14. 遥かなる48時間 ③

5

 伊藤さんに叩き起こされて埼玉ハイパーアリーナに向かえば、なんとか集合時間には間に合った。落ち着く暇もないまま点呼が始まって、俺たちは案内物販搬入にわけられる。俺と篠山さんは昨日と同じく案内で、残念なことに伊藤さんだけ物販を担当することになった。小動物のようなつぶらな瞳を、待機室を出るまでこちらに向けており、なんともいたたまれない。

 こちらはこちらですぐにチラシ詰めが始まる、慣れたこともあって、篠山さんは最初から小声で俺に話かけてきた。


「物販て何やるんですかね~」

「物販じゃないですかね」

「物販ですか~、物販では物販をやるんですね~」

「冗談です、すいません。会計とか、商品持ってくとかじゃないですかね」


 俺たちは一人物販組へと旅立っていった伊藤さんの身を案じていた。人がこなければあちらも楽そうだけど、知り合いがいないのはきっと心細い。……いや、これは驕りすぎている。開場前に勇気づけてくれたのは外ならぬ伊藤さんだ。あの図太さで何事も乗り越えるだろう。むしろ、スケジュールが全く違うから、最後の点呼以外で一切合わない分俺の方が心細かった。

 その他にも、ミライクリスタルの曲の感想とか、取り留めのはい話を延々としながら、昼休憩に入った。


 今日は二人だけだったので、篠山さんの食べっぷりを見物することができた。彼女は弁当を受け取るとすぐに開封し、お箸で持ち上げられる限界量を取り、思いっきり頬張った。そうしたら高速で顎を上下させて、いつの間にかに喉を通している。彼女は食しているときは無言のまま、フードファイターもかくやという速度で弁当を平らげた。


「篠山さん、マジで食べるの早いですね……」

「え~そうですか~? そうでもないですよ~」

「そう思ってるのはあなただけです」


 ハンバーグを箸でとり、口に運ぶ。もう食べ終わった弁当がある一方で俺のはまだ半分以上も残っていた。

 

 弁当談義をしていたら、平穏な昼休憩も終わり午後の業務へと入る。昨日と同じく会場内での案内だった。荒れ狂う人混みに対応するには、機械にでもならないとやっていられない。伊藤さんの激励を思いだしながら、ひたすらに指示された案内を行っていればすぐにライブは開始し、あっという間に夜休憩へと入っていった。

 2回目の休憩は、篠山さんだけではなく、俺がトイレに籠ることによって凌いだ男連中も加わっている。名前はもう忘れたけど一応知り合いということもあって、今度は最初から会話に交じっており、否が応でも参加せざるを得なかった。


「優ちゃんはさ、普段何してるの?」

「散歩とかです」

「へぇ~渋いねぇ~。何? 景色とか見るの好きなの?」

「まあそんな感じです」


 軽い口調の男は、ヘラヘラしている。関わりも薄いのに普段やっていることなんて聞いて何が楽しいのか、俺にはさっぱりだった。


「俺からも聞いていい? 優ちゃんって二十歳でしょ? 大学とか行ってるの?」

「いや、行ってないです」

「そうなの? じゃあフリーターってこと?」

「そんな感じです」


 人の事情を寝掘り派掘りしてくるマッシュルーム頭の男を一睨みして、弁当からひじきを一口。篠山さんを見と、ツーブロックの男に無理やり心霊写真を見せつけて、事細かに解説をしていた。明らかに男は引いている。

 なるほど、彼女が一方的に話していたのか。会話のイニシアチブをとるには、意表を突くだけではく、相手に余裕を与えないことも重要と。参考になる。

 飯を食べつつ男どもをあしらっていると丁度いいことに尿意がきたので、急いで弁当をかきこんだ。時間ギリギリになって焦るよりは、先に食べて消化にあてた方がいい。

 

