第14話 それぞれ

 自遊長屋で正月の宴会があったこの日、大家の菜衛門は家主の牡丹屋へ年賀の挨拶に行っており、長屋を留守にしていた。

 その挨拶は毎年この正月七日目の恒例行事で、この日にしか用心棒の仕事の休みがとれなかった相楽と、運悪く重なることとなる。


 その宴会もそろそろお開きにと近づいた頃、ようやくに菜衛門が帰ってきたようだ。

 大分遅刻をしたと云っては語弊があるが、とにかくこうして宴会に間に合ったことを、相楽をはじめ住人たちが喜んだのは云うまでもなかった。


「大家さん、間に合いなすったね、よかったよかった」


「おや大家さん、なんだ手ぶらでお戻りですかい? 牡丹屋の旦那もしけてやがるなあ」


 などと住人たちが勝手なことを云っていると、菜衛門が相楽の隣にやってきて、そしてみんなに向かって云ったものだ、「手ぶらとはご挨拶ですな」


「へへえ、するってえと、何かあるって事ですかね?」


「ありますとも、とびきりのがね」そう云ったあとの菜衛門の自慢の歯は、ひと際白くみえる。


「牡丹屋の旦那様に、相楽さんの寺子屋の話を了承して頂きましたよ」


 菜衛門のこの発表が消えかかっていた宴会の火に、また勢いをつけた。寺子屋の話をそれとなく噂で知っていた者は大喜びをし、まだその話を知らなかった者はなんだなんだと事情を訊きまわる。

 つまりは大騒ぎとなったわけだ。もちろん喜びに満ちた大騒ぎである。


 なかでもお花の嬉しさはひとしおであったろう。お花は一人俯いてじっと座り、握りしめられた両の手を見つめていた。やがてその瞳から、ぽろりとこぼれた涙がその喜びの大きさを物語っていたのではなかろうか。


(嬉しい……ほんとうによかった)お花は心の中でそう呟き、ゆっくりと顔を上げて相楽の方をみた。相楽もその視線に気がついたのであろう、お花と目が合うと相楽は低頭してみせ、やはり心の中で(かたじけない)と呟いたのであった。


「相楽さん、いや相楽師匠様だ、お師匠様、なにとぞ家のせがれをよろしくお頼み申しますぜ」


 誰かがそう相楽に云うのに、相楽はあわてて云ったものだ、「師匠はよしてください、どうかひとつ、それだけは勘弁して頂きたい、わたしはそんな師匠などと云われるほどの人間じゃありませんから」


「いやいや、そいつはいけねえ、物事にはけじめってやつが必要ですよ、やっぱりこれからは師匠でいかなくちゃ恰好がつかねえや」


 みんながそれに、そうだそうだの大合唱であるから、相楽は本当に困った顔をして、(まいった、これはまいったぞ……)と狼狽するやら照れるやらで、見ていて少し気の毒なほどである。


「これこれ、おまえたち、まだ話の続きがあるんだ、静かにしなさらんか」


 菜衛門がそう云うと、住人たちは素直に口をつぐんだ。いや素直というより、話しの続きへの好奇心がそうさせたと云えるだろうか。


 菜衛門は寺子屋に必要な机や筆、硯、紙と云ったものは牡丹屋の旦那様が揃えてくれる、そしてまなを建てる資材も用意しようと云ってくれたと話した。


 住人たちはそれを聞くと、家主のやつはずいぶん気前がいいじゃねえかとか、あくどく儲けてやがるなとか、店賃もまけろとか勝手なことを口走っている。


「ただしです」


 菜衛門がそれをさえぎるように云う、「その学び舎を建てるのは、みなさんの手で建ててもらいたいとの事でした」


 菜衛門がそこまで話すと長屋の住人たちは、ちょっとどよめいた。


「なんでえなんでえ」と、憤慨した顔で先陣を切ったのは八助である。「牡丹屋ともあろうものがずいぶんケチな話じゃねえか、俺たち素人で建てろってのは、どういうこってい!」


「八助、だからおまえは浅薄だというんだ」


 そう云った菜衛門は少し姿勢を正して続けた、「これは旦那さまというより、ご隠居の笠次郎様のおいいつけでな、長屋の住人みんなで建てたほうが思い入れも強くなり、その分自然と学問への心構えも出来てくるという事なのだよ」


