第19話 秘剣

 地面にうつ伏したまま動かない鮎川と、首から流れる血を手で押さえたまま座っている次太郎。共に絶命している二人を横目で見た相楽は、肩で息をしながら右足が動くかどうかを確かめていた。

 幸い動脈は切れてはいないようだが出血が多い、そのうえ足の運びにも支障が認められる。


(ちっ、長くは無理か……)


「惜しい腕だな、何も今ここで死んで無駄にすることはなかろう」


 煙はそっと庭へと降りて来ると、鮎川や次太郎の死などは歯牙にも掛けずにそう訊いた、「どうだ、考えを変えてみる気はないかね?」


 相楽はそれには答えずに、じっと煙の動きを目で追っている。


「俺と組めば金子きんすには困らんぞ」


 煙の無表情な笑い顔には、紛れもなく相楽への好意が含まれていた。おそらく本気で相楽の剣の腕を惜しいと思っているのであろう。


「ふむ、念流か……あんたならもう分かっているだろうが、俺はもうあんたの剣は見切っているよ?」


 それは相楽自身も確かに感じていたことであった。


(だろうな……)


 相楽は自分へゆっくりと近づいてくる煙に対して、刀を青眼に構えたが、煙はそれをまったく無視して続ける。


「浪人であることの惨めさを、まさか知らぬわけではあるまい」


「むろん、骨の髄まで知っています」


「そうだろう」煙はそう頷くと、その目を瞑るほどに細めた。


「瘦せ浪人と陰口を叩かれるのも、侍どもに負け犬と罵られるのも、商人ごときに雇われる屈辱も、すべて貧困のせいだというのが下らない」


「…………」


「所詮、金子など不浄のものだ。そんなもののせいで武士の面目を失うくらいなら、不浄のものらしく汚く盗んでしまえばいいとは思わぬか?」


 相楽は煙の芯に切先を合わせたまま、油断なく応える。


「思いませんな。むろん貧困は嫌なものです。しかしそんな中ででも、助け合いながら自分に恥じぬように生きている人たちもいるようです」


 それはおそらく自遊長屋の人たちを指して云った言葉だろう。むろん彼らは武士ではない故その面目も同じではない。

 しかし貧困によってこうむる世間からの理不尽は、同じ様に残酷だ。


「何を云うかと思えば……もとより俺は自分を恥じてなどおらぬが?」


「そうですか、なら貴方とは文字通り住む世界が違うようです。わたしは自遊長屋の住人ですし、そこで生活する彼らに共感を覚えます」


「……なにが云いたい」煙は口を歪めると鋭く相楽を睨む。


「つまり、長屋で貧乏をしながらみんなと助け合って暮らすのが、私の性に合ってるようです」


 すると煙の無表情な顔が、さらに能面のようにと変わり、纏っていた空気ががらりと重くなった。


「……それは俺と組む気は無いということかね?」


 相楽はその豹変で急に緊張を覚えたようだ。だが決して恐れを感じたわけではない。ゆっくりと刀を青眼から右斜め下へと引き変化させると、煙の問に答えを与えた。


「はい、私もお天道様に顔向けできると信じて生きていたいですからな」


 それは以前お花が云った言葉であったが、今ではそれが相楽の本心となっている。そして微かに頬笑むと、構えの重心を慎重に後ろへと置く。


 煙はそれには応えずに、ひとつ鼻で笑い、相楽のその変化に合わせて、一歩前へと間合いを詰めたようだ。


(右足は……まだ大丈夫だ)


 足先を十分に開いて前に出した相楽の右の太腿からは、あいかわらず出血が止まる様子はなかったが、それでも今はまだしっかりと地に根をおろすことが出来ている。


(煙はおそらく一太刀で勝負を決めにくるはず……)それが居合というものであるし、煙の技量ならそれが可能だと相楽は思っていた。


 もとより技の出し惜しみができる相手ではないのだ、それゆえ相楽はいま自分がもつ剣術技能の極点で勝負するしかない。


(──ならばこれより他になし)


 相楽はそのだらりと右に下げた刀のまま、頭を突き出すように姿勢を低くした。その構えはまるで隙だらけなようにみえ、前にだした頭を狙ってくれとばかりの、無謀な構えのように見える。だがこれこそが念流において秘剣ともいわれる『無構え』であった。


 この構えを見た瞬間、煙はその口角を大きく上げ、初めてその無表情な顔を崩した。


「おお、まさかこれは無構えか? 話で聞く以外、滅多にお目にかかれぬ秘剣であろう」


 あきらかに煙は感情を露わにしている。相楽はこの煙の変化に不審と不気味さを覚えた。


(こやつ、喜んでいるのか?)


