(12)

23.


 慌しい声がする。

 誰かが僕の名を呼んでいる。瞳孔散大、とか、血圧低下、とか叫んでいる。チューブを、という声も聞こえる。死ぬことって案外騒々しいものだな、と僕は思った。


 テンコの顔が見えた。僕はそれに微笑みかけた。テンコはいつかのように泣いているように見えた。テンコ、なんで泣いているんだ? なあ、テンコ。


「安川くん?」

 目を開けると、目の前に菱川の顔があった。あれ、死んだのになんでテンコじゃなくて菱川がいるんだろう、と思った。白い天井が見えた。気がつくと病院のベッドの上だった。微かに病院独特の匂いがする。

「菱川」

 僕はようやく声を出した。

「気がついた?」

 菱川が弱々しく微笑んだ。その目は泣き腫らした跡があった。

「オレは生きてるのか?」

「そうよ、馬鹿ね」そう言って菱川は半分泣き顔で笑った。

「菱川、どうしてここにいるんだ?」

「何度電話しても自宅も携帯も出ないし、無断で休んで連絡もないって言うから、あなたの部屋に行ってみたの。そしたら隣の人が、昨夜救急車で運ばれて行きましたよって。病院探すの苦労したわよ」

「じゃあ、きみが呼んだわけじゃないんだ、救急車」

 菱川はうなずいた。僕は酷く喉が乾いて、水、と言った。菱川は水差しの口を僕の口元に差し出した。それを吸い込むと、冷たい水が喉から食道を伝わって行くのが分かった。

「水がこれほどうまいとは思わなかったよ」

 菱川はまた弱々しく笑った。


 菱川は明日また来るね、と言って帰っていった。僕は天井をぼんやり眺めながら、煙草が吸いたいと思った。菱川が看護婦に聞いた話によると、女性の声で連絡があって、救急車が駆けつけたということだった。後一歩、胃の洗浄が遅れていたら助からなかったそうだ。僕は昨夜のことを思い出そうとした。帰ってから鍵をかけたかどうか考えた。どうしても思い出せなかった。しかし、無意識のうちにいつも鍵をかける習慣はついている。昨夜も間違いなく鍵をかけていた筈だ。テンコだ、と思った。鍵を開けたのも、救急車を呼んだのも。しかし、どうしてだ? テンコ? 何故僕を死なせてくれなかった?

 僕はいつのまにかまた寝てしまった。


 夜中に目が覚めた。時計がないので時間が分からない。病室の中は真っ暗だ。

「目が覚めた?」

 耳元で囁くような声が聞こえた。テンコがベッドに両肘をついて、僕を覗き込んでいた。

 テンコ、と僕は声を出そうとしたが、声にならなかった。身体を動かそうとしたが、ぴくりとも動かなかった。これは金縛りなのだろうか、と思った。

「そうだとも言えるし、そうでないとも言えるわね」テンコが言った。

 もしかして僕の言葉が聞こえるの?

「うん」

 テンコは微笑んだ。初めて会ったときの、あのキュートな笑顔だ。

 なあ、テンコ、なんで死なせてくれなかった? 僕は心の中で問いかけた。

「死んじゃダメだよ、スグル」

 そう言ってテンコは僕の髪を優しく撫でた。

 テンコと同じようになれたのに。

「それはどうかな? 分からないよ」

 僕はテンコと一緒にいたかった。

「わたしもよ」

 テンコは僕の髪に軽くキスをした。

「ごめんね、スグル。わたしはたぶん、あなたにとって悪い存在なのよ」

 そう言ってテンコはちょっと悲しそうな顔をした。

 そんなことはない。もしそうだとしても、それでもいいんだ。

 テンコは口元に笑みを浮かべながら首を横に振ると、言った。

「スグルは生きるのよ」

 なあ、テンコ、もう十二時過ぎてるか?

「うん」

 誕生日おめでとう。

 テンコはもう一度嬉しそうに微笑むと、僕の唇にキスをした。

「ありがとう」

 テンコ。もう会えないのか、オレたち?

「うん」

 テンコは唇に笑みを浮かべながら、寂しそうな目をした。

 オレのこと好きか、テンコ?

「うん」

 ありがとう。

「わたしもう行かなくちゃ」

 もう行っちゃうのか、テンコ?

 テンコはそれには答えずに、もう一度僕の唇にキスをした。

「さよなら」

 そう言うと、テンコは泣きべそのような顔を浮かべて、笑った。

 さよなら。


24.