「どこら辺に住んでるの?」

「あーちょっと、お手洗い行ってきます」

「それなら、私も同行します」

「あ、はい」


 尿意は増していって限界を感じてきたので、篠山さんのペースを考えずに急いでトイレまで赴く。ついたら入口の前で一度止まり、女子トイレであることを確認してから中に進み、空き個室へと入る。慌ててズボンとショーツをズり下ろして用を足したら、開放感に満たされた。

 尿道が短くなったからか、女になってから我慢の限界が近くなっている。俺は結構我慢する傾向にあるから、今が休憩時間で本当によかった。

 すべてを輩出したら、トイレットペーパーを巻いて湿り気をふき取る。下を着なおし、水を流して個室を後にした。

 スッキリして手を洗っていると、篠山さんが隣にやってきた。喋り方はおっとりしているくせに、行動はどれもキビキビしていてる。


「間に合いましたー?」

「ええ、まあ」

「こんなとこで漏らしたら、目も当てられませんよ~」

「流石に漏らさないですよ」


 手を揉んで、ハンドドライヤーに手を入れゆっくりと引き抜いたら、すぐに乾いた。再び手を揉んですべすべになった肌の感触を確かめたら、そこから退く。すぐに篠山さんが使い始めたので、それが終わるまで後ろ姿を眺めていた。


「そういえば昔、ハンドドライヤーってドライヤーみたく風で手を乾かすものだと思ってたんですよね」

「違うんですかー?」

「はい。風で湿気を弾き飛ばすものらしいです」

「ええ~本当ですか? そうは思えませんけど」

「そう言われると、全部のものがそうってわけじゃないかもしれないです……。でもその下に手を入れるやつは本当です」

「そうなんですね~」

 

 ハンドドライヤーを見たら昔を思い出してしまい、くだらない知識を披露してしまった。信じて貰えたかどうかは怪しいが、会話の種くらいにはなってよかった。

 丁度篠山さんも手を乾かし終えて、こちらを振り返る。


「初めて東白さんから話しかけて貰っちゃいました~」

「え? あ? そうでしたか?」


 そうだったろうか。思い返してみれば、俺は篠山さんのトークへの相槌ばかりで、確かに自分から話しかけた記憶はない。何度も顔を合わせているのにこれが初めてというのは、我ながらな消極性というか。これでは世話をしてもらっているみたいだ。

 俺はどうにも恥ずかしくなって、頬をかき苦笑いでごまかした。


「その笑顔。やーっぱり、どこかで見た気がするんですよねー」

「篠山さんには昨日初めて出会いましたけど」

「それはそうなんですが、ん~」


 伊藤さんは俺の顔を覗き込んで、うんうんと唸っている。俺はここら辺にはアルバイトで初めて来たので、前にこの近辺に住んでいると言っていた篠山さんとはあったことはないはずだ。まさか大宮からふじみ野にわざわざ出向くこともあるまいし、きっと勘違いだ。

 待機室に戻り、馴れ馴れしい3人衆の話に適当に相槌を打っていると、それで休憩時間は終わった。



6

「え? 打ち上げ?」

「そそ、どう? この6人でさ」


 たかだかアルバイト風情が、別に打ち上げる必要もないだろうに、夜休憩に必ず絡んできた男がそんな提案をしてきた。もちろん俺は乗るつもりなどないし、伊藤さんも行かないだろう。俺たちがバイトをしているのは回線契約の資金のためだ。わざわざ飲みに行って散在するなど愚の骨頂以外の何物でもない。


「行きません。さようなら。伊藤さん帰りましょう」

「……うん」

「え?」


 話が纏まった。篠山さんも伊藤さんがいなくなって女一人となると行くわけもないし、完全にお流れだ。というか、あんたらだけで打ち上げをすればいいじゃないか。3人もいるのだから、俺たちを誘う必要もない。


「それじゃあ私も帰りますねー」

「ちょ、ちょっと待ってよ。奢るよ俺たち」

「俺からもお願い! ほんと、ちょっとだけだからさ」


 「俺からも」ってなんだ。親しい間柄でもなのに、どういう視点からのお願いなのか全くわからなかった。無理を頼んでいるというのに軽い口調で真摯さもないし、せめてヘラヘラとした態度は直してほしい。

