8. 労働はホラーのよう ①

1

 洗濯した服をカゴに入れて持ち上げる。あまり量はないものの、水分を吸って重くなった洗濯かごを支えるにはしっかりと腰をいれる必要があった。


「洗濯機、本当にありがとうございます!」

「……ッす」

「いいってコトよ! がはは!」


 オヤジくさく豪快に笑うテツさんに、深々と頭を下げてお礼をする。いつか布団を購入するとしたらコインランドリーには金を落とせなかったので、ダメ元でテツさんに洗濯機を貸してくれないかと頼んだらなんとOKを貰えた。

 10月に入り早くも3日。風呂でさっぱりした後は綺麗な衣服を身に着けたい欲から、計画性もなく毎日服を取り換え、最速でテツさんに泣きつくことになった。トイレットペーパーの件といい、ほんの一週間の間に、俺はテツさんに頭が上がらなくなっていた。


「ちゃんと形整えてから干せよー」

「わかりました。何から何までありがとうございます」

「まぁまぁ気にすんなって」


 こんなに世話してもらってるのに嫌な顔一つしないで、しかもアドバイスまでくれるなんて……聖人だろうか。

 帰り際、もう一度頭を下げてから部屋を後にして自部屋に戻る。さっそく洗濯したばかりの服をハンガーにかけて丁寧に皺を伸ばし、ベランダの物干し竿にかけていった。ここ数日は快晴が続いていて、今日もそうだった。この様子なら一日と経たずに乾ききるだろう。こうやって家事を行うと身が引き締まるというかなんというか、一気に生活をしている実感が湧いてきた。

 

 うんうん。これからだよ俺は。

 

 キッチンでコップに水を入れて、思い切り飲み込んだ。たった一杯の水が体に染み渡る。

 それから支度をして玄関をでると、一人で散歩に向かう。あまりにも暇すぎて始めたこの散歩。知らない土地をただ赴くがままに歩くというのは、これが存外面白いものだった。まだ新調していないスニーカーはほんの少しだけぶかぶかとしていた。


 渋宮町は、渋宮駅を隔てて北側は住宅街で、南側は小さいならもビルや商店街が立ち並ぶ閑静な町だった。目立った坂もなく、道幅は広いうえに、建物が少ない。だから見晴らしがよく、圧迫感もなくて実に歩きやすい。

 誰一人いない道を、俺は肩と首を回しながら歩く。肉体はくまなく作用し、全身の筋肉が運動のために十全に稼働している。この体になってからというもの、腰の痛みと肩こりが改善されてすこぶる調子が良かった。景色を楽しめるだけでなく、脳はスッキリするし体調も維持できる。これでお金が一切かからないのだから、コストパフォーマンスは非常に高い。

 月見荘は駅から北西に位置しており、今はさらに北側へと歩を進めている。先日は駅まで行き付近の探索をしたため、今度は逆側に歩いてみたくなったからだ。月見荘よりも更に北側は、小さな川が流れており、それを超えると公園と小さな神社が目に入ってきた。


「お~」


 近づいて公園と神社のみを視界に入るようにすると、絵になる光景だった。左手にある小ぢんまりとした神社の境内は寂れていて苔むしている。鳥居や奥の本殿は土台がしっかりしているのか、それでも自然には負けておらず、しっかりと建っていた。神社よりも雑草が育ち放題の公園は、今時珍しくジャングルジムとブランコが設置されていて、時代に取り残されている。

 ここは埼玉。そこまで田舎でないだろうに福岡の婆ちゃん家を思い出す。小学生の時は夏休みになると帰省して、同じように寂れた公園を弟と一緒に駆け回る。その後は毎回父親にアイスを買って貰って近くの神社で食べたものだ。

 懐かしい。俺は鳥居を潜って石畳を踏んだ。天然のサウナ状態の神社は、いるだけでかなりの体力と精神を持っていかれる。一歩踏み込む度に大量の汗と熱でクラクラしてきて、すぐにでも出たくなるのを我慢した。このじりじりと茹で上げるような熱が、残り続ける夏の暑さの最後の抵抗に感じた。10月に熱中症になるのもアホらしいので、賽銭箱の前で手を合わせ一礼をしたらすぐに敷地を出た。

 休憩するためシャツを掴んで胸元をバタつかせながら公園に向かう。シャツの下は胸で余裕がなく、あまり空気が入れ替えられないのが恨めしい。一刻も早くこの暑さから逃れたくて袖を捲った。

