4. 未知の自分 ②


3

「おーう、これ運んでくれー」

「……」


 伊藤さんはいきなり渡された大皿のサラダを、おそるおそるキッチンの中央にある座卓へと運んだ。それを渡した浅黒く日焼けした美人も、二つの皿を座卓へと持っていく。


 自己紹介だと、大家は言った。

 考えてみれば、俺が知っているのは大家と伊藤さんだけで、他の月見荘の住民については何も知らない。朝食の時も顔を合わせたが、あの状況で自己紹介をする余裕などなかった。そもそも名前すら違っていた。

 手伝うこともせず呆けならが突っ立っていると、丁度大家が2人引き連れてきた。外に出る素振りも見せずに中に入ったので、ここにいる6人で全員なのだろう。

 大家ら3人は入るなり当然のように座布団へ腰を掛け、箸立てから一善自分の手前の食器の前に置いた。


「何をしておる。座らんか」

「あ、はい」


 せかされて、俺も空いている場所へ座る。自然と俺と伊藤さんが隣同士になり、対面には大家が連れてきた二人、誕生日席には大家と褐色美人が座る形になった。


 全員が着席しているのに、誰も箸を取らず無言が続く。俺の対人スキルは低い。朝食時ほどではないが、かなり苦痛だし緊張する。

 ええい、やはりここは伊藤さんにしたように先に挨拶をかまして、好印象を与えられるように頑張るべきか。


「その……僕はひと、東白優とうはく ゆうです。これからよろしくお願いします」

「……伊藤芳乃いとう よしの

「おう。ワシは東白桜とうはく さくら。んでこっちから」

「私は相澤秋あいざわ あきだ」

 

 少し長めの前髪を片側に寄せ、残りの髪を後ろでまとめ上げる臙脂色の髪の女性。鋭い目つきとキリっと結ばれた口元からは、気品のある印象を受ける。身に着けている少しゴシック寄りの服装もよく似合っている。


和井田夢路わいだ ゆめじです」


 腰ほどまで届くストレートの黒髪で内側を金に染めている童顔の女性だ。白い肌についている桜色の唇が、その顔に反してなんとも色っぽい。スーツを着込んでおり、心なしか俺を睨んでいる。いやこれは確実に俺を睨んでいる。あまりの眼力なので怖くなって、日焼けの女性に視線をそらした。


「俺は清田哲代せいだ てつよ、テツって呼んでくれ」


 先ほど料理を作っていた、ぼさぼさの黒髪セミロングで小麦色に肌が焼けた女性。半袖のシャツに半ズボンとすこし季節外れな恰好をし、快活で朗らかな笑みを浮かべていた。

 この人数に強制的に対面させられ、緊張で体が強張った。

 

「まだ名前だけじゃが、続きは飯を食いながらでも話そう」

「そうだな。せっかく作ったのに冷めたら嫌だしよ。やっぱ中華は熱いうちに食わないと!」


 大家は手を合わせて食前の挨拶をした後、すぐさま大皿のチャーハンを自分の空皿へとよそっていく。それを皮切りに、皆同じように自分の皿へと食べ物を取り分けていった。俺も同様に、

 チャーハン麻婆豆腐サラダの中から、まだ誰も手を付けていなかったサラダをよそいまずはそれを一口。千切りの野菜群と茹でた薄切り肉をドレッシングで和えたサラダだった。

 朝食の時は全く味がわからなかったけれど、今はもう緊張していても味がわかる。

 このサラダ、とてもシンプルなものなのに物凄く美味しい。野菜は瑞々しく保たれているし、肉だって綺麗に油が取り除かれていて口触りもいい。清田さんの料理の腕は確かだった。


「これ、とても美味しいです」

「おおよかった! まずいなんて言ったらぶん殴ろうと思ってたよ!」


 冗談かもわからない言葉を聞きつつ、チャーハンや麻婆豆腐もよそって食らう。チャーハンは薬味がよく効いていて、しかもパラパラだ。麻婆豆腐は熱く程よい辛さでホロホロと豆腐がとろけていくのが癖になりそうだ。

 

「本当においしいです」

「中華は俺の得意料理だからな! そう言ってくれると嬉しいねぇ!」

「お前はいつも雑なのに、何故料理という繊細なことが得意なのかよくわからない」

「雑ってなんだ雑って、適当って言え。いい方の意味でな」

「いい意味で適当だったことは数えるほどだろう」

「なんだと」

「おいやめんか、どうしてそうなる」


 本当にどうしてそうなる。相澤さんが一言発しただけで、流れるように悪態の付き合いに移行する様子に啞然とした。俺のメンタルのためにも、特に相澤さんと清田さんの前では言動に気をつつけようと決め、逃げるように和井田さんの方を向いた。


「ッ!」


 息の根を止めると言わんばかりの強い眼光で和井田さんが俺を睨んでいる。慌てて視線を手元のチャーハンへと移した。息を止めさせるのが目的なら、今の一瞬で呼吸が止まり、本当に心臓が止まりそうになったから、それで手打ちにしてほしい。


 清田さんも相澤さんも和井田さんもなかなかにメンタルに危険な存在だ。どうやら月見荘で平穏はないのかもしれない。


「東白優、と名乗りましたねあなた」


 すぐに和井田さんの視線から目をそらしたのに、見逃されずに話しかけられた。正直なところ、この人に比べたらさっきの二人のやり取りはまだ可愛いものだと感じる威圧感がある。