 夜休憩後の最後の仕事を終えて給料をもらい、アリーナを出た直後にこれだ。疲労も溜まっているし眠気も限界だから、別に打ち上げじゃなくても全部断って帰るつもりだった。俺の労働も今日で完全に終わりなのだ。残り時間はすべてを忘れて明日からのニート生活に思いを馳せていたい。

 俺たちが駅に向かおうとすると、男たちが目の前に立ちはだかる。なんとしても話したいらしい。


「ホント頼むよ! 1時間だけ!」

「1時間もいたら終電なくなるので、それじゃ」


 必死の呼びとめを流して、立ちふさがる男たちを横から通り抜ける。するとまた回り込んできて通行の邪魔をしてきた。

 このペースでしか進めないのであれば、誘いに乗らなくても絶対に終電を逃してしまう。警察でも呼んで、なんとかしてもらおうか。


「ホント帰れなくなるんで、どいてください。警察呼びますよ」

「何もそこまで言わなくてもいいじゃん。俺たちちょっと飲みたいって言ってるだけなんだからさ」

「そうだよユウちゃん、お願い!」


 苛立ちが頂点に達して思わず舌打ちをした。つま先を上下させて、腕を組み、なんとか落ち着こうとする。しかし考えてみれば警察を呼ぼうにも携帯電話を持っていないし、こいつらをまこうにも土地勘がない。普通に駅に行くだけではどこまでもついてくるだろう。納得させてから去りたいものだが、妙案が思いつかなかった。

 俺は手で顔を覆い、項垂れた。何一ついいことがない。本当に、労働はろくなことがない。


「お願いだよ」

「だから! 嫌だといって――」

「わかりました! 20分だけお相手しましょう! それで終わりです! これを飲んでいただけないなら警察を呼びます」


 俺の言葉に被せて、篠山さんがいつもの間延びした言葉でなく、早口でまくし立てる。それと電話アプリに110番を入力し、コールボタンへ指をかけていた。

 おっとりとした態度から強気のものへのなあまりの変貌に、男たちは笑顔を消す。だがそれは一瞬で、顔を見合わせるとすぐに頷いてまた笑顔へと戻った。


「わかったよ。それで大丈夫。んじゃよろしくね」

「それじゃ行きましょうか」


 拒んでいたのに、何故か俺たちは打ち上げとやらに行くことになっていた。流石に看過できず、俺と伊藤さんは不服な顔で、篠山さんを睨んだ。

 ハッキリ言って、あの男たちとは関わりたくない。下心は見え透いているし、酒の席で何かをやろうとしているのは明らかだった。伊藤さんや篠崎さんが襲われでもしたらたまったものじゃない。篠崎さんに策があるとしても、付き合わずに警察を呼ぶのがやはり最良だろう。


「ちょっとしのや――」


 俺の講義を、篠山さんが手で制した。


「大丈夫です。店に入ったらトイレ行くふりして抜けだせばいいんですよ」

「うまくいくとは思えません。やっぱ警察に連絡した方がいいですって」

「まぁまぁ落ち着いてください。とっておきの秘策も用意してあります」


 一体今のやりとりのどこに落ち着ける要素があったのか。到底うまくいくとは思えない策を自信満々な顔で披露され、頭が痛くなる。流石にこれは考えが足りてないのではないか。


「……終電の時間だけ調べたいのでスマホ借りてもいいですか? 篠山さん」

 

 不安と文句ばかりが募る中、伊藤さんは篠山さんにスマホを借り受ける。手に取ると、両手を用いたかなりの速度のフリック入力を駆使して、終電のルートを検索していた。


「はやくしてよ~」

「はいはいもう行きますよー」






 埼玉ハイパーアリーナから歩き始めて数分。おすすめの店があるというので、駅から遠ざかるように移動していた。あたりは暗くとも、街灯は多いので見晴らしはよかった。時計を見れば22時20分を過ぎており、伊藤さんが調べた情報では、22時50分の電車に乗らなければならなかった。今から店に入って戻るには流石に時間がかかりすぎるので、ここいらでお暇させてもらいたい。


