第15話 沈丁花

「おう、お花、見ろよ、梅が綺麗に咲いてるぜ」


 夜吉はお花と大川の堤沿いを歩きながら、嬉しそうにそう云った。二月に入ると春の気配を感じられる日が訪れるようになり、心なしかぬるんできていた大川の水がきらきらと光を反射させている。

 そんな季節の変化を感じたお花は、なんとなく心躍る自分がいるのを愉しんでもいた。


「ほんと、綺麗ねえ」


 今日は夜吉とお花の二人で猿若町へ市村座の芝居見物に来ていたのだ。もちろん誘ったのは夜吉のほうであるが、夜吉は夜吉で虎蔵から、たまにはお花を芝居にでも連れ出してくれと頼まれたことに勇気を得たという経緯いきさつがある。


 むろん頼まれるまでもなく夜吉にしてみれば、お花と一緒に出掛けたいとは思っていたのだが。

 元が兄妹同様に暮らしてきた二人なのである、気持ちを持て余すばかりで無駄に遠慮してしまうのだろう。その結果、自分でもじれったい思いをしながらも、なかなかお花を誘えずにいたようだ。


 そんな夜吉の胸中を知ってか知らずか、虎蔵は夜吉の背中を上手く押してやった事となったわけだ。


 お花はお世辞ぬきで綺麗であった。高価なものではないがよそゆきの着物を着て、少しだけ控え目な化粧をし、二十歳という年頃がそれをまた際立たせている。

 夜吉はうっかりすると、お花の姿に見惚れてしまって、思わず独り照れたりもしていた。


 いまもついお花に見惚れてしまっていると、お花がその夜吉の視線に気付いたのか、「なによ……」とすこし恥ずかしそうに上目遣いでそう訊く。


「な、なんでもねえよ」夜吉はわざと無愛想な顔をしてそう応えたものである。




 さて、相楽の方は、はどうしていたであろうか。正月祝いの宴会が終わると、その日は長屋に泊まって次の日の朝早く木場の仕事場へ戻って行ったのだが、帰るそうそう木曽甚の主人が是非にもあと暫らく、相楽に用心棒をやって頂きたいと頼んできた。

 他の三人は三月ごろまでの約束であったらしいが、相楽だけは年末年始の物騒な時期だけと云う約束であったのだ。しかし志士と名乗る浪人集団との強請事件を考えると、やはり主人としては用心棒が多いほうが心強いと思ったのであろう。

 相楽は寺子屋のこともあったので、二月の初め頃までという約束で請け負うことにした。


 そんな用心棒生活もあと三日で終わる。あれから新たな浪人集団の強請もないし、例の撃退した浪人たちが仕返しにやってくる事もなかった。相楽はその仕返しを一番心配していたわけであるが、それも杞憂に終わりそうである。


(なんともぽかぽかとして気持ちのよい日だ)


 相楽はごろりと横になりながら、人目も憚らず大きな欠伸をした。


 我ながらだらしがないと思う相楽なのだが、今日に限っては伸び伸びとしてしまう訳があるらしい。

 いや訳というよりは言い訳といったほうが適切か、ともあれそれは、今日は店が休みで、ほとんどの雇用人が居ないからというのがその訳であった。


 というのもこの日、店では年に一度の雇用人たちの慰安をする日で、主人が雇用人たちと連れ立って湯島天神へ梅を観に行っている。その後はみんなして料理茶屋で食事をするそうで、帰りは夕方になると聞いていた。

 なかなか粋なことをする主人ではないかと、相楽は感心していたようだ。


 そういうことで、いま店には小僧二人と手代が一人だけ残って留守番をしている。留守番が三人と少ないのは、むろん用心棒の四人を頼りに思っているからなのは云うまでもない。主人も安心して例年より多い雇用人を観梅へと連れて行ったようであった。



 その頼りになる用心棒の相楽は、雇用人の目が届かないのをいいことに、ごろりと寝そべりながら転寝うたたねしそうになっている。さすがに寝るのはまずかろうと思い体の向きを変えると、今度は庭を漫然と眺めはじめた。


沈丁花じんちょうげか……)


 ここの主人の趣味なのか、それとも庭をつくった庭師の考えなのか、母屋との境に沈丁花の生垣が長くのびている。

 その沈丁花がいまが盛りと咲き乱れ、甘く強い香りが陽だまりに温んだ空気と溶けあって、まるで相楽を包み込むように匂ってきていた。


(そういえば、織枝はこの花が好きだったな……)


 相楽がこんなふうに死んだ妻の織枝のことを思い出すことは、久しくなかった。妻のことを想い出すとき、それはいつも苦労をさせたまま死なせてしまったという悔恨が必ずともなってきたからだ。

 だが今日の相楽は、なんだかくすぐったいような懐かしい気持ちで織枝を想い出している。それはもしかすると、相楽がほんの少しだけ幸せな自分であったせいかもしれなかった。


 相楽と織枝とは歳が四つはなれた従兄妹同士で、織枝の兄と相楽が同じ歳であったせいもあり、小さな子供の頃からよく三人で遊んだりもしていた。

 もっとも相楽の目当ては兄のほうであり、織枝はあくまでオマケなわけだが、それでも織枝は相楽のことがお気に入りであったとみえて、「りょうのしんさま、りょうのしんさま」と云って何かと相楽の後について離れようとしなかったようだ。


(あれは俺がいくつの時だったろう? ああ、たしか、元服する前の年の十二のときか──)


