第13話 正月祝い

 年が明け、新年も明日で松の内が終わるという日に、自遊長屋ではちょっと珍しいことがおこった。大家の菜衛門の部屋にほとんどの長屋の住人たちが集まり、飲めや歌えやの大宴会をしているのだ。

 冠婚葬祭をぬきにしたら、こんなことは長屋はじまって以来のことかもしれない。部屋に入りきらない者は、土間に茣蓙を敷いてまで詰め込んでの大騒ぎなのである。


「いい酒だなあ、おらあこんな上等な酒を飲んだのは何年ぶりだろう」八助が酔いのまわった声でしみじみとそう云った、「んで、これはどこで造った酒だっけ?」


 長屋の住人の誰かが、この先の酒屋で買ったんだからその酒屋の酒だろと応える。


 するとこのやりとりを聞いていた夜吉は、首を左右にゆっくりと振りながら、「ったく、この長屋には間抜けか頓馬しか住んでいねえのか……」と呟いた。むろん夜吉もかなり酔っ払っているのは云うまでもない。


「いいか、八っつあん、上等な酒ってえのはな、灘の酒って決まってるのよ」


 八助は目を丸くして、「おっ、そいつはおいらも番付で見たことあるぜ! そうかい、こいつは大した酒だ」と云って感動している。


「地廻りの酒とは訳が違うのよ」夜吉は自慢気にそう応えると、湯飲みの酒を一気に飲み乾した、「かあっ、うめえ!」


「んで、夜吉よ、灘ってえのはどこにあるんだ?」


「おいおい八助さんよ、おめえはそんなことも知らねえのかい?」


「うん、知らねえ、すまねえ勘弁してくれ」


「しゃあねえやつだなあ、いいか? 灘ってえのは灘にあるんだぜ」


「灘は灘にあるのか! そいつは知らなかった、そうかあ、灘は灘にあるのかあ……」


「覚えておかねえと恥かくぜ?」


「あぶねえ! ありがとうよ、夜吉っ」


 その二人の様子を見ていたお花が呆れ顔をしながら、芋の煮っ転がしを山盛りにのせた大鉢を運んでくると、夜吉たちの前に置いて云ったものである。


「あんたたち、大事に飲みなさいよね、相楽さんのせっかくの振る舞い酒なんだから」


「そうだ、ちげえねえ」夜吉と八助は同時にくずしていた足を正座に直し、相楽に向かって頭をさげた、「相楽さん、ご馳走になります!」


 お花はため息まじりに、だめだわこれはと苦笑したが、二人にお辞儀をされた当の相楽は慌てて手を大きく振りながら、「いやいや、どうかお気楽に!」と真面目な顔で云ったものだ。



 お花が云ったように、この宴会を催したのは相楽であった。むろん生活にそんなゆとりもない相楽なのであるから、当然理由がある。相楽としては日頃から世話になっている長屋の人たちに、なにかお礼がしたいとずっと考えていた。

 もちろん寺子屋のことでの感謝の気のちもあったであろう。そんなところへ、思わぬ金が入ったのだ。これは渡りに船だとばかりに、さっそく菜衛門に相談して正月祝いをさせて貰ったという訳だ。


 なにより相楽自身も楽しみたかった。こんな気持ちになったのは、ほんとうに久しぶりのことなのである。


 ところでその思わぬ金というのは何か? まあ早い話が仕事での臨時収入な訳なのであるが、その経緯を一応話せばこういうことである。


 正月も三日目という日、相楽が用心棒をしている材木商の木曽甚に、例の志士と名乗る七~八人の浪人風の集団がやってきた。むろん目的は尊皇攘夷の活動資金を提供せよという強請ゆすりだ。


 四人の用心棒のなかでこの集団の交渉にあたったのは鮎川であった。あの無骨な感じがする男にしては、なかなか落ち着いた交渉をするのを相楽は少し意外にも思ったが、それはともかく、交渉といってもこちらは金など払うつもりは初めからないのである。

