(10)
19.
七時半ちょうどに菱川は現れた。
僕が片手を上げると、笑みを浮かべながら小走りにやってきて、僕の顔を見ると、みるみる表情を曇らせた。
「いったいどうしたの?」
「後で話すよ」
心配そうに覗き込む菱川に、こっち、と指差して歩道橋の方に向かった。
ジャズ喫茶の狭い階段を上りながら、まさか今日もいるんじゃないだろうな、と例の坊主のことをふと思い出した。古ぼけた木のドアの前に立つと、ついてきた菱川が、へえ、渋いとこ知ってるじゃない、と言った。僕はドアを開けると、真っ先に坊主がいないか店内を見渡した。いないことを確認してほっとしていると、後ろから菱川が背中を突ついて、ねえ、ここ話しても大丈夫なの、と耳打ちしてきた。僕はチャーリー・ミンガスの弾き出す重低音に負けないように、彼女の耳元で、大丈夫だよ、と答えた。
僕らは店の奥の、そこだけ引っ込んだ造りになっている一角のベンチシートに並んで座った。メニューを開きながら、ここはさ、パスタがうまいんだ、と僕は言った。菱川はペペロンチーノを、僕は明太子のスパゲティを頼んだ。お飲み物は、と尋ねるウェイトレスに、菱川はビール、と答えた。僕は寝ちまいそうだな、と思いながらも、一緒でいいや、とビールを頼んだ。
ウェイトレスが退がると、菱川は心配そうに僕の顔を覗き込んで言った。
「どうしたの? ほんと」
「あんまり寝てないんだ」
「例の幽霊のせい?」
「まあ、そんなとこかな」
「まったく、アンタが幽霊みたいだよ」
そう言って菱川は眉をひそめた。そこにビールが届いた。
「とにかく、乾杯」僕はグラスを持って言った。
「何に?」
僕はちょっと考えると、未来に、と言った。菱川はくすりと笑うと、グラスを合わせた。
「ねえ」菱川はペペロンチーノを上手にフォークで巻きながら食べていた。「ホントに大丈夫なの?」
「オレってそんなにヘンか?」僕はさっさと先に食べ終わり、手持ち無沙汰に水を飲んでいた。寝不足のせいか、先程のビールでまた睡魔が襲ってきていた。それに滅茶苦茶に疲れていた。
「なんかげっそりと頬こけちゃってるし、目の下に隈作ってるし、どこか悪いんじゃないの?」
「いや、疲れてるだけだよ。それと寝不足と」
菱川は皿をきれいに平らげると、水をひと口飲んで言った。
「ねえ、マジで何があったわけ?」
「いろいろ。ホントにいろいろなんだ」
僕はそういうと煙草に火を点け、ついでに菱川がくわえた煙草にも火を点けてやった。皿を下げにやってきたウェイトレスに、菱川はビールの追加を頼んだ。それから僕の方を見て尋ねた。
「安川くんは? ビールのおかわり」
「オレはコーヒーにしとくよ。それでなくても今にも寝ちゃいそうなんだ」
じゃ、それとコーヒー、とウェイトレスに告げると、菱川はテーブルに両肘をついて、ふうっと煙を吐き出すと、小首を傾げながら言った。
「最初から話してくれないかな? 分かりやすく。ダメ?」
僕は宙に向かって煙を吐き出しながら、どうしたものかと考えた。アタマがなかなか働かない。どうもさっき飲んだビールがもう回ってきているようだった。誰かにすっかり話してしまいたい気分だった。それには菱川は格好の相手のように思われた。だが、話してしまうとテンコと僕の関係が煙のように消えてしまうのではないかという意味のない不安と、自分が現実だと思っていることが揺らいでしまうのではないかという不安もあった。疲れてるな、と僕はもう一度思った。とにかく疲れてる。
「たぶん、話しても信じてくれないよ」
僕はそう投げやりに答えると、ベンチシートの背に身体を預けて、天井めがけて煙を吐いた。
「信じるから」
菱川は僕の目を覗き込んで、真剣な表情で言った。僕は後ろにもたれていた姿勢を元に戻して、テーブルに頬杖をつくと、ありがと、と答えた。お待たせしました、という声が聞こえて、テーブルにビールとコーヒーが届いた。熱くて濃いコーヒーをひと口飲むと、ほんの少しだけ目が覚めた。僕は未来のことを考えた。ほんの先にある未来。それから、この一週間あまり、アタマの中から消え去っていた、僕を取り巻く社会とか両親とか友人とか世界といったものを考えた。そして、やっぱりこれは誰かに話しておくべきことなのだ、と思った。僕はビールに口をつけている菱川に向かって言った。
