねばならない。それが剣客の矜持。


「相楽さん、あんた運命に対して準備ある者が武士だといったね」


 相楽は無言で頷いた、それをみた煙はひとつ息をついて再び訊く。


「泥濘の話をしたのは、俺がそれで意識を取られると思っての準備だったのかね?」


 相楽は出血が多すぎて意識が飛びそうになるのを堪えて「いいえ」と応えた。


「ただ必死だっただけです」


 それは嘘ではない。だが相楽は気がついてもいた。泥濘に煙の意識が向いたことも、勝ちを諦めた居着きに気付けたことも、すべて必死だったからこそ勝機へと繋がったのだ。


 そしてその必死さを助けたのは、すべてが日常での事柄であった。泥田の中で剣の稽古に励み、夜吉や八助と他愛もない会話に遊び、そして博徒達との嫌な出来事に悩む。どれも日々の生活の中にあり、どれも忙しなく通り過ぎていく。

 だがそのすべては消えなどはしない。今の自分を見守るかの様に、そっと後ろに控えているのだ。


 だからこそ一生懸命に毎日を生きる価値があるのだと相楽は思う。やがて来るべき運命の準備として、無駄になるものなど何も無いのだから。



 煙は「なるほど」と小さく頷くと、「さて、もうひと勝負いくかね」と無表情に笑った。


「はい、まいりましょう」と相楽は応えたが、もう煙にはそれが不可能であることを知っている。


 一歩、また一歩と間合いを詰めてくる煙は、やがてもう一歩と身体を動かしたとき、そのまま前のめりに地面へと倒れこみ、二度と動く事はなかった。


 相楽は立ったまま煙の様子をしばらく見つめていたが、やがて意識が遠のき、自分もその場に崩れ落ちて気を失ったのだった。

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