5. 未知の自分 ③


4

 便器の前に立ち、勢いよくズボンとパンツをずり下ろした。体形が変わったことにより、どちらのゴムも少し緩くなっていて、あまり力を入れずともするりと抜けていった。胸の起伏に服がかぶさっているせいで幻視すらできないが、息子がご健在だったときのように立ってはできない。座って用を足すのだ。女性と関わりの薄い俺でも流石にそれくらいは知っていた。

 

 座ってするか立ってするかの違いだ。たかだか人間の排泄にそれほどの違いはないだろう。結局のところ尿道を通して尿を出し、大腸から便をひねり出すだけだ。


「っ!」


 便座に尻が付くと、冷たすぎて変な声が出そうになる。古い便器だ。便座もウォシュレットなどないシンプルなものだったから覚悟はしても、声を抑えるだけで精いっぱいだ。

 体温が便座に伝わるのを待ってから、下腹部に力を入れる。便秘などはないためどちらの方も終えるまでにはそう時間はかからなかった。男だった時との違いは、尿道が短くて踏ん張りの感覚が違っていたことと、妙な広がりをすることの2つだけだった。率直に言って、男だった時の方が楽だ。あの狙いを定められるモノはもうなく、ぶらぶらと揺れる感覚を二度と味わうことができないと思うと、少し寂しい。


 トイレタイムもこれで終わり。あとは夜中に風呂に入ってしまえば、これらに慣れるだけ。やっぱり女になっても案外問題はないな、早く拭いてトイレから出よう。


 俺は左手に備え付けてあるホルダーに手を持っていき何度も紙を取り出そうとするけど、その手はいつまでたっても紙を掴むどころかかすめることすらなかった。


 ああ、なんということか。ここは煉獄に違いない。いつまでも逃げてはいられないだろうと、数分前に意を決してここまで来たというのに、こんな気持ち以前のところに落とし穴があったとは。


「マジ? マジだ……マジかよ」


 ――トイレットペーパーがない。

 テツさんはなんでも頼りにこいと言っていた。だが本人もきっとこんなことで頼りにくるなんて夢にも思わないだろう。これはあまりにも情けなさすぎる。

 それでも頼みの綱はもうテツさんしかいない。


「伊藤さーん! すいませーん! テツさんからトイレットペーパーもらってきてくれませんか!?」






「見ろヨシノ! アホだ! アホがいるぞ!」


 水が勢いよく流れる音をバックに隣の洗面所で手を洗っていると、先ほどからずっと爆笑していたテツさんが俺を直に笑いにきていた。指をさし、ぶわっはっは大口を開けて笑いっているから唾が飛んでいる。


「……どうもです」


 ここまで気持ちよく笑われると素直にお礼を言えず、少しの反抗心が入り込む。

 いやいや確かにものすごく情けないけれど、用を足したらトイレットペーパーないなんて経験誰にだってある、と思う。そんなに笑うほどのことでもないんじゃないか。


「おいおい、持ってきてやったのにそりゃないんじゃねぇの? 俺がいなかったらまだまだトイレと抱き合ってたぜ!」

「う……ありがとうございます!」


 全身に熱を感じ、顔も合わせぬままやけっぱちのお礼を言う。その間もテツさんは笑ったままだ。居心地が悪すぎる。自分から呼んどいて早く帰れとは言えないし、俺はテツさんが飽きるのをただ待つしかなかった。


「がっはは! ンふふ。しかし一番最初に頼られるのがこれか~!」

「……お恥ずかしい限りです」


 本当に顔から火が噴きそうだ。この二人がいなければ俺はまだトイレだったけど、大笑いするテツさんも、その後ろでわずかに口元を上げている伊藤さんも、少し恨めしかった。


「あ~笑わしてもらったわ! んじゃ戻るわ! アソコは優しくふくんだぞ! あと風呂の時はちゃんとタオル持ってけよ! ヨシノも!」


 長い羞恥の時間は終わり、テツさんはでかい声で笑いながら廊下を歩いていった。






 リベンジ戦はトイレではなく風呂だった。もう昼間のトイレのようにはなるまいと、替えの下着と寝間着にバスタオル、さらに持参したあかすりとボディーソープにシャンプー、そのすべてを並べ入念に確認しながら伊藤さんが出てくるのをまっていた。万が一にもトイレときのような失態を犯したら、恥ずかしさで自決しかねない。