 ある日のこと、相楽が織枝の兄から本を借りるため、屋敷へ遊びに行ったことがあった。

 なんの本であったかは忘れたが、相楽がその本を独りで興味深く読んでいると、そこに織枝がやってきて云ったのだ、「遼之進さま、見てください、とっても綺麗ですのよ」


 それは幾本かの沈丁花の枝であった。相楽はそれを一瞥しただけで、「邪魔をするな、あっちへ行ってろ」とにべもなくそう突き放す。


「まあ! 遼之進さまは沈丁花がおきらいですの?」


 相楽は眉を寄せ、織枝をうるさそうにしながら、「ああ、きらいだね、その甘ったるい匂いが気に入らない」そう云って本に目を戻したのだった。


 しばらくして何も云わない織枝に気がついた相楽は、ちらりと織枝のほうをみる。すると織枝が口を尖らして、目に涙を溜めながらじっと相楽を見つめているではないか。


「なにも泣くことはないだろう……」


「織枝は泣いていません!」


「…………」


「泣いていません!」


「わかったよ、織枝は泣いていない」


 こくりと頷いた織枝をみた相楽は、なんだか急にいじらしくなって、少しごまをするような口ぶりで訊く、「織枝は沈丁花が好きなのか?」


「はい、織枝は沈丁花が好きですわ、この花も匂いも好きです」


「そうか」と相槌をうった相楽が、つぎに何か云おうとした言葉にかぶせるように、織枝が強い口調で、「でも、遼之進さまのことは嫌い!」


 そう云ったときの昔のことを、相楽は想いだしていた。なんでもない、ただの日常の一場面を想いだして、いま独り頬笑んでいる自分が、相楽には心地よくもあり、その懐かしさが少しせつなくもあった────




「けっ、胸がむかむかする匂いだぜ」


 自分の想い出のなかにいた相楽は、当然現実から聞こえてきた次太郎の言葉にどきりとする。


「なんて名前の花かは知らねえが、はしから全部ちょん切ってやりてえや」


 もちろん次太郎に相楽の心のなかを覗けるはずもないのだが、相楽はなんとなく自分のなかを覗かれて、沈丁花と妻との想い出を次太郎に汚されたような、そんな不愉快さを覚えたようである。


 公平に云えば次太郎に罪はない。そもそもここ最近、沈丁花の匂いが嫌いらしい次太郎は、その苦情ばかりを云っており、それは相楽も承知していたことなのである。だからこの花にたいする悪態も、今にはじまったことではないのだ。


 しかしそうは思えなかったのも、やはりこの用心棒仲間たちとは、当初から馴染めないでいた所為であろうか、その気持ちが拍車となったとしても不思議ではない。

 だがそれもあと三日の話だ、仕事が終われば彼らとの縁も切れよう。相楽は横目で次太郎をみると、ひとつ溜め息をつくのであった。


「相楽さん、あんたはこの匂いは平気なんですかい?」


 次太郎が相楽にこう訊くのに、「そのようですな」と相楽は相手の顔も見ずに応えた。


「ふむ……」すると今度は奥で煙草を吸っている煙に向かって、次太郎が訊いた、「煙の旦那、なんであっしはこの花の匂いにむかつくんでしょうね?」


 煙は無表情で、「さてな」と云うと、「なにかこの匂いで嫌な事でも思い出すのかな」と興もなげに答える。


「うーん……嫌な事ですかい?とくに何もねえようだけど……」


「それなら単なる体質だ、諦めろ」


 次太郎は煙の言葉には応えずに、何かを思い出すような顔をしてしばらく黙っていた。すると突然に次太郎は「あっ!」と云って目を見開き、相楽のほうへ振り向くと、やがて意地の悪そうな笑いをじわりと浮かべたのであった。


「こいつは驚いた、まさか花の匂いで思い出すとはなあ……」


 煙は少しうんざりした苦笑いをし、「騒々しいやつだ、嫌な事でも思い出したのか?」と、おざなりに云う。


 次太郎は妙にニヤニヤとしながら、「いや、そうじゃないんですがね」と濡れた唇を舐めた。


「ちょっと面白い話を思い出したってわけで、いや、そういっちゃあ相楽さんに悪いかな」


 自分の名前を云われた相楽は、ちらりと次太郎を見た。するといやに意味ありげな顔をして自分を見ているではないか。


「うふふ、ずっと思い出せなくて気持ちが悪かったんだが、そうよな、たしかあの勤めていた屋敷にも、この花のいやな匂いがあったんだっけな」そう云って次太郎はにたりと笑った。


 相楽は次太郎のもったいつけた無礼な云い方に少し腹が立ち、「何かわたしに話すことでもおありか?」と訊く。


「いやね、古い話しでさあ、つまりあっしが中間ちゅうげん奉公をしていた頃の話しなんですがね」


 相楽はごろ寝から起き上がり、胡坐をくむと、「それで?」と話の先を促した。


「まあ、お大名の名前は憚られるからいいませんが、西国の小大名ってところでしょうかね、あっしが雇われていたお屋敷の主は、その国で番頭ばんがしらを勤めていらしてね、お名前は七海様といいましたっけ。田無川という小っこい川の流れる、若松町にお住まいでした……と、ここまで話せば相楽さん、あんたにも何か憶えがありませんかね?」


 相楽の顔色はすでに白く変わっていた。それは次太郎の云ったことに、確かに憶えがあったからである。当然ながら次太郎もそれに気付いたようだった。


「憶えていたようですなあ……まあ七海様はあなたが城勤めなさっていたときのご上司ですからね、当たり前といっちゃ当たり前か」


 そう云って次太郎が覗き込むようにして見た相楽の顔は、まるで氷が張り付いたような強ばった表情をしている。


「しかし相楽さんとこんなご縁があったとはねえ、世間はせまいですな」


 次太郎は露骨に下卑た笑い顔をしてみせ、「うふふ、相楽さん、ご新造さまはお元気ですかい?」そう云うと、また唇を舐めたのだった。

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