11. 労働はホラーのよう ④

5

 夜中、風の音と寒気にやられて何度か起きた。

 低気圧にやられても美味しい朝食をとっていると、大家がテレビをつけてお天気ニュースを流し始めた。


「台風か。面倒じゃな」

「そうですね。風が強くなるんで車も出しにくくなりますね」

「ああ~~、じゃあ食料結構減ってるから今日買いに行こうぜユメちゃん」

「……仕方ないですね」


 どうやら台風が接近中だそうな。台風の勢いはだいたい東京に来るころには弱まっているので、同じように埼玉もそうなのだろう。皆面倒な天気だとしか見ていなかった。

 とはいえ風は強くなるしそこそこ雨も降るので、本当は家に引きこもっていたいところだが、伊藤さんのことを考えると胃が痛くなる。酷い勧誘でノイローゼになる気分が今ようやくわかってきた。


「……あれ? そういえば今日は相澤さんいませんね」

「ああ。あいつは今日代打で仕事入ってるから、とっくに出てったぞ」

「そうなんですね」


 朝食に欠員がでてるのは今日が初めてだった。昼食や夕食はその日の用事によって、誰かが欠けていることも珍しくはない。


「雨とか大丈夫なんですかね」

「……ダメかもな」

「え?」

「あいつは考えなしで動いてるからな」


 何かと面倒見がよく視野の広い相澤さんのことだから傘くらい持っているだろうと気楽に聞いたら、真逆の答えが返ってきた。まあ誰だって忘れることくらいある。きっと朝が早かったから急いでいたとかそういう理由なのだろう。失礼ながら俺のイメージ的には、テツさんの方がよっぽど考え無しで動いていそうだった。


「あそうだ。せっかくだし傘持ってってくれよ。暇だろ? 俺は買い出しあるからな」

「は、はい……わかりました……」


 藪をつついたら蛇が出てきた。まさか頼まれごとを請け負うことになるとは。

 しかし、意外とこれは助け船だったのかもしれない。

 俺はわずかに顔を横にして、伊藤さんを見る。味噌汁をかきこむ姿からは想像できないほどの狂気を持って接してくるこの悪魔から逃れられるなら、傘を持っていくくらいの手伝いは、むしろ儲けかもしれない。とにかく早めに離れたかった。


「それで、相澤さんはどこでバイトしてるんですか?」

「あいつは駅前のコンビニだ。後で傘持って部屋行くよ」






 持ちやすい柄に多い骨。相澤さんの髪と同じ臙脂色の傘は、なんとも高級そうな和傘だった。確かに様々な服を所持し頼れる兄貴肌な相澤さんのイメージにはピッタリだ。

 テツさんはこれを気軽に渡すものだから、てっきり派手なビニール傘だと思ったのに、こんなのが急にでてくるのだから驚いた。傷つかないように運ばなければ。

 傘の先端を地面につけずに歩く。駅前のコンビニは俺の散歩対象外な上、スマホを持っていないので、途中で警察にコンビニの場所を聞いたり看板を見たりながら進んで、ようやく目的地へとたどりついた。


 傘を渡したら何か買って帰ろう。

 ポケットをまさぐれば、キャリーケースの底に封印したはずの財布から抜き取った5百円玉が一枚見つかる。今日は味の濃いものやお菓子でも食べて、伊藤さんからのストレスを少しでも緩和したいところだ。


 ガラス張りの自動ドアを通り抜けていけば、「いらっしゃいませ!」と覇気のある女性の挨拶が繰り出される。いつも聞く適当な挨拶でなかったことに、心臓をつつかれたように鼓動が少し早くなり、当初の予定を変更して、レジに行くときに同時に傘を渡そうと決めた。

 レジとは正反対の飲み物のコーナーにたどり着いたら、久々に炭酸が飲みたくなり適当に安い炭酸を手に取る。もう5か月は飲んでいないから、盛大に楽しみたい。あとは一緒にポテトチップスなんかもつまんだら有頂天になれる。俺はこれまた安いうすしお味のポテチを手に取って、レジへ向かった。

 台に商品を置けば、店員はバーコードを読み取り始める。何を買おうとも出すものは5百円が一枚だけの俺は、取り出すとすぐにトレーに置いた。


 やることもなくなって、なんとなく店員を見る。活力にビビって顔を背けていても、どのみちこの人に傘を渡してもらうように頼むことになるから、顔を合わせるのが数秒遅いか早いかだけの話だ。


