2. TS同居生活の始まり ②

4

「んお……」


 目が覚めた。

 いつもはカーテンを閉め切った真っ暗な部屋で目を覚ましていたから、明朝特有の青白い光は新鮮だった。自然を感じて目を覚ます、なんて気持ちのいい目覚めか。

 

 疲れも残っているし畳にそのまま寝たからか、とにかく凝りが酷くて上半身を起こして腰を捻れば、ボキボキとかなりの音が鳴った。なかなか体のだるさが取れないので、続けて背筋を伸ばすとだんだんと目が冴えてきた。


 しかし起きてから体を伸ばしただけなのに、どうも違和感がある。頭も重いし胸も重たい。これはもう単に部屋が変わっいるから、だけで済ますには大きすぎた。

 足りない頭で考えながら、肩にかかる邪魔な長い髪を後ろに流せば、やはり何かあると確信する。頭を振り、部屋を見渡すと髪が目に入った。部屋の方は、俺の荷物があるだけで、おかしな点は何もない。


 いや待て……長い、髪?

 後頭部にある髪を一束つかみ、前へ持ってきて観察する。黒い髪に、先端だけが白く染まっている。手につかんだ分量だと、まるで筆にように見えた。一体この髪は何かと、手に取ったまま毛先から根本へと指をすべらせていくと、どういうわけか自分の頭皮へぶち当たる。俺の髪は短髪だったはずなので、そんなはずはないと何度も何度も確認する。しかしいくら元を辿っても、この長い髪は俺の頭皮から生えており、カツラやつけ毛でもなく正真正銘自分の髪だという確信が強まるばかりだった。


 目を閉じて、思いきり眉間に皺を寄せる。ちょっと状況が理解できない。

 俺の髪は短く切りそろえられていたはずで、こんなに長くはない。一晩でこんなにも髪が伸びることなんてあるのか? 寝てる間に新規植毛技術の実験台にでもされたのか? どうなっているのか鏡で確認したい。洗面台に鏡はあるだろうか。

 立ち上がる時、また違和感。それも今回は髪の時よりも強烈なものだ。立ち上がるために足を体に近づければ、股間にあるはずのつっかえが無く、前傾になり腰を浮かせれば胸に何か動くものがあり、直立すればバランスがとりにくい。

 信じられないようなバカでも、ただ直立するだけでこれだけの未知の感覚を浴びれば、もうこれは体全体に変化が起こっていると考えるだろう。 


 血流が全身を巡り、鼓動がいつもより早くなった。

 そんなことはあり得ないと、自分に言い聞かせながら急いでシャツを脱ぎ捨てる。たった2枚のシャツを脱ぐだけなのに、知らない脂肪のせいでいつもより手間取った。


 上裸になり視線を下げると、形のよい饅頭または見事な山が二つ、体の正中線を中央にし胸に存在していた。

 ……訳が分からない。とりあえずソレを下から包み込むようにして持ち上げると、重力から解放されて上半身が少しだけ楽になる。そのまま手で潰したり揉んでみたりしてみても、胸の上に張り付いていてぐにょぐにょと動くだけで、気持ちがいいのか心地がいいのかわからない。でも、すべすべで揉み心地は確かなものだった。そんな今までに体験したことのない感触を堪能した後に手を離せば、ソレは重力に従って落ち、上半身が重くなった。


 未だに理解が及ばず行動も緩慢だったが、それでもここまで来れば凡その察しはついていた。


 俺はシャツ同様にズボンを脱ぎ、パンツも脱いだ。本来の用途で使われなかったものの、そこにはあるはずなのだ。あってしかるべきなのだ。28年間苦楽を共にしてきた、言わば息子と呼ぶべき存在。しかし期待も虚しく、見下ろせば小さな丘の向こうは更地だった。


 なんだこれは。

 下腹部に手をあて、ゆっくりと下げていく。消えた毛とあったはずのアレの部分を突っ切っても、やはり見たまんまのものがあるだけだ。俺はただ茫然と、幻視する息子を掴もうと腕をスカスカさせていた。


 しかし突然全身に電流が走り脳が覚醒する。

 

「……ハッ!?!?!? なんだこれ!!!??!?」

 