 首筋に冷たいものを感じた相楽は、刀の柄を握る手に力を込める。幸いなことに手の痺れは取れていた。


「興味がありそうですね……試してみますか?」


「ぜひそう願いたい」いまの煙はまるで新しい玩具を貰った子供の様だ。


「ふうむ……技術的には随分と破綻した無茶な構えだ、だが面白い」


 そう独り言を云いながらも、徐々にと間合いを詰める煙の顔は喜色に満ちている。

 尚ぶつぶつと相楽の無構えを評価している煙は、心からこの立ち会いを楽しんでいるかの様にもみえた。

 おそらくこれが煙の剣客としての本性なのであろう。


 云うならば剣術狂い──



 やがて煙は左手で刀の鯉口を切る。


「此度の盗みは頓挫したが、それにも増したいい土産ができそうだ……」


 その刹那である、煙はそう云い終わらないうちに鞘から刀を滑らせて、抜き打ちに相楽の面へとその刀身を走らせた。


長刀なががたな──!)


 相楽にとってはまだ煙の間合いには入っていない計算であった。しかし瞬時に長刀の長い刀身がそれを可能にしたことを知る。だが相楽は慌ててはいない、もとより無構えは、捨て身の構えなのだから。


 この構えを前にした敵は、姿勢を低くして屈んでいる胴を狙うことはできず、自然前に突き出した頭を狙いにくる。むろん右下斜めに引いた刀の位置からでは、敵の斬撃を防ぐには間に合わない。それは敵も知るところだ。だからこそ誘いと分かっていても面を狙う。


 果たして煙もその面を真一文字に斬り払った。だが、そのぎりぎりのところで、相楽は頭を後ろへと反らしながら、捻じれのきいた右足をおもいっきり回転させたその勢いそのままに、後方へと弾くように足を引いて変わる。

 己の頭を囮とし、ただ敵の一刀を避ける事に全ての身体機能を費やすのだ。必勝の好機を生み出す為に命を懸けて。


 しかし煙の居合斬りの加速は凄まじかった。右手一本で伸びた一閃は、後ろへと逃げる相楽の頭を決して逃がすまいと、その切先が相楽の額へと喰らい付く。だがそれは皮一枚を斬ったのみで、わずかな血潮を飛ばしながら虚空へと流れていった。


(よしっ!)


 相楽は煙の流れた身体を見下ろすように上段へと構えを変えた。見事に無防備となった煙の頭上へ、渾身の一太刀を打ち下ろす。


 これが無構え、一撃必殺の剣であった。


「────!!」



 だが──相楽が煙の脳天へ刀を振り下ろしたその時である、煙の空いた左手が素早く伸びてきて相楽の刀の鍔に当てられたのであった。


(なっ──)


 煙の左手は力で刀を止めにきたものではなかった。十分に力を込めて打ち下ろした相楽の剣が、態勢不十分から伸ばした煙の左手などの力で、止められるわけがないのである。


(これは続飯そくいけか!)


 相楽が思った続飯付けとは、各流派で名前をかえて呼ばれる剣の極意のひとつである。続飯は米を練った糊を意味し、その名の通り敵の刀に自分の刀をぴたりと張り付かせ、敵の自由を奪い、それを崩す技術をいう。これには力は要らない、ただ相手の力を利用してそれに合わせるのみだ。


 だが煙の態勢からこの技を使うには無理があった、まさに緊急避難として咄嗟にだしたのであろう。相楽は張り付いた煙の左手を無視した、力で押し切れると判断したのだ。


(逃がすかよっ!)


 渾身の力で煙の脳天めがけて振り下ろした相楽の刀は、信じられないことだが僅かに崩されてしまっていた。その軌道は右へと流れ煙の左肩の肉を削ぎ落すにとどまったのである。




 相楽と煙、二人が斬り結んだ一合の死戦は、決着にまで至らず終った。両者とも崩れた態勢を立て直すため、お互いの間合いから外れて再びゆっくりと向かい合う。


 煙は肉を削ぎ落された左肩に目をやると、脈動に合わせて溢れる血の奥から僅かに骨が見えた。しかし何事もない顔で相楽に視線をもどし、「なにを驚いておる」と笑って言葉を投げかけた。


「続飯付けのことか? 確か念流にもある技であったはずだが」


 相楽は息を整え、刀の切先をふたたび煙の芯へと当てながら少し嫌な顔をした。


「技の知識が豊富で驚きます、勉強熱心なことですな」


 しかし相楽が本当に驚いていたのはその事では無い。あの不十分な態勢から続飯付けを使いこなした事にある。それも手刀でだ。本来は刀と刀でさえ非常に難しい技能だと云うのにだ──


 むろん現代の剣道とは違い、古流派においては戦場での実戦を想定した剣術を学ぶ。その中には刀を失った場合に備えての体術も当然あった。それゆえ煙が手刀の技を使ったこと自体は不思議ではない。

 しかしそれをこのような高度な技の応用で使いこなすとなると話は別だ。普通では到底考えられないようなことを煙はしてのけたのであった。


「それにしても無構えよ、まことに見事なものであった」煙はそう云いながら切先についた相楽の血を振り落とし、刀を鞘へと戻した。


「危うく死にかけたわ」


「…………」


「だが二度目はないぞ?」と、ゆっくりと半歩間合いを詰めた煙は目を細める。


 相楽にとって、この秘剣での一合で仕留められなかった事は、まさに致命的と云えよう。もともと煙との立ち合いに勝てる見込みは殆どなかったのだ。それゆえの無構えであったにもかかわらず、煙に破られた。