「うへえ、笠次郎の爺様が云ったのかよ……あの風狂人め」


「わたしは名案だと思いましたよ、なに、子供たちが教わるだけの小屋があればいいのだ、素人でもできないことじゃない、そう思わんかね八助」


「云われて見ればそうかもしれねえが……」


 すると誰かが云った、「おう、俺は若けえ頃にちょっとばかし大工の手間取りをしていたことがあるぜ」


「俺も左官の仕事をかじったことがあらあ、役に立つかもしんねえよ」


「あっしは独り者の駕籠かきだが、相棒んちの餓鬼どもを寺子屋にいれてやりてえんだ、だから相棒にも手伝わせやすぜ」


 すると八助だ、「なにおう、俺だって腕一本ありゃあ、おめえら五人分くらいの働きをしてみせるぞっ」


 こんな具合に話が盛り上がってくると、住人たちは一日もはやく寺子屋を建てさせろと、やいのやいのと話しだし、中には捻り鉢巻までしだす者もいたようである。


 菜衛門は独りうんうんと頷いて、来月の初午はつうま(当時は二月最初の午の日が寺子屋の入学日であった)には間に合わないだろうがと云い、「みなさん、よろしく頼みましたよ」と頬笑んでみせたのだった。


 すると少し険のある男の声がした。


「すまねえが大家さん、ひとつ訊きてえんだが、いいかね?」


「ん? 定平さだへいさんかい、なんですかな」


 菜衛門に定平と呼ばれたこの男、歳は三十前後で痩せた体をした指物さしもの職人である。

 いつも眉間にかすかな皺がよっており、それは神経質な性格を現しているのだろう、半年くらい前に女房と二人で自遊長屋に越してきたばかりの新参者であった。


「寺子屋をみんなで建てるってえのは、この長屋の決まり事なんですかい?」


「いや、決まりって事はありませんよ」


 何となく定平に含みを感じた菜衛門は、少し真面目な顔になって言葉を続ける、「寺子屋が必要だと思う人たちが、おのおの自分らの気持ちでやればいいのですから」


 定平は菜衛門の返事を聞くと、少し黙ってからゆっくりと口を歪めた、「そいつを聞いて安心しました、生憎と家には子供がいませんからね、あっしらは係わらないでいさせて貰いまさあ」


「そいつはかまわんが……」


 さっきまで浮かれて喜んでいた住人たちの顔を一瞥した定平の表情には、露骨に嫌悪があらわれている。


「この宴会も大家さんの顔を立てるつもりでお仲間に入れさせて貰ったんだが、てっきり正月祝いだとばかり思い込んでいたあっしが、とんだ甘ちゃんだったという訳か……」


 そう自分を嗤うと、定平は皮肉な笑みを浮かべながら相楽を見たようだ。


「こちらの旦那もお人が悪い。そういう魂胆がおありの宴会でしたら、端からそう云って下さればよかったと思いますぜ」


 相楽は定平が云っている意味が分からなかった。それ故まだ頬笑んだ顔のままで、「そういう魂胆とは、なんでしょう?」と無邪気に訊いたのは、武家育ちの世間知らずというよりも性格であろう。

 だが、まだ相楽をよく知らない定平には、それが開き直った態度に見えて気に食わない。小さく舌打ちをすると立ち上がり、着物の裾を手で払う。


「なにね、もういいんでさあ、寺子屋商売がご成功なさるとよろしいですな」と云って、定平の女房に帰るぞっと促すのであった。


 つまり定平は、相楽と菜衛門が初めから打ち合わせの上で、寺子屋商売をやりやすくする為に、この宴会で住人たちの機嫌をとり、義理で縛ってしまおうという魂胆があったと思ったらしい。


 さすがの相楽もようやくその意味に思い至ったようである。すると両の掌を大きく振った。


「あ、いや、違うのです、この宴会は単にみなさんと正月を祝いたくて、これはいかん、たしかに寺子屋へのみなさまのご助力には感謝しております、もちろんそのお礼の気持ちもありますが、しかし、違うのです」


 顔を赤くさせ狼狽して云った相楽は、もちろん怒りで顔を赤くさせたのではなく、定平に誤解されたのが恥ずかしかったからであるのは云うまでもない。


 だが定平はそんな相楽の言葉などまったく聞くつもりはなかった。そして自分の懐から紙入れを出すと、そこから小粒を一つとり畳の上に置いて、「こいつであっしと女房の飲み食いの分は足りるはずだ」と云った。