 急に体温が上がり、冷や汗がどっと湧きだしてくる。熱いのに寒い、そんな風邪のように体の芯から冷えるような冷たい熱が俺を支配した。

 あまりにも信じられなくて体をまさぐるが、どこを触りどう動こうとも、考えられる結論はたった一つだけだった。


「俺、女になってる……」


 一段と高い声が喉から繰り出される。

 いつか見た映画のセリフをつぶやくハメになるとは夢にも思わなかった。






 服を着なおしてボケっと横になる。


 冷静に考えれば、働く気など微塵もないし家から出る予定だってないのだから、性別が変わったくらいは些細な問題だ。俺にとっての真の問題は生きてニートが継続できるかだ。従って今考えるべきは大家と伊藤さんに、この状況をどう釈明するかに尽きる。全く信じられずに放り出されたら、強制的な死が待っている。しかし、「起きたら性別が変わってました」など誰が信じる。俺だって、次の日あってそんなこと告げられても、簡単には信じないし美人局を疑う。


 とりあえず寝起きやら汗やらで変に汚れた顔を洗うため洗面所へと向かった。最近新調されたのか、鏡もライトもある洗面台が洗面所にはあった。

 鏡には、自分を覗き込む俺の姿が映っていた。通った鼻筋に、柔らかそうなほっぺと唇。眉毛は綺麗に整えられて、その下の黒い目は絶妙な大きさでバランス良く並んでいる。見たこともない顔だ。顔のパーツ1つとっても、昨日までの面影はどこにもない。


「可愛いな……」


 そして、見事なまでの美少女だった。


「顔、洗うか……」


 レバーを上げると、蛇口から水がぼとぼとと落ちて排水口に流れていく。途中で水を掬い取り、それで顔を洗うと、タオルがなかったので適当にシャツで拭った。まだ信じられないものの、服に当たる乳房が否が応でも、これが事実なのだと俺に伝えているようだった。


 その時、突然玄関の鍵が回る音がして振り向く。洗面所のドアは閉めていなかったため、不幸にも乗り込んできた大家と鉢合わせてしまった。

 まず。言い訳の材料はまだ1つも用意ができていない。


「あ、あの、大家さんこれは」

「おお仁見起きとったか。とりあえず飯にするぞ。伊藤はおるか?」

「エ? えと、わかんない、です」

「そうか。おーい伊藤ーー! 起きろー! 飯じゃーー!」


 釈明も出来ぬまま、ひたすらの大家のターンが続き、バァンとふすまが力任せに開かれる音がした。洗面所から出てみれば、伊藤さんが眠っていたはずの部屋に立っていたのは、見たことのない可愛らしい黄金のような女だった。


「起きたか! 飯に行くぞ! ついてこい!」

 

 気が付けば大家は扉を閉めてもう外に出ていた。

 嵐のような出来事に、俺たちは微動だにせず見つめあうことしかできない。大家の言葉通り、まさか本当にこの女が伊藤さんなのか。俺と同じように目が覚めたら女になっていたとでも言うのか。


「あの、伊藤さん……ですか?」

「……ッす」


 脳みそがマヒしそうな中、立ち尽くす俺たちができたやり取りはこれだけだった。



4

 最後の晩餐と感違うほどの悲壮感で朝食を終えれば、俺と伊藤さんは大家と腰の低い長テーブルを挟んで向かい合っていた。緊張どころの騒ぎではない。今にも心臓が爆発しそうだ。


「さて朝食も済んだし説明といきたいが……にしてもおんしら随分と可愛らしくなりおったのう!」


 んはは! と豪快に大家が笑い、何も面白ことなどありはしないのに釣られて乾いた笑いが俺から漏れた。

 どうやら大家はすべてを把握しているみたいだ。機嫌を損ねると話してもらえないかもと感じつつも、事態に対しての言動の軽さにどうにも殴ってやりたい気持ちでいっぱいになった。


「……どうも」

「……」

「ン゛ン゛! それはさておき、おんしらがそういう姿になったのは、ワシのせいじゃ。では次に月見荘でのルールの説明に――」

「ちょっ、ちょっと待ってください!」

「なんじゃ藪から棒に」


 藪から棒というほど予想できないものではないだろう。むしろ何故これで済ませられると思ったのか。性別を変えるという超常現象を「ワシのせい」の一言で流されるのは流石にたまったものじゃない。どうやって性別を変えさせたのか、どうしてそうしたのか、俺は納得がしたかった。


「大家さんのせい、っていうのはどういうことですか?」

「ああそうか。おんしらにはまだ見せてなかったな」


 そう言うと早く、大家の体に変化が起きる。頭部には動物の耳が隆起し、背中には尻尾が揺らめいている。特徴的だった紅い瞳の瞳孔は、縦に割れていた。


「な、なんですかそれは!?」

「見ての通りじゃ。ワシは狐の妖。妖狐というやつじゃな。まぁ妖と言っても取って食おうというわけではない。それで端的に言えば、ワシの力でそうなったというワケじゃな。正確にはちと違うが。」