 翌日も菱川は訪れた。

 点滴が終わって、菱川に屋上に連れてってくれ、と言った。菱川は、まさか飛び降りたりしないよね、と笑った。

 屋上はさんさんと降り注ぐ日の光を浴びて、揺らいでいるように見えた。僕はまぶしさに目を細めた。風が少しだけ吹いて、干してあるタオルや白衣を揺らした。僕と菱川は手すりにもたれて外を眺めた。

「なあ、煙草持ってるか?」

 僕は菱川に訊いた。菱川はうなずくと、自分の煙草を取り出して、僕に一本渡すと、自分も一本くわえた。菱川の差し出すライターで、両方の煙草に火を点けると、僕らはすっかり夏らしくなった空めがけて煙を吐き出した。それは雲と混じり合うように流れていった。

「昨夜テンコが現れたよ」

 僕がそう呟くと、菱川は黙ってこちらを見つめた。

「さよならって」

 僕はそう言うと、ふうとまたひとつ煙を吐いた。

「ねえ、安川くん、もしかして救急車呼んだのって」

「うん」

 僕はそれだけ答えると、ゆっくりと煙を吐いた。

「なんで死のうなんて思ったの?」

「なんでかなあ」僕はゆっくりと動く雲を見つめた。「ただ、なんで人は自殺するのか、ちょっと分かったような気はする」

「ねえ、もうしないって約束して」菱川は真顔になると言った。

「もうしないよ。もう終わったんだ」

「なにが?」

 僕はそれには答えずに、煙草を深く吸った。


 退院の手続きを済ませると、病院の前でタクシーを拾った。走る窓から見る景色は何故か生き生きと、新鮮に目に映った。マンションの前で降りると、菱川に借りた金でタクシー代を払った。郵便受けを見ると、郵便物がはみ出していた。僕はそれをまとめて手にすると、階段を上った。

 鍵を開けると、部屋の中はむっとして空気が淀んでいるようだった。郵便物を玄関先に放り投げると、寝室のエアコンのスイッチに手を伸ばしたが、思いとどまってカーテンと窓を全部開け放した。リビングに入り、こちらもカーテンと窓を開けた。それから僕は転がったままのワインのボトルを拾い、キッチンのゴミ箱に放り込んだ。先程の郵便物の中から、ケーブルテレビの番組表を手にすると、リビングに戻ってそれをちりとり代わりにして、テーブルの上に散らばった錠剤と、床に散らばった錠剤をゴミ箱に捨てた。ふと気がついて電話を見ると、留守電のランプが点滅していた。再生ボタンを押すと、僕が病院に運び込まれている間に入れたらしい、菱川のメッセージが三件、再生された。どれも、「安川くん、いるの?」とか「安川くん、大丈夫?」というものだった。携帯の留守電にも同じようなメッセージが入っていた。結局、親には急性のアルコール中毒になった、ということにして、入院費用を出してもらった。僕はキッチンに戻ると、隅に置かれたダンボールをひざまずいて開けた。中には、五キロ入りの米と、いくつかの缶詰と、ふりかけと漬物が入っていた。僕はふと思い出して、食器棚の引き出しを開けた。そこに入れていたはずのテンコの写真は消えていた。引き出しを閉めながら、本山さんになんて言おうか、と考えた。まあいい、それにあれは僕が知っているテンコの写真ではないのだ。僕の知らないテンコだ。

 寝室に入って机の前に座ると、パソコンの電源を入れた。メールソフトを立ち上げてネットに繋ぐと、メールが三通届いていた。

 僕は新しいメールから順に見ていった。

 一通は宮本からだ。タイトルは「日本の悪霊」。開いてみると、やたらと長いメールだった。ちらっと見る限り、あれから本をあさって調べたようだ。僕は短い溜息をひとつつくと、読まずに次のメールを開けた。菱川からだった。タイトルは「元気?」。こちらは短いメールだ。

―― もう退院した? 元気になったら、今度はちゃんとおごってね。

 もう一通は、タイトルも発信者も空欄だった。そこには一行だけ書いてあった。

―― ありがとう。

 僕はしばらくディスプレイのその文字を見つめていた。


25.


