1. Reboot ①

1

 草木も眠る12月。ほんの少しだけ前を向き始めた俺が、私へと変わる始まりの冬。そして、誰もが知っていて、けれど俺だけが知りたくなかった素朴な真実への第一歩でもあった。


2

 寒風が吹きすさぶ冬の季節は、建付けの悪いボロアパートには厳しいものがあった。ガタガタと揺れる窓ガラスは、夏の風物詩である風鈴のようで、聴覚からも寒さが助長されていた。

 しかし冬だからといって冷え込んだ話ばかりではない。インターネット回線の契約を境に、俺とヨシノの関係はただの同居人から友人へと変わった。彼女は妙なところで積極性を見せてきて、やれ「……名前で呼んでくれませんか?」「……丁寧語もやめてみませんか?」などと一気に距離を詰められた。

そんな友人経験など皆無で距離感を測りかねたまま、俺達は少しずつ知り合い仲を深めている。


「……バイト行ってきます」

「いってらっしゃい」


 ガチャリと、玄関の鍵を閉める。

 今日も今日とてバイトに精を出すヨシノを見送ったら、俺は再び布団へと潜り込んだ。ライブスタッフの日雇いバイト以降俺のニート生活は平穏を取り戻していて、この何事もない日々を満喫していた。これといった趣味もなく、相変わらずの日がな散歩と昼寝を繰り返す老後みたいな生活。ノートパソコンは使用していいと言われているものの、どうにも手が出ない。ここまでいくと自分の我慢強さに驚きさえも覚えていた。


 気持ちのいい微睡みを堪能していれば、いつの間にか朝7時へと時計の針は進んでおり、セットしていた目覚ましが鳴った。


「あ~寒い~! 飯が来い」


 希望だけを口に出しても、来るわけがない。そんなこと考える前から分かっていながら言葉にしたのは、そうでもしないと寒さでどうにかなってしまうからだ。

 俺は勢いのまま布団を取っ払い、ハチャメチャに冷え込んだ室内で着替えて、バカみたいに寒い廊下を超えて月見荘の101号室へ向かった。


「おはようございます」

「おはよーさん!」

「ってアレ? なんでテツさんしかいないんですか?」


 これだけ寒い中来たのに、人口密度で暖かいいつもの食卓は目の前にはなかった。そこそこ広いキッチンには料理をするテツさんだけ。ヨシノや相澤さんが朝早いバイトで居ないことはあるものの、大家と和井田さんまで出かけているというのは珍しかった。


「今日は皆仕事だ。だから俺とお前だけ」

「へ~、そういうこともあるんですねぇ」

「まぁ確かに、朝食で2人なのはかなり珍しいな!」


 適当に座って待っていれば、テツさんが笑顔で朝食を持って来てくれる。手伝わなくとも怒られやしないと気が付いてからは、最低限食器を流し場に入れるだけで配膳すらしなくなった。だから最近は最悪な行為だと感じつつも、このコタツへと変貌を遂げたこの長テーブルでぬくぬくとさせてもらっている。


「ありがとうございます。いただきます」

「おう食え! いただきます!」


 嫌味を含まないテツさんの笑顔に、若干の罪悪感を覚えた。皆そこまで考えていないと思うが、驚く程の速さで月見荘での地位を下げていると思うと、流石に手伝いくらいした方がという考えの1つや2つ浮かんでくるものだ。


 気分を下げてもテツさんの料理は美味しく、毎日同じメニューでも飽きが来ることはなかった。目玉焼きに醤油をかけて、半熟の黄身をベーコンに絡ませると、白米と一緒に頬張る。単純な料理なのに、一体何が違うのだろうか。


「2人だとなんか寂しいな。テレビでもつけるか」

「そうですね」

「ニュースしかないな」

「まあ7時ですし」


 朝7時。それは一般的な社会人の方々が起きて支度をする時間であり、ニュースを放送するには理に買叶ったタイミングだった。アナウンサーによれば北海道では12月にしては歴史的な大雪らしく、吹雪の中で現地リポーターが果敢に状況を伝えていた。人が歩くのも厳しそうなのが見て取れる。


「雪ってここら辺だと降るんですか?」

「降るに決まってんだろ。お前な~埼玉を何だと思ってんだ」

「す、すいません。そうなんですね、楽しみにしてます」

「そうかい」


 呆れたテツさんが渋い顔をしていた。そりゃ東京でも雪が降るんだから、比較的近いこの渋宮にも降雪くらい起こるだろう。


 飯を食べつつ、番組の語る内容についてやいのやいのと言い合っていたら、茶碗の白米が底をついた。ベーコンも目玉焼きも無くなっており、俺の朝食はこれで終わりだ。「ごちそうさま」と手を合わせて決まりをつけ、使用した食器を流しへと持っていく。