「……すいません、何も理解できないのですが……」


 眩暈がする。新要素ばかりで頭がどうにかなりそうだ。妖や妖の力など、一体いつこの世に実装されたんだ。ずっと前からそんなものがあるなら、もっと早くに教えて欲しかった。


「と言われても、それ以上ないんじゃよ」

「……じゃあ、どうして僕たちをこんな姿に?」

「ああそれか。それはちょっとした副作用でな」

「副作用!? どういうことですか!?」

「ええいうるさい! 少し伊藤を見習って理解したり納得したりせんか!」

「はあ!?」


 これを聞いていきなり納得するなど、そんな馬鹿な話があってたまるか。慌てて伊藤さんを見ると、無表情で静かに頭を上下させている。一見すると確かに納得しているようにも見えるが、俺の目には思考を放棄して無意味にうなずいているだけに見えた。

 許容量を超える情報に、俺たちはなんとか耐えているだけに過ぎない。


「……ッす」

「……もう一度聞きますけど、副作用ってどういうことですか?」

「言葉の通りじゃ。なんの副作用かは今は言えん」

「そうですか……」


 なんとか質問するも、知りたい情報は得られなかった。妖の力の副作用で俺の性別が変わった? 脳内で組み立てられた文章は、自分でも飲み込めていない言葉ばかりで、筋が通っているのかも判断できない。 

 今は言えないということは、いつか話してくれるのだろうか。


「まぁその、ワシは好きだけども、その姿が嫌じゃったんなら謝るよ。すまん」

「いえ、それはいいんです。どうせ関係ないし」

「えぇ……? いいのか……?」

「はい」


 俺が渋い顔をやめると、今度は大家が渋い顔をする。そういえば最初は自分のせいだと言っていた。もしかすると、こうなったことに負い目でもあるのかもしれない。


 なんとも微妙な雰囲気になった場を、大家は咳払いで切り替えると、この月見荘でのルールを説明しだした。

 飯の時間には101号室に集まること、ゴミの分別はキチンとすること、庭の使い方、部屋に大がかりなものを取り付けたい場合、困ったときの連絡先など様々なことを結構大雑把に説明され、最後には「分からないことがあればワシを頼れ!」と胸を張っていた。


「以上! 何か質問はあるか?」

「あります」


 大雑把ではあるものの、砕けた説明は大変わかりやすく、覚える項目が少ないのも非常によかった。しかし賃貸で最も重要な部分の説明が抜け落ちていて、これまでの話に一切出てきていない。

 それは金銭に関することである。家賃やライフラインの支払いはいつどのようにして行えばいいか、それが知りたかった。いずれ払えなくなろうとも、金が尽きるまでは払わないといけない。

 

「家賃とか水道代とかっていつ渡せばいいんですか?」

「ああ家賃か、好きな時にもってこい。水道ガス電気もな。そもそも期待はしとらん」

「は?」

「……!?」


 時が止まったかのような硬直。一瞬大家が何を言っているの理解できず、今朝体をまさぐっていたときを思い出す。そして同じように電流が全身を駆け巡った。

 家賃にライフラインはいつ払ってもいいと。これには伊藤さんも驚いたようで、隣から息をのむ音が聞こえる。それを知覚する間にも俺の脳みそが、一つの結論に向かって理論を組み立てていった。


「……それって、払わなくてもいいってことですか?」

「そうは言うとらんじゃろう」

「あと、食費はいつ誰に払えばいいんですか?」

「あー食費もまぁワシが出しておるから心配せんでいい。そんなに多くはないがな」


 家、家賃、水道、ガス、電気、食事。全てのピースが揃い、それらが線で繋がる。


「ありがとうございます! 助かります! なるべくお金を入れられるように頑張ります!」

「まるで気持ちが入っとらんように感じるのう……」


 勿論入れるお金なんてどこにもない。だからこそ、清々しいまで晴れやかな気持ちになれた。この事実に比べると、性別が変わったとかそういうのは、あまりにもどうでもいいことだ。


「あとは、お互い尊重するようにの」

「わかりました! これからよろしくお願いします!」

「……す」

「よろしく頼むの」


 人生どう転ぶかわからない。掴んだのは藁ではなく蜘蛛の糸。本当に、思わぬ幸運。どうやら俺を救う神ならぬ救う妖はこの世にいたようだ。

 全てを諦め、死んでも仕方のない覚悟でここまで来たけど、殺される様子もなく生活を継続できる。しかもこれからの生活の中で、衣食住の食と住が約束されたということはつまりそういうこと。


 ――俺はまだニートを継続できる!

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