 不思議なことに、本山さんからはそれっきり電話もメールもなかった。僕はふとしたはずみに彼女を思い出すたびに、写真をなくしたことをメールしようかと考えたが、思いとどまっていた。寝た子を起こすこともない。それに、考えてみれば、不思議でもなんでもないのかもしれない。こんなことはよくあることなのだ。


 すっかり夏になっていた。退院した翌日から仕事に戻ると、元のだらだらとした日々が始まった。坂崎は相変わらずスポーツ新聞に読み耽り、香取さんは機嫌がよくなったり、悪くなったりした。菱川とは一度、夏のボーナス代わりの一時金が出たときに青山のイタリアンレストランで食事をした。もちろん、勘定は僕が払った。それから僕は一度長野県に出張に行き、温泉旅館を三つほど泊まり歩いた。会社のみやげとは別に、菱川には彼女あてのみやげを買った。

 

 出張から戻ってきた翌週の月曜日、例のだらだらとした朝の会議に出ていた。会議の中身は早々に終わり、皆思い思いに雑誌を読んだり、世間話を始めた。僕はなんとなく喫茶店に置いてあった雑誌を手に取った。女性向けの情報誌だ。ぱらぱらとページをめくっていると、知った顔が目に飛び込んで来た。「この夏はステキな恋をしたい!」という見出しのページに、いろんな職業の人のコメントが写真つきで載っていて、女性のコメントを並べたページの左隅に小さくアサコの写真が載っていた。土田麻子さん(24)レコード会社勤務。相変わらずアサコはきれいだった。そのページに載っている他の誰よりも。コメントをちらっと読むと、わたしは仕事が忙しいので、どうしても出会いは仕事上で、ということになってしまいます、とかなんとか書いてあった。成田離婚のことはどこにも書いてなかった。そりゃそうだな、と思ってページをめくると、今度は男性のコメントが並んでいた。今度も見覚えのある顔が目に入った。真ん中辺りに、相原の写真が載っていた。相原正人さん(24)レコード会社勤務。相原は僕が会ったときよりも随分日焼けしているように見えた。相変わらずウェーブのかかった茶髪を垂らしていた。コメントの出だしは、僕の理想の女性は、とあったが、それ以上読まずに雑誌を閉じて、けっ、と小さく声に出した。

 その夜、菱川と渋谷で待ち合わせて、僕は近道をするためにプライムの中を通り過ぎた。相変わらず占いのブースは並んでいたが、前よりも数が減っていて、シホードーマサコのブースはなかった。ほっとして外に出ると、建物の裏の暗がりに、シホードーマサコが即席の机を出して座っていた。僕は一瞬ぞっとして立ち止まった。向こうから若い男がやってきてその前を通り過ぎようとすると、シホードーマサコはかっと目を開いて、「お待ちなさい」と声をかけた。男はぎょっとした表情で立ち止まった。シホードーマサコはその男を睨みつけて言った。

「気をつけなさい。悪霊が憑きかけておる」

 僕は苦笑すると、その場を後にした。


 あれからもう二週間以上経つが、やっぱりテンコは現れなかった。夜は毎日メールをチェックしていたが、発信者がないメールはあれ以来一通も届いていなかった。しかも、不思議なことに以前届いていたテンコからのメールも、削除した覚えがないのにログから消え失せていた。

 僕は夜の屋上に立って煙草を吸いながら、テンコのことを考えた。幾度となく考えたことだった。テンコは僕の部屋で起こることを知っていた。テンコは、僕が引っ越したときから僕のことを知っていたのだ。彼女は突然現れたわけではないのだ。彼女は僕のことを既に知っていた。テンコが現れたのは、相原に対する思いのせいではなくて、僕に対する思いのせいだったのだ。僕はそう思いたかった。それから僕は思った。

 あれは果たして現実だったのか? 彼女は果たして僕にとってなんだったのか? 本当に彼女自身が言うように、悪いものだったのか?

 そのたびに僕は思うのだった。どちらでもいいと。僕に分かっているのは、あれは恋だったのだ、ということだ。


26. 


 取次の担当者と新刊の打ち合わせをしていて、僕はメモを取ろうとシステム手帳をぱらぱらとめくった。開いたところにちょうど、川島佐知子の名前と連絡先が書いてあった。僕は思わず手を止めた。どうかしましたか? と言う担当者の声に我に返ると、首を振って、なんでもないです、と答えると、打ち合わせを続けた。

 打ち合わせが終わって外に出ると、外はうだるような暑さだった。僕は手近な喫茶店に飛び込むと、コーヒーを頼んだ。ウェイトレスがホットですか? と尋ねるので、そうです、と答えた。僕はいつもホットなのだ。ウェイトレスが持ってきたおしぼりで顔の汗を拭うと、煙草を一本吸った。

 店内は冷房が効いていて、頼んだコーヒーが届くころには汗は引いた。僕はコーヒーをすすりながら、鞄からシステム手帳を取り出した。そして、先程のページを開くとしばらくそれを眺めていた。それから携帯を取り出すと、ボタンを押し始めた。


