ex. かぐわしく、強くて固い

 春の日のこと。雨に降られて桜が散っていた。服なんてどうでもよかったから、ぬかるんだ地面も気にせず歩いていた。そうしたら傘を差した自転車がやってきて、タイヤが泥を撥ねて思い切り足にかかった。

 溜息をつくこともせずに歩き続ける。ニュースの写真ではあんなに綺麗だった桜も、前日からのブルーシートやゴミの散乱で台無しだ。花見シーズンで特設されたゴミ箱には、分別の看板がデカデカと建っているのに、守られてはいなかった。

 桜の写真も撮らずゴミ箱の写真を撮ったら、公園を抜けて自宅へと向かう。大通りに出れば雨だというのに人ばかりで、雨音に負けないくらいに足音が響いていた。家族やカップル、友達同士など複数人で歩く連中を見れば、羨ましく妬ましい気持ちになって、自然と足が速くなる。僕はすぐに自宅マンションにたどり着いて、嫌なものを振り切るように階段を駆け上がった。

 玄関で靴を脱いだ後、一緒に靴下とズボンを脱いで洗濯機に入れた。その流れでシャワーを一浴びしたら、ベッドへと倒れこんだ。枕に顔をうずめたまますぐ隣のパソコンの電源を入れて、しばらく待つ。


 5年前、世界規模の金融危機によって日本は大不況に突入した。そのせいで新卒からずっと務めていたIT企業をリストラされて、晴れて無職になった。でも首を切られた理由はそれだけじゃない。同じ役職のアイツは今もまだあの企業でバリバリ働いているし、後輩だって働いていることを知っている。僕には「自分も辞めます」なんて言ってたのにとんだ裏切りだ。要は不況でのリストラを理由にした、ていのいい首切りだった。

 そんなことがあってから、働く気なんて全く起きずに、ずっと無職を続けていた。高齢出産だった両親は、最初は母親、次に父親と病気でいなくなり、いざというときに助けてくれる人もいなくなった。幸いにも、激務で使う暇のなかった貯金と遺産のおかげで、ずっと無職のままでいれている。


 ようやくパソコンが起動したらしく、ベットから起きて椅子に座った。ブラウザを立ち上げると最近よく見るSNSにアクセスして、また別のウィンドウで動画の配信サイトを開いた。適当にアニメを流して、見終わったらまたSNSに感想を投稿する。誰からも反応はないけれど、別にそれでよかった。

 

 人を信じていいことなんてあったのか? 誰も僕のことなんて信じてくれないのに。


 そんなことを考えながらSNSを利用するのは、実に滑稽だと自分でも思う。まだ人との関わりを諦めきれないのか、それとも諦めるためにやっているのか、もうわからなくなっていた。


 ふと棚を見たら「武神装甲グレイス」のDVDが目に入った。リストラされた後、やることもなくてたまたま見ていた朝がたのアニメだった。無茶も道理も吹っ飛ばす単純明快なストーリーは、ずっとコンピューターとばかり戯れていた僕にとっては新鮮で、すぐにのめりこんだ。毎週楽しみに視聴して、DVDはすべて購入。放送終了後も何度も見直した。ストーリーもさることながら最も好きだったのは、登場人物に皆信念があることだった。何かに向かって懸命に生きて、目的をやり遂げたり道半ばで散る姿は、僕には眩しくて引き付けられた。

 思い出に浸ったらまたパソコンに向かいなおす。見ていたアニメは少し飛んでいて、その分だけ巻き戻した。






「……昔の夢」


 目を覚ましたら、月見荘の天井だった。ずいぶんと懐かしい日の夢だった。もう5年は前だろうか。あの桜の日は、何故だがよく覚えている。


 眠気を覚ますために顔を洗おうと、立ち上がって洗面台へ向かう。ふすまを開けて、キッチンのこたつをを通り抜けたらすぐそこだ。

 洗面台の鏡を見れば、5年前の自分とは違う姿が映っていた。小さい鼻に綺麗なピンクの唇に金色の瞳。肩上まである黄金の髪はウェーブがかかっている。ふかふかしたオレンジ色のパジャマなんかは、ちょっと前までは一生縁のないものだと思っていた。その姿はまごうごとなき美少女だ。

 いろいろなアニメを見ていると、いわゆる性転換やTSFといったジャンルもいくつか当たることがある。一言でいえば、登場人物の性別が変わるジャンルだ。当時はそういうのを見ても全然違う自分になれれば楽しいのだろうな、程度にしか思っていなかった。だって起こりえないのだから。それがまさか自分が同じ目に合うとは夢にも想像だにしていなかった。しかもこんな美少女になるなんて。

 僕は顔を洗って、新しく取り出したタオルで拭いた。洗濯機はまだテツさんに頼りっぱなしで買ってないけど、やっぱり欲しい。それから自室へ戻ったら布団を畳んで、隅に追いやる。押し入れはユウの部屋にしかないので、いつも昼頃に仕舞っていた。


 自分の部屋の隅に置いている簡易収納の中から、服を存分に吟味して取り出した。今日は約束の日だからなんとなく気合をいれる気分だった。

 姿鏡の前に立ってパジャマを脱ぐ。僕の体は大変貧相で、あまり起伏がないのが残念だった。でもこのサイズだとあまり真剣に支える必要もないからか、下着は可愛らしいのがそろっており、そこだけはいいところだ。

