3. 未知の自分 ①

1

 地面からは少し離れているが、別に空が近いというわけでもない。月見荘の2階は飛び降りても平気そうな気がするほど高くはなかった。窓を開けるとそこはもう、少し前まで見ていた東京の街とは違い、平坦で小さい建物ばかりのだだっ広い空間が広がっていた。新鮮な空気がとても気持ちがいい。


 ふすまの開かれる音に振り返れば、あの冴えない男の面影は一切ない金髪金目の美少女がそこにいた。ゆるくウェーブの掛かった髪を靡かせて、こちらを見ている。その顔は無表情で、何を考えているのかは全く分からない。1日にも満たない付き合いでは、限度がある。

 俺たちはたっぷり数十秒見つめあい、ようやく会話を始めることができた。

 

「もしかして、部屋のことですか?」

「……」


 伊藤さんはコクリと頷き、こちらに足を踏み入れる。身長にも変化があったのだろう。完璧なまでの可愛さに見合わない、やぼったい男性の服はダボついていた。かくいう俺もほんの少しばかり縮んでいる。


「とりあえず、座ってください」

「……ッす」


 キャリーケースをテーブルに見立てて俺たちは向かい合う。伊藤さんは落ち着きがなさそうに何度も姿勢を変え、最終的に正座で落ち着いていた。俺が微妙に歩き辛くなったように、彼? 彼女? は今まで落ち着いていた姿勢が、そうでもなくなったのだろう。


「……部屋割りですけど、昨日と同じでも問題ないですか?」

「……ッす」

「えっと、ほかに何かありますか?」


 部屋の問題で思いつくことを1つ質問したら、もう何もなくなった。だが伊藤さんは全く立ち上がらないし、どことなく真剣な空気で、このまま終わらせてくれるようには見えない。今ばかりは自分の人付き合いの少なさと、行き当たりばったりでしか考えない俺の頭が恨めしい。


「あ、洗濯機とかですか?」

「……」

「それじゃあカーテンとか」

「……」

「ほかには――」


 考えつく限りあり得そうなモノを上げると、眉の形を変え肯定したそうに首を横に振られる。その顔を見る度に、いかに生活用品が足りていないかを知り、生活の難しさを認識していった。せめて白物家電くらいはあった方がいいものか。

 そんなやり取りも数度続くと、ついに俺は逃げられなくなり、意図的に避けていた可能性を言わなくてはならなくなった。これの解決には、必要としないモノに残り少ない金を使わないといけなくなるため、できるだけ避けたかった。見たところ、伊藤さんも拘っているわけではない。それでも、きっとこの不快感が我慢ならなかったのだ。


「その、臭い、ですよね……」

「……い」


 伊藤さんの返答が、「はい」へと変わる。生活における臭いの問題は、それほどまでに根深い。


 俺が窓を開けている理由がまさにこれ。起きてから朝食に行くまでは体が変わった驚きで殆ど分からなかったのだが、戻ってくればあら不思議。男だったときの臭いが、まるで知らないオッサンの臭いのように感じられどうにも駄目になった。


「どうしますか?この匂い」

「……行きましょう」

「!?」


 おお!? 初めて伊藤さんの声を聴いて、失礼ながら驚いた。これだけで、どれ程問題視しているかがわかるってものだ。


 そうしたら伊藤さんはスマホを取り出して、キャリーケースの上に置く。覗き込むと、ショッピングモールのページが映し出されていた。

 そりゃそうだ。最も臭いが沁み込んでいるのは服だ。いくら最近の消臭剤が進化しているとはいえ、長年着込んでこべりついた臭いはすぐには消せないし、体の変化でサイズも合わなくなっているときた。それに服以外にも買わなければならない生活用品はいくらでもある。


 目指すは埼玉ふじみ野の大型ショッピングモール。興味のない服に金を出すのは渋いものの、それしか道が無かった。



2

 歯ブラシに歯磨き粉、あかすりやバスタオルなど。歯ブラシは口内に突っ込んでいるだけあって、未知の異臭を放っていた。手持ちの品を並べれば、使えるのか使えないのか微妙なラインのものばかりだが、今日のところは我慢する他ない。


 ショッピングモールへは、明日向かうことになった。今日は準備期間。その為俺たちは、生活に必要なもの、足りていないもの、買い替えなければならないもの、それぞれを整理して纏めている。結果、事態は思っていたより深刻なことが明らかになった。

 服は全滅、日用品もタオル類は買い替えを検討しなければならない。加えてハンガーにゴミ箱や掃除用具なども必要なのに、所持金が4万3千と、どうやって生活する気だったのかと問い詰めたくなる程の有様。金目のものは全部売ったのにこれだから、そもそも今までも結構ギリギリを生きていたのだと実感する。

 毛布を持ってきていたのは不幸中の幸いだった。布団が無くても、本格的な冬が来る前まではこれで凌げる。


「おーい、おんしらちょっと集まってくれー!」


 あらかた検討し終えると、突然大家の声が聞こえてくる。換気のために玄関を開けっぱなしにしているため声は素通りだった。売れなかった置時計を見ると今はまだ11時。昼食には少し早そうだ。

 「はーい」と返事をして向かえば、先ほどまでの大きな耳と尻尾を広げた姿ではなく、人間の姿をした大家がそこにいた。手にはコピー用紙の束のようなものとボールペンが握られている。契約書か何かだろうか。


