第17話 春の霰

 猿若町ではちょうど市村座の芝居が終わったところであった。表通りは人でごったがえしており、お花と夜吉はその人々を縫うようにして南の方へと歩いている。やがて二人が静かな町並みへとたどり着くと、夜吉がお花に振り返って云った。


「やっぱり、白波五人男はいいなあ」


 いま観た芝居を思い出しているのだろう、「弁天小僧菊之助は市村羽左衛門に限ると思わねえか?」夜吉はお花が自分の横に並ぶのを待って、そう訊いた。


「そうかしら? あたしはあんまり好きじゃないな」


「ちえ、わかってねえなあ、お花はよぉ」


 そういって力む夜吉が、お花には可笑しかった。通称の白波五人男で知られるこの芝居は青砥稿花紅彩画あおとぞうしはなのにしきえといい、当時の市村羽左衛門(後の尾上菊五郎)が女装の美男子である弁天小僧菊之助という盗賊を演じて、大人気となった。


「あら、あたしがどうわかってないのか教えてよ?」


「お、そうきなさったか」と云って夜吉はにたりと笑うと、「知らざあ云ってきかせやしょう」と弁天小僧の台詞を真似て、おどけてみせたものである。


 お花はそんな夜吉の愉しげな様子に、思わずぷっと吹き出してしまいそうになったが、何だかあまりにも自分までうきうきと愉しくなっているのが急に恥ずかしくなり、「ばかみたい」とわざと興味のない顔をして応えたようだ。


 哀れな夜吉はそんなお花の心中も知らずに、不安な気持ちになって、「なんだお花、芝居つまんなかったのか?」と真面目な顔をして訊くのだから可愛い。


「ううん……」お花は少しはにかんだ顔をして、「愉しかったわ、とっても」と上目遣いに夜吉を見て云った、「今日はありがとね」


「い、いや、なに」と夜吉は少し慌てたふうになって、「こっちこそありがとう」と照れて笑った。


 そうして自分の首を無意味にぱちぱちと叩きながら歩き出す夜吉の後を、お花は何も云わずについて歩いていくのであった。


 二人は浅草寺の雷門の方へ向かって花川戸町を歩いている。来る時にもう御参りは済ませてきたので、仲見世で長屋のみんなへの土産でも買って帰ろうかと夜吉が考えていると、ふとあることを思いついて立ち止まる。


「なあ、お花、これから相楽さんとこへ会いに行かねえか?」


「え、木場に?」


「うん、こっからなら東(吾妻)橋を渡って本所を抜ければすぐだぜ」


 お花は少し考えるふうな顔をして、「そうね、相楽さんとも随分あってないものね……」と呟き、勝手な道草を楽しむ子供の様ないたずらっぽい目をする。


「それに相楽さんも、雫ちゃんのご様子なんか聞かせてあげたら喜ぶかも」


「決まった! 帰りがちっと遠くはなるが、なに餓鬼じゃねえ、少しぐらい暗くなってもかまわねえだろ」


 そう云う夜吉もなんだか愉しそうである。


「あんたにしては良い思いつきだわね」お花も愉しげに笑っているのだから、この二人、妙なところでうまが合う。


「ちえ、あんたにしてはは余計だぜ」


 そんな二人が東(吾妻)橋を渡り、本所を三つ目通りの方に歩いていく途中のことである、不意に空から白いものが落ちてきた。


「おい見ろよ、お花、こりゃああられじゃねえか?」


 夜吉がびっくりしてそう云うと、「あらほんとう、霰だわね、どうしたのかしら? 別に寒くもないのにね」と、お花も不思議そうに眉を寄せた。


「よすか? 木場へ行くのは」夜吉がお花のからだを気遣ってそう訊いたのに、お花はへっちゃらな顔をして、「大丈夫でしょ、じきにやむわよ」と応えて、気にもせずに歩き続ける。


「いやさ、せっかくの着物がぬれちまうかもだぜ?」


 案外とまめな優しさを持ち合わせている夜吉なのだ。しかしお花は肩に落ちてくる霰を手で掃いて、「平気よ、ぬれる前にぽろぽろ落ちていくわ」とまったく気にもしていなかった。


「そうか、そんならいいが……」


 落ちてくる霰など気にせずに歩いているお花にくらべて、夜吉の心はなぜか急に塞いでいった。


(なにかと色々狂っていらあ)


