13. 遥かなる48時間 ②

3

 午後の仕事は動き回ることが多かった。座席周りのゴミ拾いに始まり、詰めたチラシをすべての座席に置いていく。歩きながらの作業なので、散歩感覚で行えて午前ほどストレスはたまらなかった。案内組の人数で区画を割るので、肉体的には疲労0と言ってもいい。ただ、アリーナの構造を覚えるのには骨が折れた。

 200レベルのアリーナ後方座席前の細い通路を通りながら、全体を見渡す。スタッフしかいない会場内は見晴らしがいい。500レベルで作業している人はこの空間を見下ろすことができるなんて羨ましかった。

 この埼玉ハイパーアリーナのゲートは3桁の数字で管理されていていて、最初の数字は階層、次の二つの数字でその階層の何番目かを示している。この階層と3桁の数字から、2階は200レベル、5階は500レベルと呼ばれている。また今回はそれに追加でアリーナ席があった。

 アリーナ前方には、豪華なライブのセットが立ち並び、一つ一つスタッフが入念に動作を確認している。必ず成功させるという意思が、言葉もないのに理解できた。ステージの真逆にいるのに、張り詰めた空気と熱意をひしひしと感じる。今にも陽炎が立ち上りそうだった。

 この大きな期待を背負ってステージに立つアイドル、ミライクリスタルとはいったいどんな人たちなのだろうか。今までは微塵も興味なんてなかったのに、今更ながらに湧いてきた。

 





 開場前に俺たちスタッフは集まって、インカムを渡されるとともに持ち場と業務内容を言い渡された。俺と伊藤さんは300レベルでの誘導と案内、篠山さんはチケットのもぎりだ。不安だった仕事も、誘導の仕方から案内の方法まで丁寧に教えてもらったこともあり、ある程度は和らいでいた。

 あまり時間もないので、俺たちはすぐにインカムを装着して配置に向かった。言葉もなく、ただ機械的に足を動かせば、すぐに持ち場へ着く。腕時計を確認したところ、まだ10分程度の余裕があったので、伊藤さんの隣へ移動し話しかけた。


「こっから本番ですね」

「はい」

「大丈夫ですか?」

「……何が?」

「その、仕事ですよ。案内とか……」

「……多分なんとかなりますよ」


 伊藤さんはいつと同じく、無表情だった。口数はまあ少しずつ多くなってきている。なので言ってもせいぜいが口数控え目だ。

 俺に彼女の感情や思考はわからない。表情はあまり動かないし、一挙一動を観察してもしなやかで落ち着いた動作からそれを読み取れるほど人と接した経験がない。当の伊藤さんとも、あの夜以降は向こうから話しかけてこない場合はなるべく避けていた。だから発された言葉をそのままに信じる他ない。それが俺に残された唯一のコミュニケーション手段だった。


「……俺は、そもそも働くこと自体が初めてなので、正直不安です」


 目をそらして、ぶらぶらとした手を前で結んだ。緊張で、じりじりと足幅が狭まっていく。やがて慌ただしい会場の音が遠ざかっていき、残ったのは指と指が合わさる感触だけだった。 


 何やってんだ俺は。こんなことを告白するために話に来たんじゃない。そもそも彼女を避けてたくせに。都合のいいときだけ頼るなんて、人としてどうなんだ。


 焦りと緊張で、思考だけが走り出して次の言葉が続かない。時間もないのに、こんなことで止まっている場合じゃなかった。


 ふと、結んだ手が包みこまれる。前触れもなく俺の手を覆ったのは伊藤さんの手だった。手を引かれる以外で触れられたのは、裸で迫られた夜以来のことで、思わず呼吸が止まる。

  

「大丈夫です。落ち着いてください」


 優しい声色で語りかけられ、柔らかく暖かい伊藤さんの手の力が強まっていく。すると自然に全身の緊張がゆっくりとほぐれていき、胸をなでおろした。


「なんとかなります。落ち着いて、指示されたことをやりましょう。困ったら聞けばいいんです」


 続く言葉はいたって普通だ。言われたとおりにやり、わからなかったら聞く。たったそれだけのこと。それでも伊藤さんの思いやりは十分に理解でき、嬉しさから熱くなった。

 顔を上げて目線を合わせる。伊藤さんは、これまでに何度か見せてきた真剣な表情をしていた。こんなに真摯に対応されたのはいつぶりだろう。まだ親元でニートをしていたときか、それとももっと昔のことだろうか。これほど嬉しいことはない。