 千葉で総武本線に乗り換えると、佐倉で降りた。時計を見ると、一時を過ぎたばかりだ。川島佐知子には一時ごろに行くと伝えてあったので、ちょっと遅刻だ。道順は佐知子から聞いてあった。教えられた通りに炎天の中を歩いた。日曜の昼下がりの住宅街は、道を行く人もまばらだ。十分ほど歩くと、建て売りの住宅が何軒か並んでいる通りに出た。どれも皆似たような外観なので、一軒ずつ表札を確かめていくと、三軒目に川島という表札に当たった。通りに面して小さい庭と駐車場のある、二階建てのこじんまりとした典型的な郊外の一戸建て、という感じだった。駐車場には佐知子のものであろう、軽自動車が停まっていた。

 玄関に備え付けられたインターフォンを押すと、はい、という女性の声が聞こえた。安川です、と告げると、お待ちしておりました、今参ります、という声が聞こえた。そのまま待っていると、玄関のドアが開いて、上品な五十がらみの女性が顔を出し、どうぞお入りくださいとにこやかに微笑んだ。

 こちらへどうぞ、と言われて、僕は日当たりのいいリビングのソファに腰掛けた。家の中はとても奇麗に片付けられていた。僕が少々緊張しながら座っていると、佐知子が皿にすいかを乗せて現れて、どうぞお楽になさってください、と言いながらテーブルに置くと、向かい側に座った。僕が特に意味もなく、すみません、と言うと、佐知子は遠いところをわざわざありがとうございます、お暑うございましたでしょう、と深々とお辞儀をしたので、こちらも思わず、お休みのところをお邪魔して申し訳ありません、と頭を下げた。佐知子はテーブルの上にあった電気ポットを指差して、熱いお茶でも構わないかしら、わたし、冷たいのは苦手で、と言った。僕は、僕も熱いお茶の方がありがたいです、と答えた。急須を出してお茶を淹れている佐知子に、あの、と僕は声をかけた。先にお線香上げさせてもらって構いませんか。僕がそう言うと、ありがとうございます、そちらの奥に仏壇がありますので、と部屋の隅にあるドアを指差した。僕は失礼します、と言ってソファを立った。

 隣は八畳ほどの和室だった。仏壇の前に座ると、黒縁の写真立ての中でテンコが微笑んでいた。置いてあったマッチで蝋燭に火を点けると、それで線香に火を点けた。目をつぶると手を合わせた。外ではミンミンゼミが鳴いていた。

 リビングに戻ると、テーブルにはお茶が出来上がっていた。佐知子はもう一度、ありがとうございます、と頭を下げた。

「あの」僕がお茶をすすっていると、佐知子が言った。「典子とはどういったお知り合いで」

「最近、あ、つまり亡くなる直前という意味ですが、今年になってからの友人です」

「そうですか、それなのにわざわざお線香上げて頂いて」

「いえ、こちらこそ、仕事でお葬式に顔を出せなかったものですから」

 どこか八千草薫を思わせる、人の良さそうな佐知子に、予め考えていたこととはいえ、嘘を吐くのは心苦しかった。しかし、本当のことを話すわけにもいかない。

「失礼ですが」僕はお茶をテーブルに置いて言った。「なにしろ知り合って日が浅かったものですから、その、立ち入ったことを訊くようで申し訳ないですが、こちらはお母さんがお一人でお住まいなのですか?」

「ええ、そうなんです」佐知子は屈託のない笑みを浮かべて答えた。「恥ずかしい話なんですけど、典子たちがまだ小学校のころに離婚いたしまして」

 典子たち?

「あの、テンコ、いや、典子さんにはごきょうだいがいらしたんですか?」

「ええ、ちょっとお待ち下さい」

 佐知子は一礼すると、リビングを出て行き、しばらくすると写真立てをひとつ持って戻ってきた。

「姉がおりますのですよ」

 そう言って、佐知子は僕に写真立てを手渡した。僕はそれを手にすると、目を見張った。

 そこには、小学生ぐらいのテンコが二人写っていた。

「あの」僕がようやく声を出すと、佐知子は相変わらず穏やかな笑みを浮かべて言った。

「そうなんですよ、双子なんです。一卵性なのでそっくりでしょ。わたしもときどき区別がつかないくらいで」そう言うと、佐知子はお茶を両手で持ってひと口すすった。「離婚したときに、姉のきりこ桐子は主人が引き取ったのです。その、一卵性というのは不思議なものですねえ、三月から典子がその、具合が悪くなったでしょう? そうしたらその、桐子の方も同じ病気になりまして」