「すいません。終電がもうすぐなので帰ります」

「ちょっと待ってよ。すぐそこ曲がったところだからさ」

「いやそう言われても電車は待ってくれないので」

「いいからいいから」


 俺の訴えが無視され、背中を押される。強引なのは伊藤さんもそうだったけど、彼女は多少は引くことも知っていた。それに一緒に住んでいるし、関わった時間から何まで根本的に違う。同じ土俵で比べることは到底できなかった。

 まぁ、本当にすぐだというなら間もなく帰れるしと、しぶしぶ歩いていく。

 やがて歩道の左に入る道に差し掛かかり、俺たちはそこに入っていった。しかし、そこはバンが一台あるだけでこれまで通ってきた閑静な住宅街と変わりなく、店の看板一つもありはしなかった。


「どういうことですか」

「こういうことだよ!」


 先導していた男が突然振り返って、その次を歩いていた篠山さんの口を手で覆い、羽交い締めにした。それと同時に俺も後ろから同じように腰と口元を押さえられて、出そうとした声がくぐもったうめき声へと変わった。あまりの事態に心臓が跳ね、体の芯の温度が低くなる。混乱の極みにいる中、俺は量指を男の指と顔の間にかけて、必死に拘束を解こうとしていた。

 思い切り指に力を入れれば、男の手がずるりと下にスライドして唇が外気に晒される。乱れる呼吸のさなか、その一瞬の隙をついて叫ぼうとした。


「たすけ――」


 だがすぐに発声をさえぎられてしまう。

 その時、止まっていたバンの扉が開いて、そこから新たに男が出てくるのが見えた。


「おい早くしろよ」

「雄介! こいつ力強いから手伝ってくれ!」

「女一人くらいなんとかしろ」


 そんなやり取りをしながら、バンの男が俺に近づいてくる。加勢に来る前に、俺を抑えている男をどうにかしなければ、逃げ筋はなくなるだろう。これが最後のチャンスだ。

 鼻から酸素を吸いこんで、肺から心臓へ、心臓から全身へと巡らせる。そうしたら思い切り力んで、腹に力を入れた。腹から腕へ、目いっぱい力を入れたら、あっさりと口元の手を外すことができた。


「誰か助けて!」


 男の腕をつかんだまま、とにかく叫んだ。静かな住宅街でこれだけ大きな音を立てれば、誰かが気が付いて通報してくれるはずだ。


 「誰か! たすっ――」


 苦しい。今度は喉を閉められて、声はおろか呼吸すら怪しくなる。俺は腕に爪を立てて、必死に皮膚を抉ろうとする。相手も必死なのか、首をどんどん締まっていって、恐ろしい速度で力が抜けていった。

 まずい、このままでは意識が。


「カッ、はっ……」

「おい死ぬぞ! さっさと車に入れろ」

「うるせえ!」


 バンからの男の静止も虚しく、力は緩められない。取り込んだ酸素が脳みそからも消え去っていき、視界が明滅する。涙で視界が滲んで、胃から酸が込み上げてきた。


「おいやめろバカ! 死んだら面倒だろ」

「……わかったよ」

「グァ……オ゛ヴエ゛」


 しかし最悪の中にも奇跡はあるようで、バンの男が首を絞める男を静止して、俺は拘束から解放された。喉元をさすりながら呼吸を整えようとして、地面にうずくまる。込み上げてくるものを我慢できずに吐き出すと、吐しゃ物が跳ね返って腕を汚した。


「ウワ! 汚ねぇな」

「いいからさっさと車に入れろ」


 俺は死ぬのを回避しただけで、状況は好転していなかった。すぐさま二人がかりでバンに連れ込まれると、腕を後ろに縛られ、何かの錠剤を口に含まされる。水差しを直接口に含まされると、それを飲み込むまで、拷問のように上を向かされ続けた。


 本当に、労働はろくなことがねえ。

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