「そうですね、すいません急にこんな。ありがとうございます」


 伊藤さんの手を逆に握り返して、お辞儀をした。なんだか清々しくなり、さっきまでが嘘のように足が軽くなった。

 もう開場の時間だ。俺たちの仕事が始まる。踵を返し、すぐ隣の持ち場に戻ろうとしたとき、突然手首をつかまれた。その場で半身になり振り返ると伊藤さんが最後に一つ激励をくれた。


「一緒に頑張りましょう」

「はい」






 15時を過ぎたら、すぐに視界を埋め尽くすおびただしい量の人たちが迫ってくる。地の底から這い出てくるかのような低い轟音が響いて、足がすくんだ。隙間などなどどこにもなく、皆が自分の座席を目指して最短距離を通ろうとしているようだった。

 俺は唾を飲み込んで、伊藤さんの激励を反芻させた。落ち着いて指示されたことをやる。落ち着いて、指示されたことを、やる。落ち着け俺。


 意を決し、行列ができようとしているエスカレーター付近まで行き叫んだ。


「4階へのエスカレーターは奥にもございます!」


 案内組に求められる役割はいくつかある。座席を訪ねられたらそこまでの道を教えることは勿論、トイレやエスカレーターで行列ができた際の烈整理、そしてより上の階へスムーズに案内することが主なだった。

 このアリーナで400と500のレベルに移動するには、300レベルから階段かエスカレーターを使用する以外にない。どちらもいくつか設置されてあるものの、均等に使われているわけではなかった。最も混むのは入場口から最も近いエスカレーターで、そこから奥にいくにつれて使用率が下がってくる。2時間で観客を入場させきるために、なんとかして奥へ誘導させて人を分散させる必要があった。

 まずは目の前の混雑をなんとかするかと同じように声を出し続けること30分。人が減るどころか、増えていることに顎が外れそうになった。

 空調のきいていた通路も、今じゃ人込みと声出しで熱気しか感じない。荒れ狂う人混みは絶え間なく、エスカレーターもどこかの男子トイレも長蛇の列ができていた。その間も俺は同じように奥へ進めば空いていると叫び続けた。


 休みたいと思う暇もなく、声を出し続けてさらに1時間。ライブ開始30分前にしてようやく落ち着き始めた。ピークと見比べれば見劣りするものの、それでも新しい入場者や駄弁っているもの、トイレや喫煙に向かうものごった返しだった。


「すいません、お手洗いってどこですか?」

「お手洗いはあちらになります。現在大変混雑しておりまして4階や5階の方が空いているかと思います」


 男性の観客に、この通路奥のお手洗いを腕で示した後、インカムで入ったトイレの利用状況を伝える。来客する男女の比率は7対3あたりで、どちらのトイレも混んでいるが、男子トイレの混雑状況の方がこの1時間半でよく回ってきた。観客はお礼と会釈をしてトイレに向かっていった。なんとなくその後を眺めていると、トイレの行列には並ばず、階段に入っていった。


 それから聞かれた場所への案内をしながら、平穏に30分が過ぎ、ようやく17時のライブの開始時間に。俺たちは近くのゲートを閉めて、遅刻者がいる関係上1時間はゲートの前で待機することになった。


 完全とは言わないまでもアリーナの防音性能はかなり高く、ゲートを閉めていればもう曲として鑑賞できない。ただ、時折やってくる入場者のためにゲートが開くとき、わずかに漏れる音だけで俺の胸は高鳴っていた。


 しばらくするとインカムから休憩の合図が出る。

 ほっと一息ついて、伊藤さんのもとへ向かう。俺はきっと、彼女の激励がなければこの2時間半を乗り越えられていない。むず痒いのを我慢して、真っ先に感謝を伝えたかった。


「伊藤さん! さっきはありがとうございました」

「……どう、いたしまして」





4

「これで会場内の人と変われなかったら許せませんよね~」

「そうですね」


 何が許せないのかわからないが、昼と同様に爆速で弁当を完食した篠山さんに、またマシンガントークを浴びせられていた。開場してからの業務は全員が相当堪えたようで、殆ど愚痴だ。俺は昼休憩のときと同じ弁当に齧りつき、疲れが取れるように努めた。