 鮎川は店先でこの集団が暴れ出さないように巧みな話術を交えて、店の裏にある人気のない材木置き場へと彼らを連れて行った。


 志士と名乗る浪人集団も端から四人の用心棒を見くびっていたふしがある。倍も人数がいたせいかは判らないが、彼らもこのての用心棒には慣れていた為というのが本当かもしれない。

 材木置き場へ来るとすぐに、半分面白がっているかのような態度で相楽たち四人を取り囲んだ。そして少し用心棒たちを痛めつけ、あしらってしまおうと考えていた様であったが──


 しかし結果はその通りにはならなかったようだ。逆に浪人仲間二人を死なせ、何人かの怪我人をつれて逃げ帰ることになったのである。


 こういう結末になったのは、ひとえにけむり長刀なががたなでつかった居合いの凄まじさ故であったろう。

 あっという間にその集団の纏め役の男を見極めると、黙って抜き打ちに殺してしまったのだ。

 それを見て一瞬呆然となっていた集団の男たちの一人に、今度は鮎川が間髪いれずその豪腕で剣を脳天に叩き付けた。いやはやなんとも猛烈なものである。


 つまりはその二太刀で、ほとんど用心棒の仕事は終わってしまったと云えた。狼狽しながらも襲い掛かってくる残った集団の男たちを、相楽や次太郎とで数回小競り合いをしたのち、その浪人たちは逃げていってしまったのであるから。


 仕事が早々に片付くと、相楽以外の三人は何ごとも無かったかの様に母屋へと向かったが、相楽一人はその場でしばらく動けずにいた。なにも今おきた斬り合いに動揺していたからではない。煙のつかった居合が頭から離れないでいたせいなのだ。


 それにしても……と相楽は思った。もし自分が煙の居合いと立ち会ったとしたならば、果たして勝つことができるだろうかと。


 そう考え、しばらく瞑目していた相楽が、やがて目を開いたときに流れた冷たい汗の嫌な感触を、その後いく度も思い出すたびに、相楽は苦い顔をしていたようである。


 ともあれ四人の用心棒が首尾よく浪人集団の強請を撃退したことに、木曽甚の主人は大喜びであった。正月ということもあって気前が良くなっていたのだろう、主人が四人に慰労金を用意してくれたのには、正直相楽はおどろいた。思わずその頬が緩んだ相楽のだらしのない顔のことを、あえてここで云うのは少々意地悪というものか。



 そういうわけで、その慰労金が思わぬ金というものであり、今回の長屋の宴会の元手となったという訳である。

 相楽は、はじめ料理茶屋でするつもりであった。しかし菜衛門がそれでは長屋の者が遠慮してしまって楽しめない、ここは分相応にやるのがいいだろうと云って、こういうかたちの宴会となったのであった。


「そういやおめえ、あの居酒屋の娘とはどうなった?」そう長屋の誰かが酔った口調で話を振ると、訊かれた相手が「惚れて通えば千里も一里、逢わで帰ればまた千里」と唄ってかえす。