「前にさ、幽霊を見たって言ったよね?」
「例の、自殺した川島さんって子?」
「そう」
「それでどうだったの? 本山さんと会って。写真見たんでしょ」
「本人だった」
菱川は肩をすくめてちょっとぞっとしたような表情を浮かべた。
「ホント言うとさ、単に見ただけじゃないんだよ」僕は菱川の目を見て言った。「なんて言うかさ、彼女は生きてるんだよ。人間なんだ」
菱川は目を丸くして、一瞬、まるで気の触れた人間でも見ているような顔をした。その顔を見て、もしかしたら僕は本当に狂っているのかもしれないな、とちらっと思った。
「それって、死んでなかったってこと?」
「いや、死んでる」
菱川は頭を抱えた。それから顔を起こしてビールをぐいっと飲むと、こちらをきっと睨んで言った。
「もう何言ってるんだか全然わかんない」
「だから言ったろ、信じてくれないって」
僕がそう言うと、菱川は口を尖らせて、だって、と言いかけたが、そこで思い直したかのように、ごめん、と消え入るような声で言って、しゅんとした顔になった。
巨大なスピーカーから流れる音楽が、ビル・エバンスとジム・ホールの「アンダーカレント」に変わった。僕は水面に顔だけ出して浮かんでいる女性を水の中から写したアルバムジャケットを思い出した。水の中に両手を伸ばしてゆらゆらと浮かんでいるように見えるその写真は、僕にはどこから見ても溺死体を表現しているものとしか見えなかった。以前誰かと、たぶん宮本あたりと、あれは水死体を表しているのか否か、という議論をしたことを思い出した。それはモノクロの美しいジャケットで、見るものによっては死んでいるようにも見えて、また違う人が見れば生きているようにも見える。まるで今自分が話していることのようだ、と僕は思った。
僕はゆっくりと少しずつ話し始めた。テンコがドアチャイムを鳴らして部屋に現れたところから。菱川はビールを飲んでは煙草を吸いながら、それでも一度も口を挟まずに黙って話を聞いていた。さすがにテンコとのセックスまでは話せなかった。そこまで話すと到底僕の正気は信じてもらえないと思った。僕の話が昨日の晩で終わると、菱川は深い溜息をついた。
しばらく僕らは無言で煙草を吸った。先に僕が口を開いた。
「なあ、オレは狂っているのかな?」
菱川は紫煙を宙にゆっくりと吐き出しながらちょっと切なげな目をして言った。
「分からない。でも」そこで菱川は僕の方を向いた。ビールでほんのり赤くなっている顔が何故か泣き顔のように見えた。「あなたは恋してるのね」
僕は黙っていた。菱川の僕に対する気持ちが分かっているだけに。菱川は短い溜息をつくと、「幽霊が相手じゃ勝ち目ないわね」と言って、自嘲気味に笑みを浮かべた。それからビールをぐいと飲んで、煙草に火を点けながら、僕を真っ直ぐに見据えて言った。
「でも、安川くんは間違っていると思う」
僕は思いのほか強い語調に戸惑いながら、「何が?」と問い返した。
「例えばその、アサコさんのことにしたって、あなたは何も悪くない。アサコさんが前にあなたにしたことの方がよっぽど酷いよ。アサコさんは、安川くんにとっていい女の人じゃなかったんだよ」
「そうかな」
「そうよ。それに、安川くんはその、ヘンな占い師に言われたことで勘違いしてる。全てがこの一週間で起こったように思ってる。でもね、少なくともわたしは、最初からあなたのこと好きだったよ」
菱川の目は潤んでいるようにも見えた。僕はなんと言っていいものか分からず、ただ「ごめん」とだけ言った。
「それに、あなたの言っていることが全部本当だとして、それでもやっぱり川島さんはもう死んでいるのよ。あなたはまだ生きてる。あなたは人間なのよ。わたしと同じ」
菱川の頬を涙が伝った。菱川は両手に顔を埋めて、肩を震わせて泣いた。僕は「菱川」と声をかけると、その背中に右手を置いた。アタマの隅で、ああ、また泣かせちまった、と思った。この一週間というもの、僕はどれだけの泣き顔を見たのだろう。いったい僕は何をしているのだろう?