 俺はガチャガチャと音を鳴らしながら軽く水で汚れを流して、さっさとコタツへと戻ろうとした。水のせいで指も冷たいし、足先ももうジンジンとしてきている。

 

「ユウ」

「なんですか?」


 よろしくない状況でテツさんに呼びとめられて振り向いた。テツさんもキッチンに立っていたなら呼びとめるタイミングは考えて欲しい。……いや、この人は暖かそうなスリッパを履いていたな。


「お前、これから皿洗いやれ」

「皿洗い? マジで言ってますか?」

「マジもマジの大マジだ。お前暇だろ。皿洗いくらいしろ」

「そ、それって朝昼晩ですか? 今日からですか?」

「当たり前だろ」


 朝っぱらから唐突な命令に動揺を隠せなかった。この真冬に3食皿洗いしろだなんて、鬼畜の所業だ。どうせ拒否権もないし、げんなりした様子を隠しもせずに、しぶしぶ首を縦に振った。


 ああさらば最高のニート生活。俺の冒険はここで終わりだ。信じていた仲間にいきなりダンジョンの最下層に突き落とされたような、本当の意味でどん底に叩き落された気分だった。


「……わかりました。頑張ります」

「じゃあ今からな。はいこれ」


 流し場に新たな皿が置かれる。それは俺の使用した皿と全く同じ皿だった。


「よろしく!」


 バシンと背中を叩かれて、皿洗いの任がいよいよ始まった。


 立てかけられたスポンジを手に取って洗剤をつける。まずは水で汚れを落としたら、泡立てたスポンジで念入りに汚れを落としていった。しかしまぁ、半熟の黄身は美味しいのに、皿子こべりついたら落としにくいのだけは玉に瑕だ。


 食器の汚れを一通りスポンジで落としたら、後は泡ごと汚れを流すだけだ。古ぼけたキッチンに似合わない最新の蛇口からお湯をひねり出して、まずは手を温めた。やっぱり皿洗いをするには冬は寒すぎる。急ぎで洗い流して、水切り台に食器を置く。これが明日から3倍の量になると考えたくもなかった。


「終わりましたー。じゃあ僕はこれで」

「まぁ待てユウ。ちょっとこっちこい」

「まだ何かあるんですか?」

「むしろこっちが本題だ。これはお前にしか頼めないことなんだ」


 水場から離れて玄関へ向かおうとすると、テツさんに引き留められた。見ればいつになく真剣な表情で、いつぞやのヨシノを思い出し、嫌な予感が走る。このニートへ頼み事など、一体全体どんな期待からするというのだ。皆目見当もつかない。


 嫌な予感で満たされる中、俺は仕方なく炬燵へと足を滑らせた。


「俺たちが車で買い出しに行ってるのは知ってるな?」

「ええ、まあ」

「そこで頼みたいことがある。25日に買い出しに出たいから桜に車のキーを借りてきてくれないか?」

「え、僕がですか? 免許ないですよ」


 免許どころか、健康保険も所持していない。公的に俺の身分を証明するのは、あと2か月程度で3ヶ月を過ぎる住民票だけだ。

 それはさておいて、テツさんは専業主婦だからいくらでも時間を作れそうなものなのに、何故態々俺に車のキーを借りてこいなどと頼むのか。そもそも今でさえ大家とのやり取りはテツさんの方が多い。自分で頼む方が、明らかに早いし確実だ。


「運転は俺がするからいい。お前はただ車のキーを借りてきてくれればいいんだ」

「……参考までに、それ断ればどうなりますか?」

「オイオイ。俺は借金取立人じゃない。別にどうもしないって。25日がどんな日かわかるだろ?」

「それはまぁ、はい」


 12月25日といえばクリスマスだ。キリストの生誕祭。ハロウィンやバレンタインデーと同じく外国から伝達された文化だ。これに限っては文化というよりも宗教なのだが、日本において敬虔な信徒を除いてまともに祝っている人は少ないだろう。かくいう俺も子供にプレゼントを贈りなんか少しだけ贅沢をする日、という認識だった。


 なるほど読めてきた。サプライズという訳か。夕食を豪華にするとか、ちょっとしたプレゼントを贈るとかそこらへん。食事には手を抜かないテツさんだ。流石は縁の下の力持ちといったところか、きめ細かなサービス精神にも長けていた、ということか。