 白色のブラウスを着て、若葉色のスカートを履いたら、ゆったりとした灰色のカーディガンを羽織る。自分のセンスに自信はないけど、鏡の中の僕はしっかり可愛い。昔はできなかった女の子座りをして、スカートを見栄えのいい形に整える。胸に手を置いたら完璧な自分がそこにいて、思わず笑みを零してしまった。すっかり笑顔も上手になった。

 思えば生まれ変わったと喜んでいたのはとんだ勘違いだった。僕は結局ネット依存から抜け出せず、口下手も直せず、人との関わり方を忘れた、とんだ臆病者のままだった。躍起になって行動を起こしたことを思い出すと、自分でもアレは強引すぎたなと笑ってしまう。今はあの事件のおかげで依存も臆病も多少マシになったけど、まだまだ根っこの部分では変わらない。ユウの勇気が羨ましい。


 おっと忘れてた。僕はあわてて彼女から貰った伊達メガネをかけた。

 それから写真を撮ったら立ち上がって、カーテンを開ける。清々しい快晴だった。







 朝食を取ったら201自室へ戻る。こたつに設置したディスプレイをつけたら、スティック型のメディアストリーミング機器が起動して、メニューを表示させる。僕はいつも使っている動画アプリを開いて、約束していたアニメを選択しすぐに一時停止を押した。

 そこで玄関の扉があいて、ユウが入ってくる。手には二つの湯飲みが握られていた。


「お茶!」

「ありがとう」


 こたつの上に湯飲みを置いたら、ユウはすぐにこたつへと潜った。大家さんもユウも最近はそんな感じで、僕はだらしないとは思うけど、この寒さでは仕方がないのかもしれない。というかこたつに入る前に、まずはどっちもそこそこ薄い服なのを改めた方がいい。

 呆れながら僕もこたつに入ったら、さっそく一時停止を解除した。脳内で再生できるほどに聞いた、勝利確定BGMで定評のあるオープニングは流れてこず、プロローグの映像が流れ始めた。程なくして、プロローグは終わって、オープニングが流れ始めた。


「あ、このタイトル。ヨシノの部屋にあるやつ?」

「そう、武神装甲グレイス」


 今日は二人でこたつに入りアニメ鑑賞をする約束をしていた。ようやくディスプレイを買えたこともあり、まずはこれをユウと見たかった。


「これ売らなかったってことは魂の作品ってやつ?」

「そう」

「じゃあ、ちゃんと見なきゃな」

「そうでなくてもちゃんと見て」


 本気なのか冗談なのかわからない言葉に突っ込みを入れて、僕は真剣にディスプレイを眺めるユウを眺めていた。


 ユウ、君には本当に感謝しているんだ。僕は何度も君に救われた。


 恥ずかしくて言わないけど、ここに来た時本当は死ぬ気だった。年齢とブランク期間のせいでまともな就職はできず、僕を必要としている人も、死んでも悲しむ人もなかったから、決めたらすぐだった。あらゆるものを捨てて、売って、契約しているものは全部解約。スマホと武神装甲グレイスのDVDだけは最後まで手放せなかったけど、それ以外は概ね全部手放した。

 そうした後にあてもなくぶらぶら歩いていたら、偶然月見荘のチラシがポストに入っていることに気が付いて。これまたなんとなく電話したら二つ返事で許可をもらっちゃって。だから入居したら落ち着く前に山にでも行って、首を吊ろうと考えていた。

 でも、いざ来てみたら部屋に入る前に君に「これからよろしく」なんて言われて、そのとき久しぶりに自分のことを生きてる人間だと思ったよ。まだ死んでなんていなかった。だからもう少しだけ生きてみようって。人を救うのに特別な言葉なんていらなかった。

 これが最初に救われたこと。


 それから一緒にバイトをしてくれたこともそうだし、あの事件のときだってそうだった。あの時は怖くて仕方なかった。創作でも見たし、ああいう展開が起こりえることは予想していたのに、無理やり逃げる勇気もなく、眠らされて目を覚ましたときもう何も考えられなかったよ。あったのはこれから犯されることへの恐怖だけだった。せっかくここまで来たのにどうしてって。絶望の中で君と顔を合わせたとき、わずかに微笑んでいるのに気が付いたんだ。きっと僕を安心させようとしているってすぐにわかったよ。2回目は裸にされた恐怖で全然覚えていないけど、その後に僕のために叫んでくれていたのはだけは聞こえていた。僕は覚えていられないくらい怖かったのに、あれほどどうしようもない状況の中で人を思いやり笑えるなんて、普通はできることじゃない。少なくとも僕は。あの時の君の優しと勇気が、また僕を立ち上がらせてくれた。


 僕は微笑むと、心の中でありがとうと言い、ユウからディスプレイへと視線を移した。武神装甲グレイスの1話の前半が終わろうとしている。

 

「ねぇ、今聞くことじゃないかもしれないけど、気になってたこと聞いていい?」

「何?」

「なんで芳乃って名前にしたの?」

「……ツヨシとヨシノで、2文字被ってるから」

「え!? ホントだ! そうだったんだ!」


 驚きで目を大きくするユウを見て、また笑みをこぼした。


 人を信じていいことなんてあったのか? 答えはまだわからない。

 でも僕はいつまでもこんな何気ない日々が続けばいいと、願った。

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