「なんだそりゃ」


「ちえ、おめえ都々逸どどいつを知らねえのかよ、野暮天め」


「てやんでえ、都々逸くれえ知ってらあ、どういう意味だって云ってんのよ」


 すると別の男が横から入り、「つまりふられっぱなしってこったろ」と笑う。


 そうかと思うとあっちでは、酔った女房に手を焼く亭主もいるようだ。


「おい、かかあ、あんまし呑み過ぎるもんじゃねえや」


 するとその女房、片膝を立て襦袢をみせながら「なにおう、この宿六、文句があるかあ!」と、かなり出来上がっているご様子。


「ちょちょ、おめえ襦袢が見えてるぜ!」


「なんだいあんた、あたしの観音様が懐かしいのかい」などと、あられもない事を平気で話しているのだから逞しい。


 まあこんな具合で長屋の住人たちの遠慮のない楽しそうな様子を見てみると、菜衛門が云ったことが正しかったといえるのではなかろうか。


 相楽はそんな住人たちの姿を眺めながら、幸福そうな顔して酒を飲んでいたようだ。


「相楽さん、どうぞ」


 いつの間にか横にいたお花が、手に徳利をもって相楽に酌をしようと頬笑みかけている。


「やや、これはかたじけない」そう云ってお花の酌をうけた相楽はぐっとそれを飲み乾すと、今度はお花に返杯した、「お花殿も、ひとついきましょう」


 お花は少し照れくさそうにそれをうけ、ちょっとだけ口をつけてから云った、「ほんとうに今日はありがとうございます、こんな楽しいお正月を迎えることができて……」


「なんのなんの、礼をいうのはわたしの方です、今までみなさんにしてもらった親切は、こんなことでは返しきれない」そう云った相楽の顔は口を引き結んだ真剣な顔であった。


「そうそう、女子衆には料理までさせてしまって、店から仕出しを頼んでもよかったのですが」


「そんな贅沢をすると、みんなびっくりしてお腹をこわしてしまいます」


「なんと、それは本当ですか?」


「ええ、本当ですよ」そう云って含み笑いをしたお花は、ほんの少し酔いがまわって色っぽかった。


 むこうから昔は芸妓であったという大年増の女房が鳴らす、三味線の音が聴こえてくる。相楽のような遊びを知らない者には曲名などは分からなかったが、何ともしっとりとしていい音色だなと思った。聴くものが聴けばそれが「梅にも春」という曲であったことが分かったであろう。



 すると誰かが相楽に云った、「相楽さん、鳴き蝉んところの奴らを懲らしめたときのお話を、聞かせておくんなさいよ」


「おう、そいつはいいや、おいらもぜひ聞きてえ」


 相楽はこれには狼狽した。「いやそこは、どうかひとつ、ご勘弁ねがいたい」そう云ってすごい勢いで両の掌を振っている。


「そう云わねえで、お願えしますよ旦那」


「いやしかし、そもそも私は話をしただけでして、懲らしめてなどいないのです」


 相楽は頭を抱えてしまった。酒の余興だということくらい分かってはいたが、不器用なこの男に、話を盛ってみんなを楽しませることなど出来るわけもない。かと云ってこのままでは場が白けてしまうと、そんな心配をして焦ったりもしている。で、どうしたかというと。


「そ、そうです、活躍したというなら夜吉殿でしょう、ぜひ夜吉殿にそのお話を」と、話を投げた。


「えーっ、夜吉の話ですかい? ありゃただのまぐれだ」


「そうそう、それにもう聞き飽きやしたよ」


 どうにも夜吉にしてみれば、いい面の皮である。(ちえ、いいたいこと云いやがって)夜吉はちらとこの会話を横目で見ながら、鼻をならした。


 そこにようやく助け舟がやってきた。八助さんの登場である。


「やいやい、まてまて、だいたいおめえら、奥ゆかしい相楽さんが、自分で自分の自慢になる話をするわけねえだろ?」


「おや八助、それじゃあおめえが代わりに話をするとでもいうのかい?」


「そうさな、おめえら、相楽さんの話もいいが、ここはひとつ、夜吉のお花坊への気持ちってやつを聞いてみようじゃねえか」


 そう云って八助が夜吉のほうへ振り向くと、夜吉がぎょっとした顔をしたものだ。


「おいおい、冗談じゃねえぞ、八っつあん!」


 酔っ払いどもの悪ノリが手に負えないのは今も昔も同じである、「お、そいつはいいや」だの、「それよ、俺の知りてえとこは」などと云って、もう止まらない。


 それに対して夜吉は、「べらぼうめ、おめえらの酒の肴になるのはごめんだぜ、おとつい来やがれってんだ」と云ってぷいと背を向けると、湯呑に残った酒を一気にあおった。


 だが酔っ払いはしつこいのだ。今度はお花へと矛先がむく。「じゃあ、お花坊のほうはどうなんだい? いつの間にかべっぴんになっちまって、夜吉のほかにも懸想してくる野郎もいるんじゃねえのかい?」