「鬱病ですか?」

「ええ、もうすっかりよくなったみたいですが」

「そうしますと、その、桐子さんはお父さんの方の苗字になるわけですか?」

「ええ、村上と申します」

「こちらにはよくいらっしゃるので?」

「桐子の方は、短大を出て勤めに出ましたものですから、そうですねえ、一年に一度ぐらいかしら」それから佐知子は庭先に目をやると、微かに思い出し笑いを浮かべて言った。「お葬式の日には、御存知ない方がびっくりしてました。典子が生き返ったって」

 僕は喉がからからに乾き、出されたお茶を飲み干した。

「あの、桐子さんはどちらにお住まいで」

「それが、典子と同じマンションなんですよ。あんなことがありましたから、引っ越したら、と言ったんですが、まだ引っ越してないみたいで」

 僕は軽い眩暈を覚えた。外では相変わらず蝉がやかましく鳴いていた。


27.


 せっかく来たので墓参りをさせてください、と僕は言った。佐知子に簡単な地図を書いてもらうと、それを手に川島家を後にした。

 汗を拭いながら住宅が次第にまばらになっていく道を歩いた。途中に花屋があったら花を買っていこうと思ったが、これではありそうもなかった。歩きながら郵便受けのことを考えた。僕の郵便受けの隣にある、二○三号の郵便受けには、確か「村上」とあった。考えてみれば、引っ越してからこのかた、同じマンションの住人どころか、隣人にもほとんど会ったことがなかった。見かけたことがあるのは、一階に住む女性の後ろ姿と、階段側の二○一号の住人であるおばさん、後は三階の住人らしい若い男と一度階段ですれ違ったぐらいだ。引越しの挨拶なんて古風なことはしなかった。全部で十二部屋ある他の部屋には、どんな住人が住んでいるのか、全く知らなかったし、気に留めることもなかった。

 道の先にはかげろうが立っていた。五分ほど歩くと、大きな寺があった。山門をくぐって境内に入ると、正面にある本堂の左手に墓地が広がっていた。墓地に入ると、佐知子の書いてくれた図を見ながら、テンコの墓を探した。それは墓地の一番奥の方にあった。川島家乃墓、という比較的大きな墓の隣に、真新しい墓石が立っていた。僕は持ってきた線香にジッポで火を点けると、しゃがんで手を合わせた。蝉が降り注ぐように鳴いていた。テンコ、来たよ。いったいどうなってるんだい? 僕の知っているテンコは、桐子さんだったのかい? しかし、答えは返ってくるべくもなかった。

 参道をこちらに人が歩いてくる気配がした。僕は立ち上がると、そちらに目をやった。見ると、そこにはテンコがいた。木の桶に小さい花束を持って。いや、これは桐子の方なのだ、と自分に言い聞かせた。しかし、どこから見てもテンコにしか見えなかった。着ている服も、いつかテンコが着ていた黒のノースリーブのTシャツに、ベージュのスカートだった。茫然と立ち尽くす僕の額から汗が流れ落ちた。蝉の声が頭の中をぐるぐる回っていた。彼女は僕の前まで来ると、立ち止まった。そして、小首を傾げて不思議そうな顔をした。僕は喉元まで出かかっている、テンコ、という言葉を抑えるのに必死だった。彼女の口が動いた。

「スグル?」

 確かに彼女はそう言った。僕は驚きに目を見開いた。喉がからからに乾いていた。テンコ、と声に出そうとしたが、声にならず、口がわずかに動いただけだった。彼女ははっと気がついたように言った。

「あ、ごめんなさい、テンコのお友達ですか?」

 僕はかろうじて、ええ、という声を出して、近付いてくる彼女のために一歩退いた。彼女はひしゃくで墓に水をかけてから墓の前にしゃがみ込むと、花を取り換えて線香を上げた。そして目をつぶって手を合わせた。僕は呆けたようにその姿を見つめていたが、ふと、彼女の左の首筋にほくろがあるのに気がついた。テンコにもあった。僕ははっきりと覚えていた。僕は彼女のほくろにキスをした。あれは右の首筋だった。テンコの左の首筋にほくろはない。

 彼女が目を開けると、僕は声をかけた。

「あの、さっき僕の名前を」

 彼女はしゃがんだままこちらを振り仰いで、はにかんだような笑みを浮かべて言った。

「あ、ごめんなさい。突然頭に浮かんだんです、スグルって名前が」

 そう言うと、彼女はもう一度にっこりと微笑んだ。


                            ―了―

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幽霊譚 高山 靖 @Sukeza

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