第10話 覚悟
嘘ではなかった。もし相楽が寺子屋の師匠になれば、長屋の住人たちに少なからぬ負担を強いてしまうだろう。それゆえ遠慮したいと思った気持ちに偽りはない。
ただでさえ江戸の町人は義理や情に重きをおく人たちなのだ、無理してでも寺子屋に通わそうとする者もでてこよう。ならばといって束脩や謝儀に融通を利かせれば、ゆくゆくは住人の間で角が立つこともありえる。
(やはり私が遠慮することに間違いはないはずだ)
それなのに、いま相楽は居心地の悪さを確かに覚えていた。自分のために一生懸命になってくれているお花に対する気まずさのような、そういう類いのものではない。
その居心地の悪さの正体は、もうひとつの本音があるということ──
つまり相楽が遠慮した理由の他に、別の理由がもうひとつあるという事実を、お花に伝えていないことにある。
(すべて伝えねば、お花殿も納得できまい……それに──)
ここまで自分に真剣になってくれている人たちに、不誠実でありたくはない。相楽はそう思い、ずっと心に隠してきた、自分が人と関わるうえでの足枷を、お花に話そうと決意する。
本当をいえば、まだ自分だけの心の中に収めたままでいたかった。誰かに話せば、心の傷にも触れねばならなくなるのだ。しかしそれでも話さねばならないと思う相楽の性根は、やはり真面目なのだろう。
「お花殿」そう呼びかけた相楽は、涙を流すその目を見て胸が痛むのを感じたようだ。自分のためにこんなに泣かせてしまったことが辛いのである。
「わたしが申しました寺子屋の師匠をお引き受けできない理由ですが、実はもうひとつあるのです」
「もうひとつ?……」
小首を傾げて訊いたお花に、相楽は強く頷いた。
「はい、おそらくそれが、お花殿に私をずるい様に思わせた原因でもあるようです。いや、実際に私はずるいのです」
するとお花はたちまち顔を赤くして、「酷いこと云ってしまってすみません……」と、蚊の鳴くような声で謝罪する。
「あ、いや、そうではないのですよ、その理由というのを今からお話しします。うまく伝えられるか自信はありませんが、聞いてくれますか?」
お花は涙を着物の袖でそっと拭うと、「はい……」と小さく頷く。その瞳は相変わらず真っ直ぐで、相楽の言葉をきちんと受け取ろうという真剣さが伝わってきた。
相楽もその真剣さに応えるように頷いて、その理由というのを言葉にして綴りだす。しかしなるほど、自分でもうまく伝えられるか自信がないと云うだけあって、それはいきなり核心をつきすぎた、ちょっと突飛にも聞こえる内容だった。
「実を云うと、わたしは
案の定、お花はちょっとわからないという様な顔をした。あまりにも意外な理由を聞かされて、上手に受け取りきれなかったのかもしれないが、それも仕方ない。
「あの、それはどういう……」
「あ、これはしくじりました。こんに唐突な話、訳が分かりませんですな」頭をかきながら苦笑いを浮かべた相楽も、他人に初めて打ち明ける胸中の扱いに、いささか戸惑っているのだろう。もう一度整理するかのように呼吸を整えると、再び話し出したようだ。
「そう、お花殿は三年ほど前に死んだ、妻の織枝を憶えていますか?」
「もちろんです、大好きな方でした」
「つまりわたしが……その織枝を死なせてしまったのだと思っているのです。妻の不幸はすべて私と出逢ったせいであると」
そんなはずはない、当時に織枝が難産の末に亡くなった事は、まだ記憶に生々しく残っている。
それを自分と出逢ったせいだと云う相楽は、いくらなんでも乱暴すぎると思った。それにお花の見ていた織枝は、いつだって幸せそうにしていたのだ。
するとお花のその不審を敏く感じたのだろうか、(むう、どうも俺は自分の話を他人にするのが苦手なようだ……)と、相楽はそんな自分を残念に思ったが、いまさら仕方ないとあきらめて話を続ける。
「お花殿がご不審に思われるのもごもっともです。というのもわたしがそう考える様になったのは、まだ国許で侍をしていた頃の話まで遡らねばならぬからでして……」
そう汗をかく相楽は、詳しくまではお話しできませんがと前置きすると、自身の昔話をお花に聞かせた。
自分はかつて国許では少々羨まれるほどの
「しかし、それがかえって仇となってしまったようです」
必然、目立つ存在となった相楽は、目立ったがゆえに悪意の的とされた。しかも自分にではなく、妻の織枝にその不幸が降りかかることとなる。
それが元となり相楽と織枝は文字通り何もかも捨てて、二人で脱藩をしたのだが──
「元々身体の弱かった織枝には、慣れぬ浪人暮らしはそうとう辛かったことでしょう……負担の大きい無理な生活を強いてしまう結果となり、多くの苦労をかけてしまいました」
その無理が出産に祟ったとしても不思議ではないのだ。
あの日、雫を産んだ織枝は誇らしげで美しかった。美しいまま逝ってしまったのだった。たったひとことの言葉を交わす