 もちろん定平のしたことは律儀でしたものではない。長屋の誰もが嫌な顔をしたことでもわかるように、明らかな相楽に対する当てつけである。


 さっきから黙って聞いていた夜吉であったが、畳の上の小粒を見た瞬間その顔色はがらりと変わり、辛抱が切れたという風に声を震わせた。


「おい、そいつはなんだ? 定平さん、あんたずいぶんと気障きざなまねをするじゃねえか」


 夜吉を横目でちらと見た定平は、独り言のように吐きすてる、「……あとでただ酒を飲んだとか云われて、後ろ指でも指されちまったらかなわねえからな」


「相楽さんが云ったことを聞いていなかったわけじゃあんめえ、祝いの酒に代銀ってえのはおかしな話だぜ?」


「祝いの酒ねえ、そいつは何の祝いかにもよらあな」


「おめえ、相楽さんに謝らなくちゃいけねえようだな」


 定平はそう云った夜吉の言葉を聞き流し、舌打ちを一つして顔を背けると、女房をもういちど呼んで部屋を出ようと歩きだす。


「待ちなよ!」夜吉は組んでいた胡坐あぐらを立て膝にかえながら繰返した、「聞こえねえのか、謝れっていってるんだぜ?」


 定平は夜吉のほうは見ず、向こうを見たまま溜め息をつく、「夜吉さんよ、俺はくどいのは嫌えなんだがな」


「そうかい定平さん、それがあんたの応えかい」


「……そのようだぜ」


 黙って立ち上がった夜吉と、その気配に振り向いた定平はお互いの視線を合わせた。二人の拳はすでに硬く握られており、そこにいた長屋の住人の誰もが、二人の喧嘩がまもなく始まるだろうことに気がつき息を呑む。


 もちろん相楽も菜衛門も二人にそんなことをさせるつもりはない。仲裁にはいろうと相楽と菜衛門が同時に立ち上がろうとしたとき、虎蔵の声がしたのだった。


「おい、夜吉、こっちへきて酌をしねえか?」


 虎蔵は二人の喧嘩などにはまったく興味がないという顔をしながら、手酌で酒を啜っている。


「どうした夜吉、嫌なのか?」


 突然に虎蔵からそう訊かれた夜吉は、少し戸惑ったような顔をして、「だけど、おとっつあん……」と不満を漏らした。


「だけどなんだ?」虎蔵はそう聞き返すと、じろりと夜吉を睨みつける。


 夜吉は少し口ごもりながら、「だけど、あまりにもひでえと……」と云いかけた言葉に、虎蔵が厳しい声で言葉をかぶせたものだ。


「定平さんのことは、おめえの知ったこっちゃねえ、すっこんでいな」


「…………」


 虎蔵は黙っている夜吉を見ながらお猪口の酒を飲み乾して、「まだわからねえか?」と夜吉の方へと空のお猪口を突き出す。


 夜吉は虎蔵の真っ直ぐな目が、自分へと強く向かっているのを見て、「わかりました」と観念したように頭を下げたのだった。




 それを潮にして定平は女房と一緒に無言で部屋を出て行った。かたや夜吉はというと、部屋の隅のほうで拗ねた顔をして、手酌で酒を飲んでいる。

 そこにちょうどお花が新しい徳利をもってきて、夜吉に酌をしたようだ。まだ拗ねた顔をしている夜吉を、お花は肘でかるく小突き、小突かれた夜吉はお花をかるく睨む、そうして二人は一緒に苦笑いをした。


 相楽はそんな二人を見て、ほっと息をつくと虎蔵の横にやって来る。そして「ひとつ受けてください」と云って徳利を差し出したのだった。


「こいつはどうも恐れ入ります」虎蔵はそう恐縮すると、お猪口に残った酒を飲み乾して空にした。「ばちが当りそうで怖えが、ありがたく頂戴いたしやしょう」と、胡坐をなおして正座にしたのは、やはり武家である相楽への礼儀であったろう。


「いやいや、どうかお気楽に」とかえって自分も恐縮した相楽は虎蔵に笑いかけ、「ありがとうございました」と礼をのべた。


 すると虎蔵は、なんの礼だかわかりませんがと云って相楽に返杯をし、少し黙ってから、「できることなら定平のことは、怒らないでやってくだせえますか」と頼んだようだ。


「むろん、怒ってなどいません」


 相楽がそう真面目な顔をして応えると、虎蔵はひとつ頷き、手にしたお猪口のなかの酒をみつめながらゆっくりと語ったのである。


「あっしも人から聞いた話なんですがね、定平のやつはずいぶんと自分の子供を欲しがっていたそうなんです……それこそ夫婦でご利益のある滝にうたれたり、護摩祈祷もさんざんやったようです。だがそれでも子宝には恵まれなかったんでしょうな、さぞや悔しかったことと思いますよ」


「そうですか……」


「ええ、定平のやつがあんな当てつけの様なことをしたのも、もしかしたらそんなところに理由があるのかもしれません」


 相楽はいま聞いた虎蔵の話を噛みしめるように目を瞑ると、やがて静かに云う。


「難しいものですな、本当に簡単ではない」


 虎蔵もまた自分自身にでも言い聞かすかのように、「どうやら生きるってことは、一筋縄にはいかないようです」と云って酒を啜ったのだった。


「しかし……」


 そう呟いた相楽は顔を上げ、どこかを視た目は優しくて。


「いいものです、みんな一生懸命でわたしは大好きです」


 虎蔵もまたそれに頷くと、まあひとついきましょうと相楽のお猪口に酒を注いだ。そのとき相楽が「いただきます」と云って頬笑んだ顔が、心に沁みるような美しい笑顔であったことを、虎蔵はずっと忘れなかった。

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