 ちょうど作業が終わり袋詰めをする店員の顔を見れば、なんと相澤さんだった。


「こちらお会計が216円になります」

「あ、ハ、ハイ。こちらからお願いします」

「かしこまりました」


 いつは落ち着いた声色の相澤さんが、仕事用の一段と高い声で対応する。それだけで慄くに値した。

 呆然としている俺の目の前で、相澤さんは素早くレジ打ちをしておつりを返す。それをポケットにしまい込んだら、俺は今日の本題を思い出した。


「あの――」

「初めてだな。お前がくるなんて」

「あ、いえ……。相澤さんも対応してるときは声変わりますね」

「当たり前だろう。接客だからな、愛想はいいに越したことはない」

「そう、ですか」


 傘を渡しに来たという前に、いつもと同じ声で相澤さんはしゃべりかけてきた。

 一般的に、そういった仕事用の顔を持っているのは普通のことだ。俺だって大家に対して等は言葉遣いを変えている。でもやっぱり、俺にとっては取り繕えるのは一人称を変えるくらいで、彼女のように愛想よくというのが非常に苦手だ。だからこういう人の変わりようには面食らってしまう。


「あの、相澤さん」

「なんだ」

「傘、頼まれて」

「ああ、テツからか? 悪いな」


 俺がレジ越しに傘を渡そうとすると、「ちょっと待て」と店員の移動用の扉からでてきて、そこで引き取ってもらった。

 丁寧な人だ。テツさんが言うように考え無しとは考えにくい。やはり何か事情があるのではと、俺は思い切って本人に聞いてみることにした。


「そういえば、朝も結構天気悪かったですけど、どうして傘忘れたんですか?」

「別になくとも困らないからな、気まぐれだ」

「困らない? どういうことですか?」

「帰るだけなら別に構わない、ということだ」

「あーそういうことですか。そんなに時間かからないですもんね」


 これはどうなんだ? 適当に返事をして流した。これを聞くとテツさんの言うことも一理ある気がしてきた。


「それに、私は濡れても可愛いだろう?」

「……そう、かもしれないですね……」


 なかなかに強火な足しが入って言葉が濁る。自分を客観的に見ている言葉ではなく、熱の入ったどう考えてもナルシストのそれだった。濡れても困らないとか困るとかの話ではなく、これが本音か。


「そうかもじゃなくて、そうなんだ。分かったな?」

「はい……」


 睨みを利かせ、ドスの強い言葉で理解を求められる。俺よりも少し小さい体に、いったいどこにそんな力があるのか不思議だった。

 なるべく早くに話を切り上げたくなった俺は、用も済んだし、さっさと退店することにした。






 風呂に入りながら考える。女になってから始めは違和感がばかりだった体も、今ではすっかり馴染んでいた。髪の洗い方も体の洗い方も、相澤さんに教わった。湯舟に髪が浮いたままだが。

 今日は伊藤さんによる労働への誘いがなかったのが、何よりも不気味だった。相澤さんへ傘を渡すのも午前中の用事で、午後は雨が降り始めたからずっと部屋にいたのにだ。しかもふすまは一切開いていない。それがよりいっそう恐怖を引き立てていた。

 諦めたのだろうか、それともまだ大きな餌を持って釣るつもりだろうか。パソコン以上のものというと、例えば……いや、出てこない。いまだにパソコン以上に価値のあるものは所持したことがない。


 自分の貧困な想像力に呆れて、口付近まで湯に浸かればお湯が溢れる。


 だがまだ寝るまで時間があるから油断はできない。この3日間手を品を変え誘ってきたことを考えれば、今日何もしないとは到底考えにくかった。

 まあ伊藤さんも寝てるときは話かけてこないので、風呂を出たらさっさと電気を消して寝るのが正解なのかもしれない。そうしよう。


 寒くなってきたので素早くいつものキャミソールとショーツ、白い長袖Tシャツに着替えて自室へと戻る。ジーパンは窮屈なので寝るときは履かなかった。

 俺が部屋へ戻ると代わりに伊藤さんが風呂場へと行き、その間に電気を消して横になった。雨音と風が窓を殴り、ガタガタと嫌な音だけが響いた。台風のおかげで曇っており、月明かりがないからいつもよりも暗いはずなのに、この音では寝れるかわかったものじゃない。