その記憶は相楽の心を抉り、己の唇を強く噛ませる。
「もし織枝が私と出逢っていなかったら、織枝にあのような不幸は起こらずにすんだのです。私の犠牲になったようなものなのです……あんな若くして死ぬこともなかったはずです……」
そこまで話した相楽は、口のなかに血の味がするのを感じた。少し感情が昂ってしまったことに気が付いた相楽は、ひとつ大きく息を吐く。
「いや、そんな訳でしてな、わたしは他人と深く関わるのが恐くなってしまったようです」
相楽は記憶によって乱された、自分のいつもの調子を取り戻そうと、無理にお花に笑いかけた。
「どうもまったく勝手な理由でして、ずるいと思われるのも当然ですな。所詮、私の親切などはやりっ放しの自己満足です」
お花は「そんなこと……」と慌てて否定しようとしたが、相楽はそれを穏やかな目で制止する。
「いいえ本当の事です。しかし今回の寺子屋のことで私と関わったばかりに、また住人の誰かが不幸になったりしたらと思うと、やはり堪えられません」
そして最後に相楽は「つまり私は疫病神にも似たところがあるようです」と云ってわずかに頬笑んでみせたのであるが、お花にはその頬笑みが哀しくみえて仕方がなかった。
ここまで話してくれた相楽に、これ以上寺子屋の師匠をして欲しいと願うことは罪にも思える。
相楽はやりっ放しの親切だと云ったが、そういう理由があるのならやはりずるいと云った自分のほうが筋違いだと、お花は反省した。
(だけど……)
お花には相楽が語ってくれたことの中に、どうしても合点がいかないことがある。それは織枝が不幸であったというところだ。
いや、話を疑っているわけではない。それぞれの家庭には、その家庭にしかわからない事情も多いのだから。それゆえ自分が見てきた織枝と違い、不幸だったという織枝が本当だったという事もあるだろう。
それでも────
「あの……お話はよくわかりました。そういうご事情があったことも知らずに、無理なお願いをしてしまって、すみませんでした」
「あ、いや、とんでもござらん! こちらこそ勝手な都合でご厚意を無駄にしてしまい、まことに申し訳ありません」
そう謝る相楽の目を真っ直ぐに見たお花は、無言で首を横にふると、「そんなことはいいんです」と、優しく相楽に伝えたが、「ただ……」と言葉をひとつ残したのだった。
「ただ?……なにかまだご納得できないことが?」と、相楽はどうも自分は不調法者でしてと、己の足りなさを詫びて、お花に先を促す。
「はい……では、生意気をいうようなのですが……」と、お花は少しおずおずという風に話し出した。
「織枝さんは本当に不幸だったのでしょうか? お亡くなりになった事はお気の毒だと思います。でも立派に雫ちゃんをこの世に送り出した事を、不幸だといっては織枝さんが可哀想です」
「それは……」
相楽は言葉に詰まった。それはお花の言葉が、まざまざと織枝の顔を思い出させたからだ。雫を産んだときの、あの誇らしげな顔を。
「それに」と、お花は相楽の言葉を待たずに続ける。「わたしが見てきた、いえ、長屋の者みんなが見てきた織枝さんは、決して不幸そうなんかではありませんでした。少なくとも長屋での織枝さんは、いつも幸せそうでしたもの」
「えっ? 幸せそう……だった」
「はい、わたしは相楽さんがお仕事でお留守のときの織枝さんしか知りませんけど……わたしら女たちと一緒によく井戸を使って、色んなおしゃべりをしながら、本当によく笑っていましたよ」
俄には信じ難かった。織枝は生活の苦労から体調を崩し、床に就いている日のほうが多かったのだ。確かに織枝は相楽にもよく笑いかけてもいたが、それは心配をかけまいとする気遣いだと思っていた。
相楽にしてみれば、浪人暮らしに笑顔でいられる理由がみつからない。何ひとつとして織枝に、幸せを与えてあげられてなどいないのだから。
するとお花は思い出したという顔をして云った。
「そういえば織枝さん、相楽さんの事で不満そうに愚痴ってたことがありました」
「あいつが愚痴を?」
「ええ」と、お花は少し相楽を睨むような目をして、「私が楽しくしたり、笑いかけたりしても、あの人はいつも心配そうにするものだからつまらないって」
相楽は少なからぬ衝撃をうけたようだ。織枝が他人に愚痴を云うことも信じられなかったが、自分のことをそんな風に思っていたなんて、全く知らなかったからだ。
(これは一体どういうことだ……)
お花は相楽があまりに驚いた様子なので、なんだか話しては悪かったような気にもなったが、むしろ自分たちの知っている織枝を相楽に伝えたいという気持ちの方が強い。
それはもしかしたら、織枝のすべてを不幸で塗り固めるような、そんな相楽に対する反抗だったのかもしれない。
「でもこうも云ってましたよ? わたしにだけ内緒で教えてくれたんですけど」そう話したお花の脳裏には、織枝の面影が浮かんでいて、そのときの声もはっきりと聴こえてきている。