 ガチャガチャと風呂場の音がなるのを聞いて、刻一刻とその時が迫りくるのを感じていた。やがて音が消えると、ひたひたと唯一のフローリングを歩く音が聞こえ、次に畳、最後に俺の目の前のふすまが開く音が聞こえた。


 風呂上がりの伊藤さんは頭にフェイスタオルを巻きダボダボのTシャツとズボンを着ていた。伸びきったシャツが首元からわずかに見えていて、俺と同じく見た目へのこだわりのなさが反映されている。

 そうはいっても今は美少女。無防備に胸元が見え、火照った体とあらゆる部分に潤いを補充した姿は、色気があった。


「入ります」


 同居人だぞと自戒し、俺は煩悩を鎮める意を込めて再び荷物を確認し、風呂場へ向かった。


 築50過ぎの物件は、改築が入っているといっても十分に古かった。シャワーと風呂桶の蛇口にしたって、水とお湯の調節を手動でやるものだし、タイルだってカビてるところもあった。それでも致命的な痛みがないのはそもそも入居者がいなかったのか、それとも本当に綺麗に使われていたからか。どっちでもいいけど。


 温度を適温に調節しシャワーを頭からかぶると、長い髪はみるみるうちに濡れていき、それ以外のお湯は未知の軌跡を描いて肉体から地面に落ちていった。

 大家や和井田さんのように腰ほどまでの長さではないものの、俺の髪は背中の中腹まで伸びている。全身を濡らした後にシャワーを一度止めると、その長い髪が背中にべっとりと引っ付いて鬱陶しかった。


 俺は前々から使用している男性用のスカッとするシャンプーのボトルをワンプッシュし、それを頭頂部につけた。

 ……ここまで流れで洗い始めたが、一度止まって考えると、長い髪をどう洗えばいいのか全くわからない。とりあえずまず、前髪など短い部分をいつものようにわしゃわしゃと洗った。それから俺は、後ろ髪を持ち上げてたり前に持ってきたりしてよくわからないままに髪を延々といじっていると、その間にシャンプーのせいで頭がスース―してきた。痛くなる前に流したくなり、長い髪をひとまとめにして前髪と同じように洗った。


 お次は体だ。

 ボディーソープをあかすりで泡立てて、腕、胸部と丁寧に擦っていく。こちらはたとえ肉体に大きな変化があろうとも洗い方が変わるというわけでもなく、そのまま足、股、尻、背中とあかすりで汚れを落としていき、それから最後に洗顔した。

 自分の体とは思えないほどのスベスベな体は、いつまでも触って堪能できるような魔力を秘めており、洗い終わってから少しばかり撫でていた。無意識の内にしていた行為に、流石に危ない香りを感じてシャワーを切った。


 初日ということでわざわざお湯をためた湯舟に浸かると、お湯が暖かく俺を包み込んで癒してくれた。風呂は好きだ。体が温まる上に、疲れも取れる。体をずらして肩までつかれば、お湯の中で乳房が少し浮いて、いわゆる下乳の未知の感覚がくすぐったい。股の方も、アレがブラブラしておらずすっきりしているというのは何とも言い難い。全身がお湯に包まれると、体を洗ったときよりもそういったものが浮き彫りになった。

 少しだけ落ち着かなくなり、体を小さくするように体育座りをすると、胸が足に押し付けられて苦しくなる。これも未知の感覚だった。


 湯舟の栓を抜いてから風呂を出て、バスタオルで体を軽く拭いたら裸のまま洗面所の鏡を見る。何度見ても昨日までの俺の面影はどこにもない。髪はこんな色でもこんなに長くもなかったし、発達した乳房も、くびれもなかった。

 しかし体を動かせば、同じように動く。確かにこれが今の俺だった。これが仁見優改め、東白優だった。


 まぁでも、ニートは継続できるしこんなに綺麗になったんなら、かなり奇跡の一石二鳥だ

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