二十九才の別れ・2

 ある冬の日、おれはスタジオでの撮影後にひどい下痢に見舞われた。仕事柄いつも食事には気を遣っていたのに、なぜかは分からない。

 おれがトイレの個室にこもっていると、二人組の会話が聞こえてきた。

酒井さかいさん、どうでした、今日」

 一人は今日おれを撮影してくれたカメラマンさんらしいと分かった。酒井さんは、業界ではそれなりに名の通った人だった。

「冬森君かい?」おれの芸名が出た。「あの子はいったい、どういう子なのかな」

「なんでも菊池きくち社長のコレらしくて。熱心に推してるらしいんですが」

 もう一人の男がどんなジェスチャーをしたのかは想像がつく。「菊池社長」とは嘉世子さんのことだ。

「なるほどね」

 酒井さんの返事はたったそれだけだったが、おれは便座ごと地の底へ突き落とされたような気がした。おれと嘉世子さんは単にモデルとマネージャーで、しかも恋人同士だったというだけだ。でも周りはそう思ってはくれない。誤解されるのは、おれが若すぎて、しかも出来が悪かったせいだ。

 やがて、おれの仕事は徐々に質が変わり始めた。嘉世子さんが取ってくる仕事は、初めはファッション誌中心だったのに、小さな通販サイトの写真やスーパーの紳士衣料品のチラシの仕事が増え、やがてファッションとは関係のないポスターやインターネット広告の仕事もやるようになった。それでさえ本数は徐々に減っていった。おれはカヨコの部屋で彼女の帰りを待つ日が増えた。

「嘉世子さん」がいなければ、おれはまともに仕事ももらえない。東京でひとりでやっていくこともできない。

 いつの間にか、おれは二十九歳になっていた。

 ここが、おれの流れ着いた先なのか?


***


 カヨコの部屋のバルコニーからは、都心の夜景が一望できる。ネグリジェ姿で晩酌をしながらそれを眺めるカヨコは、いつ見てもさまになっていた。一方でおれはヤシの木が描かれたTシャツを着て、なぜこんなところにいるのだろうと酔いの回った頭で考えていた。

「どうしたら、もっといい仕事が来るようになる?」

 こんな愚痴めいたつぶやきが漏れたのは、たぶんビールを飲み過ぎたせいだ。

「いまの仕事が不満なのね」

 カヨコはためらわず核心を突いた。

「そうじゃないけど」嘘だ。「夢見てたのとは、ずいぶん違っちゃったなーと思ってさ。カヨコさんには苦労ばっかりかけてるし」

「やめて、その『カヨコさん』っていうの」

 カヨコはおれの手に手を重ねて、トントンと赤子をあやすように叩く。

「マサ君はね、そうね、少し嘘が下手なのね」

 おれは犬みたいにビーフジャーキーをかじっている。ずいぶん固くて、塩辛い。

「モデルってね、素の自分とは違う顔を用意してカメラの前に立つでしょう。誰だって、普段からあんなキメ顔で街を歩いているわけじゃないわよね」

「おれは演じきれてないってことだ。致命的じゃないか」

正直しょうじき者のマサナオ君だもんね」

 カヨコは楽しそうに笑ったが、おれは何も楽しくなかった。

「でも、そこが魅力でもあるの。私、最初から分かってたわ」

 なら、どうしておれをこんな世界に引き込んだんだ。

 出かかった言葉は、やわらかく絡みつく腕によって腹の底へ沈められた。

 言わなくてよかった。カヨコは全然悪くない。「嘉世子さん」が見いだしてくれた正直者の魅力を、開花させるだけの力がおれになかっただけだ。

「いいのよ。そういうところが好きなんだから」

 カヨコの唇に頬をつつかれる。おれは応じた。飲みかけのビールを残したまま、ベッドに連れて行かれる。カヨコのことは好きだ。でもこのところは写真に撮られるときと同じで、何かがすり減るのを感じている。

「次の仕事、何だっけ」

「明後日、転職サイトのアイキャッチ」

 おれの最後の仕事に、この上なくふさわしい。

「てことは、またスーツか」

「ごめんね」

 カヨコには謝ってほしくない。謝らなければならないのは、おれのほうだ。

「その次は?」

「これから探す。しばらくのんびりしてて」

「うん」

 おれはカヨコに笑いかけた。おれにしては名演技だったと思う。

 最後の仕事を終えた翌朝、カヨコは嘉世子さんになって、仕事のために外出した。おれは多くはない荷物をまとめて、彼女宛に辞表と最初で最後の手紙を書いた。


〈ごめんなさい。これ以上続けられません〉

 

 何時間も悩んで、それだけしか書けなかった。

 昼過ぎには雨が降り出した。風も強かった。台風が接近していると、昨日天気予報で言っていた気がする。

 それでもおれは部屋を出た。今日を逃せば、おれはどこにも行けなくなってしまう。

 おれは綾子姉さんに電話をかけた。姉さんは、すぐに出てくれた。

正直まさなお? いま仕事中なんだけど、夜まで待てない?」

 姉さんの声を聞いた途端、言葉が出なくなった。

「どうしたの? 大丈夫?」

 雨風はますます強さを増していく。傘は差したが、おれはあっという間にびしょ濡れになった。これがドラマなら陳腐すぎる演出だが、おれは俳優ではないし、もうモデルの冬森雅斗でもない。

「姉さん、お金を貸してくれないか。ひとりで住む部屋を借りたいんだ」

 おれは再び流れていく。自分で選んだ。おれの新しい名前は、まだ無い。(了)   

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

著作権フリーおじさん 泡野瑤子 @yokoawano

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画