『わたくしね、江戸で遼之進さまと二人で暮らしている今が、生きてきた中で一番幸せなの』
織枝は確かにそう云ったのだ。
「い、いや、待ってください、しかしそんなはずは……」
それが事実なら、こんなに救われることはない。だがそれを手放しで受け取れるほど、相楽は自分の罪業が軽いとは思えなかった。
これはやはりお花の勘違いだろうと、酷く混乱する頭でそう思おうとしたのだが──
「お花殿、でももし、もしその話が本当なら……織枝がそんなにもみなさんに溶け込んで、あの自遊長屋で生きていたのが本当であるなら……」
その思考とは裏腹に、在りし日の妻の話を求めてしまう自分がいる。
もはや理屈ではなく強烈な渇きが水を欲するかの様に、織枝が不幸ではなかったとする証しを求めてしまうのだ。
「もちろん本当です。織枝さんは自分からすすんで私たち町人と、溶け込んでくれようとしていましたよ」
お花は、もしかしてご存知なかったのですか? と少し驚いた顔をすると、あるとき自分の家に織枝が米を借りにきた事があったと語り、これまでの話に駄目を押した。
「いまお金がないから、お米を少し貸して欲しって、それはもうさっぱりとして
『これからも長屋のみなさんには、こんな風にご迷惑をおかけすると思いますの。だから私にも一杯迷惑をかけて下さいね。この長屋で生きていくと決めた以上、私たち夫婦はみんさんとお互い様になりたいのですもの』
そう云ってくれたことがすごく嬉しくて……と、語ったお花は涙ぐんでいる。
「だからわたし、とても不思議でした。相楽さんなら寺子屋の師匠になる事を、喜んで承知なさって下さると思っていたんです。だって織枝さんが、夫婦でお互い様になりたいって云ってたものですから」
「……!」
決してお花は嫌味でそう云った訳ではない。そんなことを云う娘でない事くらい相楽も分かっている。
それより織枝の生きる覚悟も知らずに、ただ不幸な人間扱いをしてしまっていた自分に、どうしようもなく腹が立つ。
「あいつは、夫婦でお互い様になりたいと……」
「はい、ご夫婦でと」
自分は織枝のことを何も分かっていなかった。ひたすら必死に織枝が幸せになれるようにと生きてきたが、織枝もまた必死に、自分の力で幸せになろうとしていたのだ。だが、俺はそのことに気付いてやれなかった。
そんなふうに前を見つめて生きていた人間が、ただ不幸な人間であったわけがないのに……
──ひとりよがり
相楽はそう毒づくと暫し呆然とし、やがて絞り出された心の声には、己の後悔が滲む。
(すまぬ、すまぬ織枝……)
そう思ったとき、相楽の目からぽたりと涙が一粒落ちた。
(織枝は確かに生きていたのだ。それも俺たち夫婦二人で幸せになろうと必死に……!)
それを知ったいま、織枝のその覚悟をどうして無視できようか。自分の心の中には織枝はまだ今も生きているのだから。
ならば────
「お花殿、どうやら私が間違っていたようです。いまさら図々しい事を申しますが、寺子屋の師匠のお話を、もし宜しかったらあらためてお引き受けさせて貰えませんでしょうか」
すると、お花は大きく目を瞠り、「えっ、それは……」と息を呑む。
「正直なところ他人と深く関わるのは恐いです。しかし織枝が不幸と向き合い、幸せを求めて生きていた事を知ったからには、私が立ち止まったままでいては悲しませてしまう」
そう云った相楽は、僅かに晴れてきた空の雲間にある小さな青のような笑みを浮かべた。そして「それなら」と言葉を続ける。
「わたしも織枝と一緒に、みなさんにご迷惑をおかけする覚悟を決めました。あいつが夫婦でと云った以上、うかうかなどしてはいられませんからな」
「はい……はいっ!」
お花は急に涙がぽろぽろと溢れだしたことを感じ赤面する。(今日の私は泣いてばかりだ)と戸惑いながらも、嬉しい気持ちで涙は止まりそうもない。
それはもしかしたら相楽に自分の気持ちが届いたという喜びが、そうさせていたのかもしれないが、それを確める暇もなく真っ直ぐに相楽の目を見つめ続けていた。
その真っ直ぐな瞳を受け止めた相楽は、ありがたいなと胸の中で呟く。俺をずるいとまで云ってくれた真剣なお花の気持ちがなかったら、きっとまだ織枝の心も知らぬままに立ち止まっていたことだろう。
(人とは思いもよらぬ時に、救われることもあるようだ)と、一歩前へと踏み出せた自分に相楽自身が驚いてもいた────
やがて相楽の目にはゆっくりと、例のつまらない石灯篭がみえてくる。それと同時に記憶の中から現在へと戻ってきたらしい。
「ふふふ、おなごはつよい……」
思わずそう本音を漏らした相楽は、冬の陽射しに煌めく大気をみて思う。
(これでよかったのだよな、織枝)と。
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