 夜休憩では、篠山さんのトーク相手に伊藤さんも加わっていた。待機室へ二人で向かったところを篠山さんに捕まり、3人で弁当をテーブルの一角を占領することになった。


「もう、お二人とも聞いてます~?」

「……聞いてます」

「聞いてますって。でもまだ食べてるんで」

「そうでしたね。すいません。ところでお二人は明日も来られるんですか~?」

「はい。明日もここです」


 そう、俺の労働計画はいつの間にか2日になっていた。確かに1日だけとは言っていないものの、「今回だけ」を都合のいいように解釈して2日も入れる伊藤さんは鬼だ。1日目があと4時間程度で終わり、心底疲れながら帰宅した後寝て起きたらすぐにまた仕事に向かうなんて、考えるだけでぞっとする。

 先ほどの感謝を一転させ、恨みを込めて伊藤さんを睨んでも、彼女は弁当に集中していてどこ吹く風だった。


「おお~私もなんですよ~。2回休憩あるとはいえ、14時間勤務を連続は体に響きますねえ~」

「あ、わかります。14時間って言ったら一日の半分以上ですよ? しかも移動時間含めたら17時間とか信じられませんって。飯食って寝る時間すらほとんどないですよ」


 ここぞとばかりに文句を叩き込む。持っている時間を何かを打ち込むわけじゃない。それでも俺の時間は本来こういうことに使われるべきではないはずだ。このニート、たとえ労働しようともにそう簡単には考えは改めない。こんなことは今回限りだ。


「ええ~。かなり遠いところから来たんですね~。片道1時間ってどこでも行けますよ~」

「どこでもはいけないでしょ。遠いのは事実ですけど」

「私はこの辺なので、結構まったりしながら来ましたよ~」

「君もこの辺なの? 俺もなんだよね。もしかして大宮?」

「は?」


 突然知らない声が会話に交じって、一瞬呆けた。すぐに声の発生源はわかった。俺たちのいる一角から席を一つ開けたところにいた。割り込み方が篠山さんよりも急で、顔が歪むのを隠せない。あまりにも唐突過ぎた。


「いきなりなんですか?」

「ごめんごめん。ずいぶん楽しそうにしてたから俺たちも混ぜて貰おうかなって」

「混ぜてもらおうって……」


 ヘラヘラしているし慣れ慣れしい男だ。男はツーブロックに整髪剤をつけて立たせていて、片口と片目を楽しそうに上げている。男の周囲には、また違うタイプで容姿を整えている男が2人いる。彼らは快活そうな笑顔を浮かべていた。男ら3人は一見してウェイ系やパリピと呼ばれる風貌で、それが意味するところは、俺の苦手なタイプだということだった。 

 馴れ馴れしさで言えば篠山さんもかなりポイント高いけど、喋り方は丁寧だし俺のことを名前以上に詮索しないだけマシだった。箸を止め眉間に皺を寄せたままでいると、心霊スポット巡りが趣味なだけあって怯えを知らない彼女が、男の急な参戦にも臆さずに言葉を返していく。


「どうも~。私篠山です」

「俺は幸崎友広、んでこっちが」

「足立連でーす」

「宮島大翔です」

「はあどうも」

「……どうも」


 興味なく生返事をし、弁当と向き合う。ごはんを食べることは人と関わるよりも楽だし、面倒もない。結局料理をするのが人間だということを除けば、食は最高の娯楽だ。

 途中で名前くらいは返して、あとは適当に相槌で話を流した。どうやら篠山さんはソリが合うのか、それともただ話すのが好きなだけなのか、ずいぶんと盛り上がっているようだ。大学の話や好きな音楽グループの話が聞こえてくる。

 最悪なことに、弁当もすぐに食べ終わってしまった。緩慢な動作でたっぷりと時間をかけてゴミを纏めるていると、ある妙案を思いつく。ゴミを捨てにいくついでにトイレに向かい、残り時間ずっと籠っていれば、だれとも話すこともないし平穏な時を過ごせるはずだ。

 思い立ったが吉日。俺は早速立ち上がって水を一口。それから弁当のゴミを手に取りトイレへと一歩踏み出す。


「あれ? どこいくの?」

「トイレですよ」


 伊藤さんには悪いが、俺はここで一抜けだ。






 今度は性別を間違えるなんてこともせずに、予定通り時間ギリギリまで女子トイレに籠った。個室を出れば、伊藤さんと篠山さんが手洗い場にいて鉢合わせた。


「東白さん大丈夫ですか~? 私痛み止め持ってますよ、使いますか~?」

「いや、大丈夫です」 


 篠山さんには苦手だから逃げたという発想はないらしく、純粋に心配される。なんだか罪悪感が芽生えてきて、逃れるように手を洗った。


「そうですか~。ならよかったです。残りも頑張りましょうね~」

「……はい」

「そうですね」


 俺たちは篠山さんの要望通りに、会場内のゲート付近で待機しているスタッフと交代になった。

 ゲートを開くと、興奮と熱狂に彩られた轟音の歓声が耳に入る。ライブの熱は開始時とは比べ物にならないほど増しており、ビリビリと肌に伝わった。直後に、アイドルからは連想できないハードロックなギターが体の芯に響き、歓声は更に大きくなった。