 無構えはひと太刀で敵を仕留める技ゆえふた太刀目は無い。同じ様にいまの相楽にも二太刀目はもう無いのである。


「どうした、次はどんな技をみせてくれるのだね?」


 相楽はそれには応えず、半歩後ろへと引きながら、(まさかもう無いとも云えぬわな)と心の中で苦く笑った。


「お互いにこの出血だ、長くは斬り結べぬ。早々に決着をつけようかね」そう云って煙はまた半歩前へとでる。


 煙の左肩からも、相楽の右腿からも、血は流れ続けていて止まる気配はない。加えて相楽は鮎川との剣戟のあとである、その体力の消耗もはげしい。


(確かに、早く決着をつけねばならぬようだな……)



 こうして間合いを取り合っている最中さなかにも、煙は相楽の呼吸を支配しようと無言の攻めをしてきて容赦がない。

 次太郎とのときは煙への意識がなかったし、冷静でもなかった。それゆえ不覚をとったが、立ち会っているいまは相楽とてそれを易々と許すわけにはいかぬのだ。


「なかなかに上手くかわすじゃないか」煙がそう云ったのは、むろん呼吸のことである。


「なに、わけもないことですよ」


 相楽はそう強がってはみたが、一瞬でも気を緩めたら、瞬く間に煙に呼吸を呑まれるだろうと思っていた。むろん相楽からも呼吸の攻めを試みてもいたが、煙にその隙はまったくない。


 攻めの手がいまは何もない以上、(とにかく守りに徹するしかない)と、相楽は体中剣の構えをとりその守りを固めた。


 それをみた煙はまた半歩間合いを詰めながら、「それはさっき鮎川につかった構えだね」と云って薄く笑う。


「また防ぎきろうと思っているならよしたほうがいい、鮎川の打ち込みは重いが速くはないよ」


 煙は暗に自分の剣速なら、相楽が受ける前に斬れると云っているのであろう。そして相楽もその通りだと思った時、背中に冷たい汗が流れた。



────ジワリ、ジワリ


 そう云う音が聴こえてくるかと思うほど、煙はゆっくりと相楽の呼吸を絡め取っていく。


 相楽は体中剣のまま、そして煙は左手を鞘に添えたまま、互いに対峙して仕掛けずにいるのは、呼吸の奪い合いの渦中にあるからだ。

 むろん早い決着が望ましい事は承知している。だがその気持ちとは裏腹に、双方の身体は思い通りにはなってくれない様であった。

 

 無理もない、煙は肩の肉を削ぎ落された痛みのせいで、思うように集中できず気が練れないでいる。それゆえ相楽を追い詰めるにも、慎重に時間をかけざるを得ないのだ。

 それは相楽とて同じで、ぱっくりと肉が割れた太腿からは耐え難い痛みが付き纏い、時間経過とともに痛みの輪郭はより一層はっきりとしてくる。


 互いに限界は近く、次に斬り結ぶ時がどちらかが死ぬ時だと二人は判っていた。


 正直云うと相楽は、もはや煙との剣術勝負に勝てるとは思ってはいない。この呼吸の奪い合いにもやがて自分が敗れることを知っている。

 だからと云って必ずしも自分が死ぬとは思っていない。何故ならいま二人は己の命を対価にして、殺し合いをしているのだから。

 ならばこそ煙は剣の技量差以上に慎重となり、相楽は剣の技量差では負けると分かっていても、諦めずこうして立ち向かう。


 命懸けとはそれほどに重い────

 


 煙はまた半歩間合いを詰めてきたが、相楽はそれを嫌い一歩後ろへと引く。その時、足の裏に伝わる感触が大分変ってきていることに気が付いた。あられが溶け出し土がぬかるんできているのである。


 相楽は思わず(この泥濘ぬかるみで滑ってくれぬだろうか……)などと都合のいいことを思ったが、煙ほどの優れた剣士にそれは有り得なかろう。


 そんなことは判りきっているにも拘らず、何故か相楽はこの泥濘のことを捨て置くことが出来なかった。


「煙さん、気がついていますか、霰が溶けて足元がぬかるんできましたよ」


 煙は怪訝な顔をすると、「はて、この程度で何を気にするのか」と意にも介さぬ。


「いやいや、泥濘を甘くみてはいけません。我が流派の門人には農民も多くいましてな、泥田の中でよく一緒に稽古したものです。まこと油断ならぬものですよ」


 煙はそれには応えずに、自分の気を練ることに専念し慎重に呼吸を計っている。


「居合ではまさか泥田での稽古などなさるまい、お気をつけなさい」と相楽はなおも諄く云った。


 すると煙はその無表情な顔に明らかな不快感を浮かべて、「つまらぬおしゃべりはよせ」と吐き捨てたのだった。


(つまらぬことか……)


 確かに相楽のしている事は、一見ふざけているのかと思うくらい緊迫感のない態度にみえた。殺し合いの最中に云う事ではないと誰もが思うだろうが、相楽本人は至って真剣そのものなのである。


 或いは煙が集中するのを阻害しようとしているのかもしれない。その意図は判らぬが、相楽が命懸けで話していることだけは確かであった──

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