 そんな中、足音が聞こえてきた。キッチンのフローリングの床は、湿っていれば素足だとよく足音がペタペタと鳴るためこの嵐の中でも響いた。伊藤さんが忘れ物でもして、部屋に戻っているのだろう。俺はこのくらいでも気を張ってしまう生活に溜息を一つ吐く。彼女が一人で働きに行けば、今日の平穏も続いて、この聞き耳を立てる生活も終わるというのに。


 

 しかしいくら待てども、伊藤さんが自室に入る様子も、風呂場に戻る様子もなかった。おかしい。キッチンで水でも飲んでいるのか。いや、水道の音はしない。もしや洗面所で策を思いついて、俺の部屋の前で機をうかがっているのだろうか。

 1分に2分と時間は積み重なっていくのに何も自体が動かないから、不安ばかりが募っていく。これならいっそのこと早く入って来てほしかった。


「ユウさん」

「は、はい!!」


 突然呼びかけられて、反射的に答えてしまう。わずかでも状況が動いたことに安堵するも、これで伊藤さんに起きていることがばれて、寝たふり作戦もできなくなってしまった。


「入りますね」

「……どうぞ」


 寝ていないことがバレている以上断れる理由もないので、仕方なく許可する。スゥと、ふすまが開いて、伊藤さんがこの聖域に一歩踏み込む音がした。

 俺は仰向けで、目を瞑ったまま。作戦がダメになったからといって終わりではない。これから寝るということはアピールしなければならない。


「……考えたんです。どうすれば一緒に行ってくれるか」

「そんなの一人ですればいいじゃないですか」


 ゆっくりと、一歩ずつ近づいてくる。フローリングと畳では音が違った。

 明らかに今までとは一線を画す語りだ。気合が入っているのか、昨日までとは何かが違っていた。


「……差し上げられるものも、もうないですし」

「昨日も言いましたけど、俺はモノではつられませんよ」


 また一歩進んでくる。ゆっくりとした動作が不安を掻き立て、呼吸が深くなる。


「……でも、こんな状況になって一つできたんです」

「……?」


 会話が成立していないし、何を言っているのかも測りかねる。こんな状況になって生まれた人にあげられるもの、に心当たりは一切ない。歩き方からして、よほど大きなものだろうか。何はともあれ、モノで釣ろうとしていることは確実だった。


「……だから、何を言っても働きませんよ」

「……はい、なので、これがダメなら諦めます」

「そうしてくださいよホント」


 もっと昔にそうして欲しかった。とは言わず、これで終わりになるなら持ってきたモノを前にして面と向かって断るだけだ。俺の働かない覚悟はもう決まっている。目を瞑ったままじっと待つ。伊藤さんはゆっくりとした足取りは変えぬまま、俺の腹にまでやってきた。


「私の体を差し上げます。それで、本当に一回だけ一緒にお願いします」

「……はぁ?」


 突然俺の毛布がはぎ取られる。慌てて瞼を開けば、一糸纏わぬ姿の伊藤さんがいた。この暗闇でもわかるほどに赤面させて、少ない光が瞳が潤んでいることを知らせていた。


「ちょっちょ! なんで全裸なんですか!? 服着てください!」

「お願いします」

「いや! まって! ホント!」


 問答無用を体現するように、小さな体を使い、急いで中腰になった俺に迫ってくる。自分以外の裸の女性を見るのは初めての経験なのに、これっぽっちも嬉しいことはない。興奮もなく、抵抗で喉元を絞められたようにただ呼吸がしづらくなるだけだった。


「お願いします」

「ちょ! 離れて!」


 正面から肩を押さえつけら立てなくされたる。完全に逃げ場を無くされた。差し出すという言葉はどこへやら、これでは完全に俺が襲われる構図だ。

 肩に添えられた手を払いのけようとするも失敗に終わり、だんだんと増してくる力に抵抗できずに俺は押し倒される。目を瞑り、頭に衝撃がこないよう首を高くし、背中と肩にくる衝撃に耐えた。