 夜吉は今の時代を思い浮かべたものか、そう心の中で呟いている。


(世の中といい、季節はずれの霰といい、一体これからどうなっちまうんだろうか……)


 地面をわずかに白く染め始めた霰を踏みながら歩く夜吉のその横顔が、いつになく心細気であった事など、本人でさえ気付いてはいないようであった。




 相楽は独り庭にいた。さっき煙に斬られたと思ったことが頭から離れずに、ずっとそのことを考えている。目を閉じたまま、煙がつかう居合いと立ち合っている自分を想像しているのだ。そして三度ばかり仮想の剣戟を試みているのだが、どれも自分が負けていた。


 やがて相楽は苦笑いを浮かべて心の中で溜め息をつく、(やれやれ、いまさら剣士に戻るわけでもなし、なにをムキになっているのやら……)


 そんな事をしていた相楽は、もしかしたら次太郎に揺さぶられた辛い記憶を、無意識に忘れようとしていたせいかも知れない。


 ふと気がつくと、自分の着物に白いものがついていて相楽はおやっ? と思った。そして空に目をむけると、その白いものの正体がすぐに判ったようだ。


(こんな時期に霰か……)


 ぱらぱらと落ちてくる霰を相楽は少し考えるふうな顔をして眺めてから、肩をすぼめたかとおもうと、縁側へ向かって歩き出す。

 そしてちょうどその縁側に足をかけたときだ。向こうからどたどたと足音をさせながら、鮎川が襖をあけて部屋に入って行くのがみえた。


 鮎川は立ったまま、「こっちは終わった、いつでもいいぞ」とまるで怒鳴っているかのように話しだす。

 相楽はそんな鮎川を少し迷惑そうに眼で追うと、煙がそれに頷いているのを見た。何が終わったのか? とも思ったが、さして興味もないので、そのまま縁側に上がりごろりと横になる。どうやらいつもの相楽に戻ったようだ。


「ふむ、ご苦労だった」


 煙は無表情にそう云って鮎川の方を向き、そして微かに薄い唇を歪める、「まさか殺してはいないだろうな?」


 さすがの相楽もこの二人の応答に無関心ではいられない。


(──殺す?)あまりにも穏やかでないこの言葉に、相楽は思わず顔色を変えたようである。


 煙はその相楽の変化を見逃さなかった。まるでそれを待っていたかのように、落ち着いた口調で、「そういう事ですよ、相楽さん」と云うと、口からゆっくりと紫煙を吐き出しながら続けた。


「まあ、相談しましょうか」


 何がそういう事なのかはっきりとはしないまでも、それが不吉な意味を含んでいることくらいは判る。相楽が突然自分に訪れたこの不吉な何かに緊張し、警戒する心が働いたのは当然であったろう。


「はて、相談とは?」


 相楽は自分は何も気付いていないという態度をとり、体を起こすと素っ気なくそう惚けてみた。


 煙は相楽をみつめて笑う。いや、あいかわらず無表情で笑っているのだが、何度みても薄気味悪いなと相楽は思っている。


「なんだなんだ、まだ話していなかったのか?」


 鮎川が煙の横に来てどっかりと座ると、眉をしかめてそう云った、「たっく、なにをやっとったんだ今まで」


 鮎川は怒鳴るような声で次太郎の名前を呼んだ、「おい、喉が渇いた、茶を入れろ」


 まるで下僕かなにかのようにそう命じられた次太郎は、ぶつぶつと何か文句をいいながら立ち上がると、長火鉢にかけてあった鉄瓶をとったようだ。


「濃く煎れろよ」鮎川が鼻毛を抜きながらそう命じるのに、次太郎は舌打ちでそれに応える。だがそんな態度は気にもならない鮎川は、にたにたとした顔をして煙に話し始めるのであった。