「だから頼む!」

「しょうがないですね。今回だけですよ」

「ホントか!? いや~助かった! 出発は25日の昼前だ、じゃあ当日は頼む!」

「はい」


 こうまで純粋に頼み込まれたら断るのも難しい。それにテツさんにはさんざん世話になっている。たとえレールから外れようと、人情と仁義を忘れたら社会的に云々以前にこれはもう人として終わりだ。ちょっとしたサプライズを用意するための準備を手伝うくらい安い御用だった。


「あぁそれと、誰が運転するかは伏せとくんだぞ」

「は、はぁ? まぁわかりました」


 意味のわからない要望に一瞬呆けるも、すぐに意図を理解して頷いた。つまりは誰からも秘密にしたいということだろう。

 一応これで話は纏まったので、果たして本当にキーを借りれるかどうかは考えないようにして、101号室を後にした。


3

「これどーすっかなぁ」


 寝そべりながら眺めていたのは御巳神社、御巳皐月、住所、電話番号、メールアドレスと、必要なものが一通り書き揃えられた名刺だった。白い背景に黒い文字、フリガナも振ってあり簡素ながらも丁寧な作り。いつぞやのチラシと比較するのもおこがましい程整ったものだった。少しよれよれなのは適当に管理していた証だ。


 日雇いでライブスタッフをした後の強姦未遂事件から、早いものでもう1か月は過ぎていた。正式な事件名などないので、俺達の間ではあの事件や例の事件と呼んでいる。踏ん切りがつく切っ掛けの事件とはいえ、強姦未遂事件など思い出したくもないので、否が応でもそれを想起させるこの名刺を見る度に溜息が出た。


 そうやって現実から逃避し、なぁなぁに事後処理をしたのもまた1月分。風邪を患うとか、布団を購入したりとかいくつかイベントを挟みつつも、1か月もかけることじゃない。完全に放置を決め込んでいたらもう年末という頃合いだった。


 ここまでくるともう並大抵の気持ちでは連絡出来ない。いっそのこと放置を続けて風化させてしまうのが篠山さんにとってもプラスなのではないかと思う。それでも断ち切れずに眺めているのは、俺にもまだ心残りがあるからに他ならない。彼女は何も知らない。当事者として、もし知りたいのなら一部始終を知る権利が彼女にはあるはずだ。そしてそれを伝えるのが可能なのは、きっと俺だけだから。


 筋を通し、全ての禍根を消し去るべきだと、本心は叫んでいる。この名刺と100円を持って公衆電話にかけ込めば今日にでも解決するというのに、俺の心の弱い部分が決断を先延ばしにしていた。


「はぁ~」


 溜息を吐きながら寝がえりを打った。人肌で温められていない部分の畳は冷たく、これが愚かな行動だったとすぐに後悔した。次いで胸が邪魔になり、すぐに仰向けに変える。うつ伏せになると、股間ではなく胸が邪魔になるようになったのは、少しマイナスだった。


「ユウ。一緒に銀行口座開設しにいかない?」

「ウォッ!? 急に何!? 銀行!?」


 突然かけられた声に狼狽し飛び起きる。声の発生源を見れば、いつの間にかふすまが開かれており、間には有名ホラー映画のごとく顔だけを突っ込みのっそりと佇むヨシノがそこにいた。


「なんかごめん」

「いや別に謝るほどではないです……ないよ」

「ありがとう。それで口座開設なんだけど、どう?」

「んーまぁ持ってた方がいいよな。行くよ、暇だし。いつ行くの?」

「今から」

「え、今から?」

「ダメ?」


 駄目な訳ではない。にしてもヨシノにしてもテツさんにしても、俺への頼みが唐突すぎる唐突過ぎる。そしていつも俺にとって嫌な事態に陥ることになっていた。だから反射で嫌な頬を動かしてしまうのも仕方のないことだ。


「……いや、大丈夫。行くよ」


 断る理由もないし、いずれ銀行口座は作る予定だった。当日に決定し当日に開設を慣行するのはいささか急すぎるという文句も出そうと思えば出せるが、俺はニートで時間だけは有り余っている。名刺みたく、先延ばし癖が悪さをする前になんとかできるのは、それはそれで有難い。