 もしこれが現代なら完全にセクハラである。お花はうんざりした顔をして、空いた皿や徳利を片付けながら、「あんまり馬鹿いってると、これ以上お酒飲まさないわよ」と事もなげにあしらってしまった。


 むしろ動揺していたのは夜吉のほうであったようだ。(俺のほかにも、お花に惚れてる野郎がいるってえのか?……)そう思うとみるみる酔いがさめてきた。


 当の八助は「うへえ、こりゃ藪蛇だ」と云って、一口酒を飲んで笑っているのだから罪な男である。

 するとそこへ入口の腰高障子を開け、(お花さん、ちょっと……)と遠慮ぎみに手招きしている少女があらわれた。


 お花はそれに気がつくと、「あら、お美津みつちゃん、どうしたの? お入りなさいな」そう云ったが、酒臭い大人ばかりの部屋に入るには、まだ抵抗を感じる年ごろの娘なのだ。そのことを思い出し、自ら近寄ることにした。


 お美津は十四歳になる八助の一番上の娘である。「あのね、雫ちゃんがね……」と云いかけたところで、八助がお美津に気がついたらしい。「おや、なんだおめえ、どうした?」


 すると他の酔っ払いたちも「なんだお美津じゃねえか、どこの小町かと思ったぜ」とか、「おう、美人が足りなかったところだ、酌をしろ」などとからかってくる。八助は八助で、「てめえら、うちの娘にちょっかいだすつもりか」とわめく始末だ。


 お花は苦笑いすると、嫌な顔をして八助を睨んでいるお美津に、話の続きをうながした、「それで雫ちゃんがどうしたの?」


「あ、そうなの、雫ちゃんがぐずって泣きやまないの、あたいじゃ無理みたいで……」


 どうやら今日は八助の家で雫の面倒をみてもらっていたようだ。お花はすぐに「じゃあ、あたしが行ってみるわね、ありがとう」と云って、空いた皿と徳利を流しに置く。


 そのとき八助が、なんの気なしに云ったものだ、「ほんと雫ちゃんはお花坊になついているなあ、いっそ相楽さんに嫁にして貰って、雫ちゃんのおっかあになったらどうだい?」


 むろん冗談である。しかしお花の顔はみるみる真っ赤になっていき、「八っつあん、あんたもうお酒飲ませないからね、馬鹿っ」そう怒って外へと行ってしまった。つづいてお美津も、「おとっつあんの馬鹿!」と云って出ていった。


 取り残された八助は「なんなんだ一体……」とぽかんとしていたが、他の酔っ払いたちはみんな、余興をみるように楽しんでいたようだ。


 いや、一人そうでない気の毒な者を忘れていた。夜吉だけは顔色を青くして、(お花のやつ、なんであんなに顔を真っ赤にしやがったんだ……)と固まって動けなくなっている。


(ま、まさかお花のやつ……)


「はて、お花殿はなにを怒っていたのでしょう?」


 いやいや、もう一人いた。この朴念仁をすっかり忘れていた。相楽は徳利をもって夜吉の横にあらわれると、「ささ、夜吉殿、ひとついきましょう」と云って、夜吉が固まって握りしめていた湯呑に酒をそそいだものだ。


「夜吉殿?」固まって動かない夜吉を不審に思った相楽は、「どうしました?」とさらに追い打ちをかけたのは、もはや罪というものであろう。


 夜吉は目だけ動かして相楽をみつめると、半泣きをしたような、いびつな頬笑みを浮かべるのであった。

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