 それからゆっくりと瞼を上げれば、伊藤さんと顔を合わる形になった。


「……僕のこと、好きにしていいので……」

「冗談ですよね……やめてくださいよ」


 その大きな金色の瞳が、このやり取りが決して冗談ではないことを示していた。不安の色は確かに感じるものの、至極真剣な瞳だ。これが無理なら諦めるとは言っていたが、どう考えてもそれで諦めるような目ではなかった。これほど感情をあらわにした伊藤さんを見るのは初めてのことだ。


 迫られた事実からの恥ずかしさか、それとも真剣な瞳から逃げたかったのか、自分でもわからずに伊藤さんから顔を背けた。

 俺は知っている。この人の中身はおっさんだ。七三わけで、黒ぶち眼鏡の、あの冴えない男だ。おまけに無口で、感情表現に乏しい。けれどその面影なんて今はもうどこにもなくて、完全な女の子にしか見えない。たった数分男の姿を見たくらいでは、男だと思うことはできなかった。


 こんな経験今までなかった。女の子に馬乗りになって押し倒されるなんて、ニートで童貞の俺には初めてだ。状況が飲み込めて来ればくるほど、鼓動と呼吸は早くなるばかりだ。

 

「お願いします……」

「……どうして、俺なんですか。他にも人はいたでしょう」

「……一緒だったから」

「一緒? 同じ日に同じめにあったからですか?」

「……」

「どういう、こと……なんですか」

「……」


 伊藤さんは相変わらず俺に返答しない。彼女の顔は涙を残しつつも、いつの間にか赤みが消えており不安入り混じる真剣な表情へと変わっていた。唇の震えも消えている。


「……伊藤さん……」

「……」


 伊藤さんの手が肩から離れて畳へと向かった。消え去った体重の分だけ体が近づいて、息遣いも感じられる距離へと変わる。嵐の音は聞こえず、言葉もなく、ただ呼吸音だけが響きあっていた。


 何も分からない。ただネットを契約するための資金集めを一緒にしようと誘われていただけだ。最後にすると約束したから応じたのに、こうして裸で迫られるなんて夢でも見ているようだ。本当にそんなのが手に入るのか。

 彼女の顔はゆっくりと下がってきて、唇が近づいている。あと数秒。ほんの数秒経てばこの人のことを――。





 

 ――いや、そんなわけないだろ。そんな話あるわけがない。あってはならない。

 熱は急速に冷めていき体は冷静さを取り戻した。見れば伊藤さんは近づいてなどいない。ずっと同じ位置で、抱いた興奮を恥じるほど切な表情のまま、こちらを見ている。


 俺はこれ以上顔を合わせる勇気が無くなって、首を横へと向け壁を見つめた。ホント、築50年とは思えないくらい綺麗だ。


 こんなことを望んだんじゃない。こんなのが欲しくて働かなかったんじゃない。人を抱くとか、モノが欲しいとか、俺はそういうのじゃなくてもっと違う。給料とか、労働時間とか、人間関係とか色々理由だって考えられるけど、そんなのも後付けだった。もっと、もっと純粋に働きたくなかった。こんなくだらないことで何かを手に入れたところで、きっと嬉しいどころか虚しくなるだけだ。

 孤独は耐えられる。でもこんな虚しさは何時か俺を蝕んでいく。そうなったらもう最後、自分が自分を許せなくなる。それがたまらなく嫌だ。

 

 考えてみれば働くのは当たり前だ。義務だし、そうしないと生きていけないから。相澤さんは勿論、テツさんも食事作りなどの家事に勤しんでいる。和井田さんも働いているのかどこかへ行くこともあるし、大家は月見荘を運営するために仕事をしているはずだ。

 最後に伊藤さん。この人も働く意思があった。


 でも俺は違う。俺だけが違う。俺だけが働く気がなかった。

 負い目を感じたわけじゃない。それでも家賃だとか、生活の豊かさとか、どんなに屁理屈を並べ立ててもそれだけは拭いきれない引っかかりはある。

 

 嫌だ。自分なんか見つめたくない。向き合いたくない。誰も俺の弱い心に触れないでくれ。もう誰のことも知ろうとなどしないから、俺に構わないでくれ。俺には耐えられない――。

 言い訳と、諦めと、逃げで、グツグツと、思考は加速度的に混濁していく。


「……一度だけです。だから、もうこんなことは二度とやめてください」

 

 だからか、そんな言葉が自然と漏れていた。


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