「手代の若造と小僧たち、全部まとめて縛り上げておいたわ」


「猿ぐつわを嵌めるのも忘れてないだろうね」煙がそう訊くと、鮎川は何かを思い出したような笑いを浮かべて答えた、「むろんだ、ただな……」


「ただ?」


「うむ、ただな、小僧の中の一人がな、どうも色っぽい奴でな、ふふふ、まさに俺好みなのだ」


「ほう」


「ちょっと悪戯してやったら、泣き出してしまってのう、往生したわい」


 そう云って嬉しそうに笑う鮎川に、煙はわずかに眉を寄せて苦笑する、「この仕事が終わったら、好きなだけ陰間茶屋へでもいけばいい」


「それもいいが、あの小僧を攫っていくのも悪くない」


「それは仕事の邪魔になるとは思わんかね?」


「なに、冗談だ」


「ならばよし、さて、そろそろ始めようかね」


 煙は煙管を煙草入れに収めると、立ち上がって相楽の方を見た。ここまでの会話を聞いていた相楽には、もう大体の状況は飲み込めている。つまりこの三人はここ木曽甚の土蔵に眠っている銭箱を盗み出そうというつもりなのであろう。


 すると煙はまたしても相楽の心の内を読んだかのように、「そういうことだ」と云って頷いてみせる。


「どうです、相楽さん、ひとつ手伝ってもらえませんかな?」


 そして煙は懐から鍵束をとりだすと、「なに、合鍵はもうできている、難しいことは何もない」そう云って相楽の目を鋭くみつめた。


 相楽に向けられた煙の視線には、否やを云わせない強いものが宿っている。相楽はいま考える時間が少しだけ欲しかった。それは泥棒を手伝う手伝わないということを考えるのではなく、この突然に巻き込まれた状況を頭の中で冷静に整理したかったからだ。


「手伝うとは何を?」相楽はあくまでも惚けたふりをして云った。


「けっ! じれったい野郎だなっ」


 鮎川が唾を飛ばしながら相楽に怒鳴っる、「もうわかってんだろうが! 俺たちがこの家の銭箱を頂こうとしている事ぐらいよっ」


 鮎川は次太郎が煎れたお茶をがぶりと一口飲んで続けた、「俺たちはな、初めからこの家に目をつけていたのよ、それで用心棒をしながら色々準備をしてきたわけだ。もちろん、今日という雇用人が出払っちまう日があることの調べもつけてな」


 そう云った鮎川の言葉を引き継いで煙が云う、「相楽さんは正月に我々が浪人者を斬ったのを覚えていますな?」


 むろん憶えている。煙の長刀からのあの鮮やかな居合を忘れるわけがない。しかし相楽はその事には答えずに黙ったままでいた。


「時代が変わろうとしているのですよ、彼らがああやって強請りをするのも訳があってのことだ。つまり新しい時代へのいくさが始まろうとしているのです。そのために武士たるものが軍資金を集める事は、理に適ってはいませんかな?」


 むろん煙の云うことは、相楽を云いくるめようとしているだけの言葉である。それくらいのことは判っているが、確かに時代が変わろうとしているというのも事実で、それは相楽も認めざるをえない。だがしようとしていることは、所詮は盗みなのだ。


(なかなかに口がうまいな)


 相楽はおもわず苦笑いをすると、煙もそれに合わせて口元をゆるめて云った、「ですからな、我々は泥棒をするのではないのです。そのへんのご懸念はご無用に」


 煙も自分で云って可笑しくなったのだろう、めずらしく歯をみせて微かに笑っていた。


「なるほど、軍資金ですか」相楽がそう云うのに煙は「いかにも」と頷く。


「それで、私の軍資金はいかほど入るのですかな?」


「左様、手伝えといっても何もせずに見ていてくれればいい、それだけで二十両さしあげよう」


「ほほう……」


 相楽は心の中で舌打ちをしていた。こんな猿芝居に付き合っていたのも、自分が冷静になる時間が欲しかったからであるが、今ようやく頭の整理がついたようである。その上での舌打ちだ。


 結局のところ、盗みには加わらず黙って三人を見過ごそうが、盗みの一味に加わって逃走しようが、結果は同じなのだ。役人の目からみれば自分はすでに泥棒一味としてしか認識されまい。しかも相楽は浪人である。後ろ盾も何もない世間の厄介者なのだ、どんな申し開きも通りはしないだろう。


 ならば役人に知らせに走るか? いや、それを許す三人ではあるまい。そこまで考えが整理されたとき、相楽は自分の運命が決まってしまったように思った。


(やれやれ、腹を括れということか──)


 相楽はそう心の中で溜め息をつくと、部屋の外の空を見上げる。

 季節外れの霰はようやく止む気配をみせながら、庭を白へと染めているようであった。

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