 草木生い茂る公園に入ればベンチが設置されていたのでそこに座る。ありがたいことにベンチの後ろ側には林かと思うほど木が植えられていて、ここは丁度木陰で風が涼しかった。緑色の葉は視覚的にも涼しい。風鈴があれば完璧だ。


「あ~~ったまいてぇ~」


 ベンチを一人で占領して、背もたれに腕をかけたら思い切り頭を後ろにやった。先の熱にやられて発祥した頭痛を抑えるために声を出せば多少楽になった。


 次に来るときはちゃんと水を持ってきた方がいいな。初日に買ったペットボトルはまだ捨ててないから、アレを洗って水を入れればいいだろう。念のためにお金もあった方がいいだろうか? いや、これは流石に気構えすぎか。何十kmも歩くわけじゃないし、500mlくらいの大きさのペットボトルが1つあれば事足りるはずだ。こんなことにお金を使ってたら、本当に困ったときにお金が無くなってしまうからな。少しでも働かないためにいるには、多大な労力を払ってでも節制すべきだ。


 今日のところは落ち着いたら家に帰ろう。家に帰ったら寝ころんで、気が向いたらまた散歩にでも出かけよう。


 




 次の日の朝、鬱屈とした気分で目が覚めた。どうやら此処に越してきて初めての雨のようで、威勢のいいことにベランダに少し水たまりを作っている。傘がないから今日は散歩もできないし、退屈な日になりそうだ。

 ゴロゴロと畳の上で寝転がっていたらいつの間にか朝食の時間になっており、俺はずるずると体を引きずって101号室に向かった。


 朝食の席につけば俺が一番のりだった。テツさんから頼まれ、6人分の朝食を配膳をしている間にみんなが来ていたので、もう少し遅くくれば良かった。今日の献立はいつもの目玉焼きとベーコンのおかずに追加でもずく酢が付いていた。一品加わるだけで大きな変化があったように見える。


「久々に降っとるのう」

「雨だと気が滅入りますよね」

「そうか? 私は雨は好きだぞ。濡れることによって引き出される魅力もある」

「どうして濡れることが前提なんじゃ。ごわごわするしワシは濡れたくない」


 雨のせいか、相澤さんを除いて皆気だるげだった。1週間毎日顔を合わせていれば、感情くらいは表情でわかるようになってきて、会話にも参戦することも珍しくなくなった。またそれだけの期間があれば、ここの住民に対する印象も、初見時とは違うものになっていた。

 

 相澤さんはかなり面倒見のいい人だった。最初のブラジャーを買えのアドバイス以外にも下着の仕舞い方や、体が変わって困ったことはないか等、ちょくちょく気にかけてもらっている。それを不気味に思い、どうしてそんなに優しくするのかと聞けば、相澤さんもまた男から女になったからだった。更に言えばテツさんもそうだった。大家は別として、純粋に誕生から女性なのは和井田さんだけだのようだ。

 

 その和井田さんは大家が絡むと異常な執着を見せるが、最近のニュースに詳しいのは勿論のこと、うっかりニートだったと失言した俺のことを叱責するなど、常識には強かった。俺の天敵だ。彼女は大家にたいそう気があるらしく、普段から世話役を買って出て、召使いのようになろうとしている。


 対して大家は気ままで、和井田さんの行為にいいように乗っかかっている。顔を拭いてもらっていたり、髪の毛を梳いてもらったりと、俺よりも上等なヒモ生活を堪能していた。更に大家は割と雑な生活をしており、下着のまま庭のベンチに座りダラダラとせんべいを齧っているのを目撃したこともあった。ダラけ加減では俺といい勝負だ。


 最後にテツさんと伊藤さんだが、この人らは最初と変わらずだった。テツさんは快活に笑う明るい料理好きの人で、伊藤さんは無口で基本無表情な人だ。


 ざっと見渡すと、本当に色んな人がいるんだなと実感する。もう何年も前から死んだように生きていたので、人との関わりは新鮮だった。煩わしくはあるも、悪くはない。

 そういえば、朝昼晩の飯時以外では彼女らとはあまり関わっておらず、散歩と昼寝ばかりだった。普段何をしているのかは殆ど知らない。今日は雨の日で、しかもこれだけ時が過ぎれば1つ質問しても許されるだろう。