 声の向かい風を受けるような中、待機中のスタッフと交代して俺は最後尾の座席の後ろへとついた。


 緻密に計算されたレーザーライトが蠢き、ひと際目立つスポットライトの中のアイドルは、そんな光を陳腐にさせるほど輝いて思える。己の存在を示すように力強く動き、懸命に歌っている。ステージとは正反対のゲートからは、豆粒にしか見えないのに、その煌めきはどこまでも伝わっていた。


 ――すごい。

 

 あったのはただ純粋に賞賛だった。前日から設営されたステージと、それを念入りに確認するもの。中央で音響機材をセットしていたスタッフ。挙げればきりのない途方もない期待。これがそれを背負えるグループか。

 今初めて、今朝からの仕事がこの尊き時間を観客に伝えるためにあったのだと理解した。


 圧倒され、いつの間にか開いていた口を閉じて、ゲート前へ戻る。そうしたらすぐ横の壁に寄り掛かり、腕を組んだ。


 彼女たちは夢を追いかけて、ここまで努力してきたんだろう。それだけの覚悟と自信が確信できるステージだった。何をどれほどやってきたかなんて俺には想像もつかない。そんなに熱心に打ち込んだ経験など、今の一度もありはしない。何か1つを極めることは、きっと美しくて眩しい。

 でも、普通はそんな上手くいかないだろう。何度やっても上手くいかなくて、誰かが2つ上のことをできるようになっている間に、俺はようやく1つ上に上がる。悔しくても歯がゆくても、それは何1つ変わらない。だから俺は何事もほどほどでしかやらない。やったところで結果は見えてるなら、本気になったって悲しいだけだから。


 ……羨ましいよ。前を向ける意思の強さも、才能も、行動力も、何もかもが羨ましいよ本当は。


 やがて曲も終盤に差し掛かり、オレンジ色の光が目に入る。激しい曲には似合わない、まるで夕焼けのような光景が視界には映っていた。






 ライブが終わったら退場案内に入り、来場者がハケれば今日の業務は終わりだった。インカムとTシャツを返却して点呼を取れば、給料を手渡される。上限の交通費千円を含めてしめて1万4000円だ。


「ではまた明日~」

「はい。また明日」

「……また」


 篠崎さんと別れた後、電車に乗り込む。運よく座ることができ、背もたれによりかかると、一息ついた。もう22時を回っている。これは帰りつくのは日付が変わる頃かもしれない。いつもこの時間に寝ているから疲労と眠気で意識は限界だった。


「長かったですね」

「はい」

「これが明日も続くって、考えるだけで憂鬱ですよ」

「……すいません」

「……そこで謝られるとかなり気まずいです」


 ほんの少し小突くつくつもりが、重い打撃を与えてしまった。

 どうしたものかと、俺は背もたれの上に首を乗っけって車内の天井を見上げた。よくわからない雑誌やダイエット本の広告なんかが吊るされており、脳が情報を処理しようとするだけで疲れるので、目を閉じた。


 二回ほど乗り換えて渋宮駅に向かう途中で、俺はウエストポーチから給料の入った封筒を取り出して伊藤さんに押し付けた。


「これ、忘れないうちに」

「……全部ですか?」

「はい。使う予定もないんで」


 もともとネット回線の契約のための仕事だったのだ。これは、伊藤さんに渡すのが筋だろう。それに、手元にあれば誘惑に駆られる可能性もある。これだけ倹約生活を続けていたら使い込むなんてことはないだろうが、できる限りリスクを下げておくのがいいだろう。

 というか、もしこれをそのまま受け取ってしまったら、俺のスタンスが崩れてしまう。給料を全額差し出すことによってこの労働を伊藤さんの手伝いにして、今回のことはノーカウントということで手を打ちたかった。


 伊藤さんは唇とわずかに噛んでいて、何かを言いたげな表情をしていたがそれ以上追及はしてこなかった。

 やがて渋宮駅にたどり着いて、急ぎ足で家路につく。風呂は明日の朝に回すことにして、自室の畳に仰向けになれば、長すぎる一日が終わった。


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