「なんですか?」

「おんしら、そのままの名前というわけにはいかんじゃろ。新しい名前を決めるぞ」

「え? それじゃあ今までの僕らってどうなるんですか?」

「死んだか、行方不明扱いじゃ」

「そんないきなり……」

 

 突然の死亡宣告に少し面喰ってしまったが、確かに名前を変える必要はあった。冷静になれば俺たちに今までの面影はないし、整形したと言い張るのも無理がある。それなら名前を別人として生きるのは至極まっとうな話だ。

 別に俺は死んだことになってもニートだからそんなに影響はない。社会的にはもともと死んでいる上に、崩れたら嫌なほど何かを積み重ねた記憶もない。けれど生きた時間が無に帰るというのを直ぐに受け入れられる程素直でもない。

 

「どのみちおんしらは職も身寄りもないし、ほとんど死んだようなもんじゃったろう」

「え?」

「なんじゃ、間違っておったか? 実は資産があるとか」

「いやそうじゃなくて、僕の親はまだ生きてますよ」


 職がないのは正しい。ニートだからな。でも俺の親は生きている。そこは訂正しないければ。


「……それは片方が、か?」

「いえ、両親です」

「はあ!? どっちも生きとって電話してきたということか!?」


 驚愕の表情で慌てふためく大家。俺の両親が生きているのがそれほど驚くことなのだろうか。もしかして、両親に嗅ぎ付けられる可能性を考慮しての問題視か。いくらなんでも、これだけ姿が変われば、もうたどり着けやしないだろうに。


「両親が生きているのがそんなに問題なんですか?」

「いや、そうではない。ただ、おんしらが持っているチラシはそういう人間には見えないようになっているのじゃ」

「妖の力とかそういうやつですか?」

「そうじゃ」


 大家は顎に指をあてると、何かを考え始める。俺と虚空を交互に見つめながら眉間に皺をよせ、真剣に悩んでいた。

 どうやらあの毒々しいチラシは、俺みたいに親がいる人間には見えないように作られていたらしい。


「……いったんそれは置いておこう。名前じゃ名前」

「あ、はい」


 大家の切り替えは早く一転して笑顔を見せ、部屋に上がり込む。彼女は冷蔵庫すら存在しないキッチンの床にそのまま座ると、紙とボールペンを二つずつ並べ、俺たちをその前に座らせた。さらにどこからともなく鏡を取り出せば、それを手渡してきた。


「それがおんしらの今の姿じゃ。顔に合う名前にしても良し、全く別の名前にしても良し、とにかく姓名合わせて全く同じはダメじゃ」

「結構面倒臭いですね」

「……」

「自分の名前を自分で決めるなんて、そうそうないぞ。今後の人生で使っていく名前だから好きなように決めい」


 と言われても、思いつかない。名前は言わばただの記号だし、どうでもよかった。とりあえずボールペンを持ってみたけれど、それで浮かぶものでもない。

 どうせなら大家の提案通り顔に合うように名前を決めてみようかと、鏡を覗き込む。今朝見たばかりの可愛らしい顔があった。俺が口を動かせば見慣れない顔の口が動き、目を動かせば同じように目が動く。全てが俺の意図通り動くのに、新しい顔にはまだ奇妙な不気味さを感じる。この顔にもいつか馴染む日が来るのだろうか。

 にしても、髪や瞳の色こそ違うものの、目元や唇の形なんかがどことなく大家に似ている。目を細めた顔なんかが特に。親戚と言われれば確かにそうかも、となる具合だ。


「なんか僕、大家さんに似てますね」

「確かにそうじゃな」

「じゃあこれでいいですか?」


 確認したところで、ボールペンを手に取り大きな紙に遠慮なく文字を書く。とにかく大きく、もうこれで変更はないぞという意思を見せることが大切だ。書き終えたらすぐさまそれを逆さにして見せつけた。


「これ、でいいですか?」

「”東白優”か」

 

 すると大家は紙と俺の顔を交互に見比べ始めた。先ほどと同じ表情だ。あまりの真剣さにどうにも落ち着かず、俺はそわそわしたまま言葉を待った。もし勝手に苗字を使ったことで非難されるなら、また別の名前を考えよう。

 しかしそれもすぐに終わって、何かを納得した様子で頷いた。

 

「うん。まあいいじゃろう」

「よかったです」

「それで、伊藤のほうはどうじゃ?」


 俺の名前は許され、大家はすぐに伊藤さんに名前の進捗を訪ねる。伊藤さんを見れば、俺とは違い、A4用紙に達筆な文字でいくつもの名前の候補を並べていた。候補の中の一つが二重丸で囲まれていて、それを指をさしている。


「ほう”伊藤芳乃”か、よい名じゃな」


 おい、伊藤さんは一発で名前が通るのかよ。しかも褒めている。俺の方を見て悩んでいたのはなんだったんだ。

 だが確かに大家の言う通り、らしい名だ。古風で物静かな伊藤さんには似合っているし、何より女の子らしい。

 

「んじゃ、おんしらの名前が決まったところで、ちと早いが昼食といこう。それと改めて自己紹介じゃ」


 大家は鏡と紙とペンを回収すると、強引に俺たちを引き連れて昼食へと向かった。




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