二十九才の別れ
二十九才の別れ・1
シャッター音が容赦なくおれを切り刻んだ。照明がスーツ姿のおれを炙り、ストロボが激しい明滅を浴びせかける。それでも、カメラを向けられている間は笑みを絶やさない。曲がりなりにも九年この仕事をやってきて、よく身に染みついている。
昔の人は、写真に撮られると魂を抜かれると信じていたという。少しは当たっているだろう。撮影後のおれは、流した汗の分よりもっとすり減っていた。
ありがとうございました、またよろしくお願いします、笑顔でスタッフ全員に頭を下げてスタジオを出る。でもおれは「また」なんてないと分かっている。あったとしても、それはおれの実力によるものではないことも。
おれが着替えを済ませて楽屋を出たとき、入れ違いに見知った顔が入ってきた。
「マサトじゃん! 久しぶり」
「あ、サトル」
「マサト」はおれの芸名だ。うちの事務所の社長である
おれの正式名称(本名とさえ言いたくない)はマサナオという。両親には悪いが、漢字で「正直」と書く自分の名前はずっと好きになれない。おれは嘘ばかりついている。
一方「サトル」は本名だ。「芸名ってなんか恥ずかしいし、本名で呼んでほしい」と、サトルは出会ったときに言ってきた。彼の芸名なら日本中が知っている。ファッション雑誌のオーディションで賞を取ってモデルデビューし、やがて俳優に転身して、いまや国民的大スターだ。こんな小さなスタジオに来ることもあるとは意外だった。
「マサトはもう撮影終わったの?」
「いまから帰るとこ」
「俺はこれからだよ。ねえ、今度飲みに行こう。マサトいつ誘っても来ないじゃん」
「ごめん、いつもタイミング悪くて」
「えー、本当?」
サトルは相変わらず屈託がない。有名人になっても、新人のころと同じようにおれに話しかけてくる。でもサトルはおれみたいに、紳士服のバーゲンセールのチラシには載らない。サトルが着るのはハイブランドで、おれのは二着で半額になる大量生産品だ――いや、この仕事だって、嘉世子さんがどうにか引っ張ってきてくれたものだ。おれにケチをつける資格はない。
「今度は行くよ」
「約束ねー」
おれは笑顔で手を振り返したが、今後もサトルの誘いに応じるつもりはなかった。
携帯を取り出すとメールが届いていた。
〈おつかれさま。こんな真夏に冬物スーツの撮影で、大変だったね。今日は冷蔵庫でビールが冷えてますよ。楽しみに帰ってきてね。〉
嘉世子さん――カヨコからだった。
***
おれの話の前に、姉さんの話をしておく。
三人きょうだいの一番上、
中二で初めての彼女ができたとき、すでに都心でひとり暮らしをしていた姉さんは、八王子の実家にいるおれに宅配便を送りつけてきた。
今度は何の本だと思ったら、中身はコンドームだった。短い手紙もついていた。「するときは絶対に使いなさい。足りなくなったら買ってあげる」と。
てっきりおれは「結婚する人とだけするものだ」と釘を刺されると思っていたし、実際に父さんからはそう言われた。でも姉さんは、それ自体が悪いことだとは言わなかった。結局使わないままに使用期限切れを迎えてしまったが、あのころからおれは姉さんになついた。
ここからはおれの話だ。
モデルと言えば聞こえはいいが、おれはだらだらと流されているだけの男だ。
三人きょうだいの中で、おれだけが美人の母さんに似ていた。子どものころから容姿を褒められることが多く、芸能界には漠然とした憧れがあった。モデルになって、かっこいい写真を撮ってもらいたい。俳優になって、映画やトレンディドラマに出てみるのもいい。
とはいえ、例えばオーディションを受けるとか、演技の勉強をするとかいった具体的な行動は起こさなかった。本当に芸能人になんかなれるわけがないと思っていた。
きょうだいと同じ高校を卒業した後、ファッション系の専門学校に進んだのは、アパレル系の仕事に就けたらいいと思ったからだ。思えば、おれが真剣に自分の人生について下した数少ない決断の最初だった。
専門学校の先輩に誘われて、おれは原宿のスニーカーショップでアルバイトを始めた。先輩は卒業後に栃木の実家に帰るので、後継者を探していた。おれは就職活動をするのが
嘉世子さんは、ひとりでおれの店にやって来た。
高そうなスーツと黒いハイヒールを履いた四十がらみの貴婦人は、ずらりと並んだ最新モデルのスニーカーには目もくれず、レジの中締めをしていたおれへ向かってまっすぐ歩いてきた。
「お兄さん、芸能界に興味はありませんか?」
「え? あります」
おれは即答していた。
嘉世子さんは笑いながら名刺をくれた。当時はまだ副社長だった。おれのことをどこかから聞きつけてきたらしい。彼女の事務所は渋谷にあり、おれはバイトの後に訪問する約束をした。
そこからはトントン拍子にことが進んだ。嘉世子さんと出会った翌日、おれは事務所と専属契約を交わした。契約書の
小さな事務所だったから、副社長の嘉世子さんがおれの担当マネージャーになった。おれは何ヶ月かレッスンを受けた後、
バイトは辞めた。専門学校も残り数ヶ月だったが、レッスンに専念するために辞めることにした。家族には反対されたが、母さんが「
確かにおれは選ばれたのだ。何人も所属タレントがいる中で、嘉世子さんはおれだけを好きになった。本人に理由を聞いても「そんなの分からないよ。人を好きになるって、そういうことでしょ」と笑われるだけだった。
それでもあえて理由を探すとしたら、おれが先に嘉世子さんに惹かれていたからだと思う。初めて会ったときから、おれは嘉世子さんといる時間が心地よかった。
嘉世子さんはどことなく姉さんに似ていた。容姿ではなく、都会でひとり立ちして立派に働いているところや、自分が良いと思ったものに絶対の自信を持っているところ、――何より、お節介なほどに面倒見がいいところが。面倒見が良すぎるから、おれを好きになってしまったのだ。
翌年、前社長が引退し、嘉世子さんが社長になった。彼女のおかげで、仕事は次々に入ってきた。同じころおれは実家を出て、恵比寿にあった彼女の部屋で暮らすようになった。家では、カヨコと呼び捨てにした。
何もかもがうまくいくように思えて、幸せだった。――いまは違う。だからあのころのことは、あまり思い出したくない。
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