「そういえば、雨のときって皆さん何して過ごしてるんですか?」

「雨の日、か。用事がなければ家でテレビでも見とるな」

「私は普段と変わらない。服の整理とか、最近では裁縫なんかだな」

「俺はレシピ本読んだり、部屋の掃除」

「私は桜さんと一緒にいることが多いですね」


 思ったより普段と変わらない日を過ごしているようだ。それぞれ内容は違うけど、趣味とか家でできる日々のことで、こういう時趣味や時間を潰せる道具があるというのは羨ましい。俺はやれることもないから昼寝をするだけだ。

 雨の日のために俺もタダでできる趣味を見つけようかな。


「そういうおんしはどうなんじゃ」

「僕ですか? 雨じゃなくてもいつも部屋で寝てますね」

「それ面白いのか?」

「いや……別に面白くはないですね」


 大家の素直な反応に項垂れた。いざ自分の行動に対して冷静にコメントされると、実に退屈な日を送っていることを自覚してしまう。

 やっぱり趣味探しは頑張ろう。


「ヨシノ、おんしはどうなんじゃ?」

「……」


 1人黙々と朝食を食べ続ける伊藤さんに話題が振られ、彼女は箸を止めた。どう答えようかと考えあぐねているのか、唇だけを微妙に動かしている。

 俺と伊藤さんの部屋はふすまで隔てられているし、お互いあまり詮索しないタイプだ。それゆえ同じ家に住んでいるのに、雨の日に限らず普段何をしているのか不明のままだった。


「どうなんじゃ?」

「……パソコン」


 大家が更に詰めれば、伊藤さんは返答した。


 なるほど、パソコンか。

 俺も数週間前までは暇つぶしの道具として用いていた。インターネット回線があれば、動画を見たりゲームをしたりと、パソコンは時間をつぶすのに最適だ。最悪ネットがなくてもデフォルトで搭載されているアプリなんかでも遊べる。

 小銭に変貌を遂げた現代文明の利器を思い出しながら、目玉焼きとベーコンを口に放り込む。トロリとした半熟の黄身とベーコンは、炊き立ての白米によく合う。どちらもただ焼いただけななのにこれがまた非常に美味しい。


「パソコンか、そういえば使ったことないな」

「ワシはあるぞ」

「本当か? 初耳だ」

「ああ、この前ネットカフェとやらに行った」

「桜さん! もしやこの前帰りが遅くなると仰っていたのは、ネットカフェに行くからだったのですか!?」

「まぁな、パソコンだけかと思ったら――」

「私も誘ってくれたら全額出しましたのに!」

「いいじゃろたまには。 ワシにだって一人になりたい時だってある」

「そ、そういうことなら……」

「ところでそこで見た漫画が面白くてのう」


 二転三転と話題が切り替わるのが早い。もともと話すのが得意ではない俺は、途中でついていけなくなって朝ごはんを頬張った。もずく酢は最後に食べようか。

 にしてもパソコンか。できるなら俺もまた使いたい。散歩と昼寝だけの日々はいつか限界が来るかもしれない。しかし先立つものもない。今日のところはいつもと同じように昼寝をして過ごしていよう。


2

 月見荘に入居して最初の2週間は平和だった。散歩して寝転がったり、ベンチで寝たり、娯楽は少なくとも新しいニート生活には慣れてきて、安らぎは徐々に大きなものへとなっていった。だがあの日、最初に伊藤さんが話しかけてきたあの日から俺の運命は徐々に狂っていった。あの頃はまさか俺が不労の誓いを破戒するとは夢にも思わなかった。


 11月の13日と14日。Xデーはこの日。俺は人生のどん底にいる気分だった。


「これもお願い」

「はい……」


 心底苦痛の声色で返事を返し、別のスタッフから回ってきた段ボールを開封して、纏まった数を取り出すと取りやすいように並べた。午前の仕事は複数のチラシを纏めて、1つの袋に詰めることだ。これを案内スタッフ全員でやって3万セット作らなければならない。この単純作業を、今日だけでもう2時間は行っている。作業自体には随分慣れたといってもこれはしんどい。しかも本番は午後からの仕事だ。


 うう……。早く帰りたい……。腕時計を見れば、昼休憩もまだまだ。この長い一日は一体いつになったら終わるんだろうか。

 断り切れなかった自分の弱い心を恨んで、作業を続けた。

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