6. 買い出し ①

1

 リュックを空にすることばかりに気を取られていて、いつもの癖で財布を忘れてしまった。普段はなるべくお金を使わないために財布を持たず外出しているので、流れで出たのが運の尽き。面倒ながらも、俺は一度家に戻るハメになっていた。

 駅から徒歩で10分程度の道をひた走れば5分もせずに月見荘につく。階段を駆け上がり、最奥に進めば201号室だ。階段から最も遠い順にナンバリングされているのは悪意を感じる。

 部屋に入ってキャリーケースから財布を取り出し、リュックへ放り込んだ。念のため、チャックを閉じて開けてを2度程繰り返し、確かに財布が入っていることを確認する。これでまた忘れるなんてことがあれば、目も当てられない。

 さて後は引き返して伊藤さんと合流するだけだ。俺は振り返ってすぐにでも部屋を出ようとするが、伊藤さんの部屋にポツリと置いてあったあるモノに目を奪われる。

 黒縁メガネだ。逆さになって置かれている。そういえば、昨日も今日も、彼女はあの眼鏡をしていなかった。もしかすると性別身長体重のみならず、視力にも変化があったのかもしれない。俺の場合、視力だけは昔からよく眼鏡とは無縁の人生だったから、視界の変化には全く気が付かなかった。まるで蜘蛛戦士の序盤で、超人的な力を得て視力を回復してから眼鏡を家に置いたまま外出するシーンだ。


 おっといけない。伊藤さんを待たせたままだった。

 俺は頭を振り余計なことを忘れると、サイズの合わなくなった靴で駅まで走った。






「すみません!」

「……ッす」

 

 改札前で合流したら、謝罪をしてすぐに券売機へ足を運んだ。券売機の上には路線図があり、駅名の欄にこの駅からの運賃が記載されている。


「伊藤さん、どこまで行くんでしたっけ?」

「……ふじみ野」

「了解です」


 財布をリュックから取り出して、路線図からふじみ野を探す。わざわざふじみ野を指定したということはそう遠くないはず。渋宮駅と繋がっている線を辿っていけば、予想通りふじみ野は見つかった。

 値段は片道530円。「えっ」と、目玉が飛び出そうになるのを抑えて財布をいじった。往復で1060円は、今の俺にとってあまりにも高額だ。寒い懐が氷河期に突入するのも時間の問題かと千円札と30円を投入し、しぶしぶ切符を購入した。


 改札を通って待てば、幸いにも電車はすぐに来た。今日もまだ暑いのに、車内のエアコンはあまり効いていなかった。


「そういえば伊藤さんはブラの知識とかってあるんですか?」

「……」


 即座に首を横に振られる。脳内で反芻される、昨日の相澤さんのアドバイスを思い出して伊藤さんに聞いてみたところ、やはり知らないとの返答。もちろん同じ境遇の相手にこれっぽっちも期待などしていないから、落胆はない。

 しかし俺と伊藤さんの違いはここで、諦めずに行動できることだ。彼女はすぐさまポケットからスマホを取り出すと、俺がのぞき込むのも憚らずブラジャーについて調べ始める。この手のひら台の小さな機器とsimカードがあれば世界と繋がれるのだから、なかなかに便利だ。俺は数か月前に回線を解約してスマホも売り払ったことを思い出して、ミスったなと顔を顰めた。

 やたらと素早いフリック入力から繰り出される検索をしばらく眺めていると、どうやら最終的な結論ページに辿りついたようで、覗いているのに丁寧にスマホを渡された。開いているリンクは質問サイトで、下着について悩む女子学生の質問が投稿なされていた。じっくりと読んでいこうとすると、伊藤さんが画面をスクロールし、いきなりアンサー部分まで飛ぶ。ベストアンサーに選ばれていたアンサーでは、女性向け下着専門店の店員と思しき人が懇切丁寧に回答していて、最終的に店頭でなんでも聞いてくださいと締めくくられていた。

 これが意味することとはつまり。


「えと、つまり店員に聞くってことですか……?」

「……ッす」


 知らないことは店員に聞く、という身も蓋もない結論だった。ブラジャーについての知識は、1ミリたりとも得られていない。

 とりあえずスマホを返してお礼を言う。伊藤さんは少し頷いた後、鼻筋に指をあてがった。

 何やら見覚えのある仕草だ。あるものがないような。俺が息子を確認した時の様子に、雰囲気は似ている。目元と言えば……そうだこれは眼鏡の位置を戻すときの仕草だ。あの黒ぶちメガネを付けていたときの癖が、咄嗟に出たに違いない。