「そっか。じゃあ準備しておいてね。ところで何見てたの?」

「名刺だよ名刺。あの時貰ったやつ」

「あ、えと……篠山さんと御巳さん? のところの」

「そうそう」


 話題が名刺に映り、視線を再びそちらに向けた。これに記載された電話番号に電話するか、メールアドレスにメールをするか、それだけで終わるのに、情けないったらありゃしない。


「連絡したの?」

「……まだ」


 歯切れの悪い返事をして、話題を終わらせようとした。”まだ”以外の言葉を連ねても言い訳になるし、嘘もつきたくない。もしもの話、渡されたのがヨシノだったらこうはなっていなかったのかもしれない。


「じゃあ連絡しに行こうよ」

「えっ?」

「電話ボックス見張ってるから。ほら」

「えっ? ちょっ」


 腕を掴まれて無理やり立たされた。着替える服などないことは既にお見通しで、ヨシノは黒いジャンパーと靴下を手に取ると俺に渡してその場で待機する。呆然とするままに、緩慢な動作で靴下を履いてジャンパーを羽織ったら間髪を入れずに「財布!」と叫ばれたので、財布をポケットに入れると部屋から放り出された。


「え~……」


 




 外気を遮断する電話ボックスは、外の気温に比べて幾分か暖かかった。溜息を吐けばそれが白いもやへと変化するも、すぐに霧酸した。内と外とであまり変わらない光景に、ただのプラシーボだったのだと落胆する。


 チラリと緑色の公衆電話の向こう側に視線をやれば、アクリル板に顔が付きそうな程近くで俺を監視していた。直立不動の姿勢、眼力、この2つだけをとっても、下手なホラーより数倍怖かった。


 監視されながら電話と息も詰まる中、仕方なく100円硬貨を取り出すと、塗装が剥げた黄緑色の公衆電話の受話器を取ってから投入した。受話器を肩で固定して番号を間違わぬように押すと、電話の呼び出し音が耳元で響き始めた。

 数コールの後相手側が呼び出しに応じ、ガチャリと受話器が持ち上げられる音がした。


「はい。御巳神社です。ご用件は何でしょう?」

「あ、えーっと、その。用件と言いますか、なんというか……」

「お祓いでしょうか? それとも祭事でしょうか?」


 そういえばノープランだった。そもそも用件すら曖昧だ。なんと切り出せばいいのだろうか。まさか直球で例の事件を事細かに説明するなんて有り得ないし、とりあえず御巳さん自身に思い出して貰うのが最善か。


「1か月前くらいに倉庫で名刺をもらったのですが、その時は篠山さんもいて……」

「……理解した。少し待っていろ」


 どうやら伝わったようで、篠山さんには繋げてもらえるようだった。明らかに態度が変わり、面倒臭そうにしているのは、気にしないことにした。世の中そんなことにいちいち目くじらを立てていれば生き抜けないからな。


 しかし本当に篠山さんと話せるとして、何を話せばいいのだろうか。例の事件に知りたいかと、いきなり本題に入るのか? それとも簡単な世間話からか? 御巳さんに対してもドモリまくっていたので、どちらにせよ上手く話を運べないのだけは確かだった。


 コールセンターのように呼び待ち音があるわけでもなく、ひたすらに無言の中、緊張だけが大きくなる。俺は逃れるように唾を飲み、白い吐息だけを眺めていた。


「もしもし、まだ繋がっているか?」

「ひゃいっ!」

「今日会えるか?」

「きょ、今日ですか? ちょっと待ってください!」


 一度耳から受話器を話すと、慌てて電話ボックスのドアを開いて、ヨシノへと声をかける。


「ねえ! 今日会えないかだって」

「午後なら大丈夫だと思う」

「午後! 了解! ありがとう!」


 ドアを閉めぬまま受話器を耳に当て、御巳さんに予定を伝えた。どこなら都合がいいか、どこで待ち合わせるか、待ち合わせの時間等、いくつかの必要事項のやりとりには数分を要した。俺はヨシノの言葉を、御巳さんは篠山さんの言葉を中継していて大変な遅延が発生していたため、途中で通話が切れないか背筋が凍る思いだった。


「それじゃ川越駅東口に14時だな。確かに伝えたぞ。後はお前が何を伝えるか決めろ。これで貸し借りはなしだ。じゃあな」

「はい、ありがとうございます」


 感謝を述べる前に、耳にはツーツーと通話終了の音だけが鳴っていた。それを確認して、俺はゆっくりと受話器を緑の公衆電話へと戻した。


「……展開が早すぎる」


 これまでの悩みなどなかったかのように高速で解決される問題に対して、俺が言えたのはそれだけだった。

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