「……ハイ」

「どうしてあなたが東白を名乗っているのですか?」

「それは、その……改名しろと言われたので、苗字を貰いました……」


 もはや尋問の様相を呈していた。できることならばさっさと自室にこもってふて寝したい。


「苗字を、貰う?」


 俺は俯いて、一心不乱にこの美味しいチャーハンを貪っていた。チャーハンは裏切らない。先の感動もののチャーハンは心なしか味がしなくなっているけど、きっと俺を幸せにしてくれるはずだ。


「おいやめんか、ビビっておるだろう」

「新人いびりは関心しないなユメ」

「どうして桜さんと同じ苗字かを聞いただけですよ」

「本当にそれだけなら圧かけて話すな」

「オイ、俺の料理の味がわからなくなったらどうすんだよ。大丈夫か? えーっと、ユウ」

「は、はい」


 泣き出しそうだ。喧嘩を勃発させそうだった二人は言動が荒いだけで、関わっていけない人物などではなく菩薩だった。降って湧いた助け船に乗り胸をなでおろすと、手元に残るチャーハンを喉にかきこんだ。

 ふと伊藤さんを見ると、俺とは違い何一つ火に触れていないのか黙々と麻婆豆腐を食べている。これが中途半端に人に関わろうとした罰か。


「伊藤芳乃、東白優、お前達のことは今後下の名前で呼ぶが問題はないな?」

「大丈夫です」

「……ッす」


 相澤さんは俺を救うだけに留まらず、さらに小さな話題を提供してくれた。顔合わせの席ならこういうのが基本のやり取りだろうに、今更過ぎる。最初からそういう話をしてくれたらこんな怖い思いをしなくてすんだのに。ともかく、彼女らの間で俺はユウ、伊藤さんはヨシノと呼ばれることに決まった。


 そこからは世間話みたいな、取り留めのない会話に入っていった。

 相槌をうったり会話に入ってみたりしていると、やがて全ての皿が空になり、食べ終えた人が食器を流しに置きに行った。俺もそれに倣い食器を流しにやり、再び座布団に腰を据える。

 最初はどうなることかと思ったけど、その後は特に険悪な雰囲気になることも和井田さんにに睨まれることもなく平和に終了した。


「ご馳走様! あー食った食った! やはり中華はいいのう」

「ごちそうさまです。では我々はお先に。行きましょう桜さん」

「おおそうじゃな、ではまた。おんしら色々教えてやっといてくれよ~」


 これまで俺には向けられることのなかった心底うれしそうな笑顔を大家に向ける和井田さん。先に大家を外へ出すと、玄関のドアを開けたままこちらに振り返る。そこに笑顔はなく真顔だった。大家へ向ける柔らかさを、少しでも分けて欲しい。


「先ほどはすいませんユウさん。二人とも、もしわからないことが桜……大家さんの前にまず私に相談してください。私は102号室にいます。では」

「は、はい」

「……ッす」


 和井田さんは簡潔に伝えると、猫撫で声で「桜さーん!」と叫びながら飛び出していった。


 いや、情緒がわからない。これは本当に頼ってもいいパターンなのか、それともDVでもよくある強く当たって優しく出るアレなのか。人付きあいが少なすぎて判断ができない。

 

「私もバイトだからもう行く。これからよろしく頼むよ、ユウ、ヨシノ」

「よろしくお願いします」

「ああそれと。お前らその恰好を見るに元男だろう? ブラジャーは買っておいた方がいい、ではな」

「あ、はい」

「……ッす」


 そして相澤さんも去っていく。


 ブラジャー。

 ブラジャーとは、女性の乳房を支えるために胸部を覆う下着、で正しいだろうか。

 ハッキリ言ってこれっぽっちも頭になかった。

 俺は服を買う予定は立てていたけど、服は服でも下着の一切が脳みそから抜けていた。女性の下着は男とは違い上下と二つあるから、単純計算で2倍の金額がかかる。しかも女性用の下着は高いイメージがあり、それをいくつか揃えるだけで相当な金が飛ぶことが予想できた。

 

 それにしても、俺がちゃんと女性の恰好をするイメージがわかない。頭では必要なものだと理解していて、それを着用して生活するのも明日からなのに、全然想像ができない。

 服の上からおもむろに右側を揉んだり、下からたぷたぷしてみても、ぐにょぐにょと変な感触がするだけ。これを支えるために今までつけたことのない未知の下着をつけろなんてアドバイスされても、もう何がなんだか。


「おい、こんなとこで盛ってんじゃねえよ」


 慌てて胸から手を放す。そう捉えられているとは思わず顔が熱くなった。


「……盛ってないです。それより清田さんは」 

「テツだ」

「テツさん……はこれからどうするんですか?」

「俺ははここに残って後片付けだ。お前らもしていけ、と言いたいところだがしばらくはまあいいだろう」

「なるほど、じゃあお言葉に甘えさせてもらいます」

「……ッす」

「おう。困ったことあったらなんでも俺に頼りにこい。俺はアキと203に住んでるからよ」

「そうさせてもらいます」


 あの二人、あの仲だったのに一緒に住んでいるのか。ルームシェアっていうのは相性が悪くても案外なんとかなるものなのかもしれない。かなりいい収穫だ。

 終わった後にいい情報が手に入ったというのに、食事中に判明したことは少ない。辛うじて理解したのは、相澤さん重鎮そうな人、テツさんは料理が上手な明るい人、和井田さんはアブなそうな人ということだけだった。


 ただ、なんだかんだ皆頼ってくれと言うあたり優しさを感じる。どうやら、歓迎されていないわけではなさそうだ。



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