「そういえば伊藤さん、眼鏡どうしたんですか?」

「……」

「視力良くなったんですか?」

「……ッす」


 眼鏡はいい方向に必要なくなったようだ。しかし落ち着かないのか、言われると輪をかけて目元と耳元を気にしだした。ちょっと余計なことを聞いたのかも。

 俺は逃げるように車窓の向こう側を見て、住宅ばかりの景色を楽しもうと努力した。

 


2

 りりぽーとふじみ野内は平日だというの混んでいて、それだけでげんなりしていた。人混みが苦手な俺は、店内に入ってから一目散にユニイロに向かっていき、即座にそのテナントに足を踏み入れた。


 ユニイロ。服に疎い俺でも聞き覚えのあるアパレルチェーンで、高品質な上に安価だという話も聞き及んでいる。噂通り、店内で押し出されている服は、2千円前後か、高くても6千円程度の値段でそれなりに安い、と思う。多分。一般的には。所持金的には高級呉服店と変わらないけれど。

 俺は洋服には疎かった。ズボンの種類はジーパンしか知らないし、シャツはYシャツとTシャツがあるという漠然とした知識しかない。そのため実は伊藤さんの向こうにあるインターネットの力を借りようとしてたのに、彼女は入って早々店員を捕まえて消えてしまった。全然喋らずでいるから意思が弱いのかと思ったら意外にもそうではなかった。


 店員っていつも何かしらの業務をしているから話かけ辛いんだよな。とはいえ自力で調べる方法もないのでいかんせん声をかけなければ始まらない。まずは何かしらの口実を見つけよう。

 俺は臭いをどうにかするために新しい服を買いに来ている。揃えるのは全身一式を3セット程で、対象はパンツ、ブラジャー、シャツ、Tシャツ、ズボン、靴下だ。問題はここでどのサイズを選べばいいのか分からないことだ。服やブラジャーのサイズを知るためにはまず自分のサイズを知る必要があるが、俺はここも分からない。ならスリーサイズを測ってもらうことがミッション達成への最重要事項か。


 まず店員にスリーサイズを測ってもらい、その流れで服のサイズを聞き出して、それを元になるべく安い商品を買って帰る。完璧な流れだ。これで行こう。


 俺はさっそく緊張で鈍る足を動かして、視界に入った店員のもとへ向かった。


「あの~すみません。スリーサイズの採寸ってしてもらえませんか?」

「かしこまりました」


 実に慣れた受け答えだ。店員は俺の男装に眉を動かすこともせず、すぐさま服を整える手を止めて、メジャーを取り出した。リュックを下ろして腕をあげるなど、指示されるがままに動けば、あっという間に採寸は終了した。

 スリーサイズが書かれた紙を渡され、それを確認する。バスト87、ウエスト60、ヒップ88。正直なところ何を思えばいいのかも分からない数字だ。けれどこれで準備が整い、後は洋服を買うだけになった。お次はどんなサイズを買えばいいのかを聞くだけだ。


「あのすみません。これどういうサイズを買えばいいんですか?」

「そうですね。トップスですとMサイズが丁度だと思います。ボトムスはいろいろありますので、まずは腰回りのサイズに合うものを選んで是非ご試着されるのをお勧めします。」


 トップスにボトムスと、知らない単語が出現した。さも当然の知識のように使われても意味が通らない。


「すみません、その。トップスとかボトムスって何ですか?」

「トップスは上半身、ボトムスは下半身の服のことですね」

「なるほど、ありがとうございます」


 無知さに呆れられると思ったが、そんなことはなく店員は優しく教えてくれた。さて、これで上下の服の選び方の謎も氷塊したことだし、お次はブラジャーへと話題を移していきたい。恥ずかしさで顔が熱くなり言葉が詰まろうとも、俺にとっての今日の本題はこれだから逃げようにも逃げられない。


「……そ、それで、ブラジャーとかって、どう選べばいいんですか?」

「ブラジャー、ですか? スリーサイズだけで選ぶのは難しいですね」

「えっ、どういうことですか?」


 流暢に対応していた店員も呆気にとられていた。またしても無知が炸裂したのが濃厚だ。


「カップ数とアンダーバストのサイズがいるんですよ。お客様は自身のサイズをご存知ですか?」

「いえ、知らないです」

「よろしければ採寸いたしましょうか?」

「あ、お願いします」

「ではこちらへ」


 店員についていけば、フィッティングルームへたどり着いた。ここで採寸するのは店側の配慮なのだろう。

 俺はさっきの採寸の経験を生かして、先んじて服を脱ぎ上半身裸になった。アンダーバストということは、おっぱいの下のサイズだろう。これで問題ないはずだ。フィッティングルームにいると言っても人に裸を見せるのはなかなかに恥ずかしいもので、全身が熱くなり胸を隠したくなる。いや、むしろもっと見せつけていくんだ。羞恥心などおくびにも出さず、俺の体にやましいところなど1つもないと胸を張れ。


「お、お客様!? シャツのままで結構ですよ!」

「えっ?! そうなんですか?」

「はい!」


 ぎょっとした表情の店員に、フィッティングルームのカーテンが物凄い速さで閉められた。俺は誰も見ていないのに反らした胸を隠して、それからシャツを着た。今度こそ羞恥にやられ、頭が沸騰しそうになる。考えていたことと全部違うじゃないか。

 そろりそろりとカーテンを開いてシャツを着たと伝えれば、ギクシャクしながらも採寸が始まる。店員もプロなので採寸と説明は素早く丁寧だった。乳房の下で一回りしたのがアンダーバストで、トップとアンダーの差でカップ数が決定されるとのことで、結果はアンダーが73のカップがC75だった。Cの後ろの数値はアンダーのサイズを表しているとのことで、初耳だった。


「当店の商品ですと、MかLに当たりますね。繊細な部分で個人差がありますので、試着なさった方がよろしいかと」

「丁寧にありがとうございます。試着する場合って、声かければいいんですか?」

「試着室の前に店員がおりますので、一言お声かけくださると助かります」

「わかりました」


 頭を下げてTシャツを着なおす。何度もお礼をしてフィッティングルームから出ると、店員の言う通りのサイズの服を求めて店内を練り歩いた。買い物籠にはセールで1000円の長袖Tシャツに、知っているからとジーパンが入っていた。あとは肌着類を入れて、試着すればいい。

 肌着類を陳列しているコーナーに赴いたら、悪事を働いている気分になった。今の俺は女の体で何も問題がないはずなのに、自意識がまだまだ男であるためか、恥ずかしさもある。さっさと切り上げて外で待つのがメンタル的にいいだろう。

 意を決してコーナー全体を見渡したら、その思いもすぐに吹き飛んだ。存外にサイズも種類も多くく、何を買えばいいのか分らなくなったからだ。俺のよく知る肩掛けで胸部のみを覆う形のブラジャーの隣には、タンクトップのようなものが並んでおり、よく見れば似たような商品名が付けられている。悩ましいことに俺の知るタイプは2000円なのに対して、タンクトップ型のは1000円と、値段と肌面積と反比例していた。お金に余裕はないけど、冒険もしたくないから非常に悩ましいところだ。

 

 俺はいくつか手に取って葛藤した末に、結局値段を選びカップ付きキャミソールというVネックのシャツに胸を支える機能が加わった下着を籠に入れ、ブラジャーの件をおしまいにした。シャツ分が浮くのは魅力的すぎる。最後にショーツと靴下を取ったら、試着室へ向かった。


 試着室の前の店員に声をかけて試着する商品をチェックしたら、再びフィッティングルームへ入った。試着が可能だったのは長袖Tシャツとキャミソールとジーパンだけ。俺としてもそれでよかったので特に問題はなかった。

 まずは上裸になり、キャミソールを身に着ける。ピッタリと肌にフィットする構造の下着なのに思いの外伸びて着用しやすい。カップの上にぴったり収まるように乳房の位置を調整すれば、しっかりと支えになり胸の重さによる苦しさがなくなった。風呂のように暖かく包んでくれる感覚は、かなり着心地ががいい。


「おっ、おっ」


 しかも、安定感が凄い。体を捻ってもわずかにジャンプしてもちょっとのそっとでは痛くない。

 鏡を見れば、かなり女の子らしい子が映っている。青色のキャミソールは見た目も悪くなく、なかなかにお買い得だった。


「馬子にも衣装、だな」


 俺はキャミソールは絶対にこれを3セット購入することに決めて、Tシャツとジーパンの試着に移った。






 試着が終わり、お目当ての商品を3つずつ籠に入れたらレジへ向かった。レジには何人か並んでいて、待ちだ。暇なので店内の眺めていると、伊藤さんが目に入った。片手を顎にあて、もう片方の手で何かを掴んでいる。

 サイズでも確認しているのだろうか。と見ていたら、それを目の高さまで持っていった。

 

 あれ、スカートじゃん……。

 まだ2日目なのに、伊藤さんはだいぶ吹っ切れているみたいだ。こうなると、実は臭いが原因で服の購入を提案してきたのではなく、ただ単にスカートを履いてみたかっただけの可能性もある。

 いや、この話はよそう。誰も徳をしない。

 レジの店員に呼ばれて、俺は会計へ進んだ。




 

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