菱川は目を擦りながら顔を上げると、「ごめん」と言って、照れくさそうに弱々しく笑った。僕はウェイトレスを呼ぶと、ビールを二つ頼んだ。途方もなく疲れていて眠かったが、もう酔っ払ってしまいたかった。
僕らは新たに届いたビールに口をつけると、しばらく無言で煙草を吸った。
僕が先に口を開いた。
「なあ、菱川は悪霊だと思う?」
菱川はビールでほんのりと赤らんだ顔をぼんやりと正面の壁に向けたまま、こちらを向かずに答えた。
「分からない。でも安川くんが心配」
僕は煙をゆっくりと吐き出しながら、瞼が重くなるのをこらえていた。ビールをもうひと口飲んだ。自分が酔っ払ってきているのが分かった。元々僕は下戸でアルコールは極端に弱かった。
「悪霊っていったいなんだろう? オレにはテンコが悪いものだとどうしても思えない。人間にだって悪い奴は一杯いる。結局、霊がいいものだ悪いものだと言っているのは人間の方じゃないか」
「あなたはホントに彼女のことが好きなのね」菱川は寂しそうな目をして言った。「わたしはホントにあなたのことが心配なのよ」
「ごめん」僕はまたビールを呷った。視界が少しぐらりと揺らいだ。前方の暗がりに坊主の姿が見えたような気がしてぞっとした。
「ねえ、安川くん」突然菱川は僕の顔を覗き込んで言った。「あなた全部話してないでしょ」
菱川の泣きそうな顔が少しぼやけた。僕は目を瞑った。菱川は僕の腕をつかむと、それを揺すりながら言った。
「ねえ、何考えてるの? ねえ、安川くん」
菱川の声が次第に遠ざかって行った。
20.
安川くんの言ってたお坊さんて、あの人?
菱川が言った。彼女の指差す方を見ると、前に見たのと同じ席で、例の坊主がこちらを見ていた。僕が恐怖に目を見開くと、坊主はにやりと笑って、それから目を閉じると何やら口の中でぶつぶつ唱えながら、右手の指で印を切るのが見えた。僕は、やめろ、と叫んだ。坊主はやめなかった。口がいつまでも動き、指は力強く印を切り続けた。僕はもう一度、やめろ、と叫んだ。マイケル・ブレッカーがそれをさえぎるように大音響でテナーサックスをブロウした。僕は立ち上がって坊主を止めようとしたが、身体が全く動かなかった。気がつくと涙が頬を伝っていた。やめてくれ、と僕は懇願した。お願いだからやめてくれ。菱川助けてくれ。僕は隣の菱川を見た。菱川は泣いていた。泣きながら、もう死んでるのよ、と言った。
「安川くん、着いたわよ」
菱川の声が聞こえた。僕は肩を揺すられて目が覚めた。気がつくと、タクシーの中だった。窓の外を見ると、ちょうどマンションの前だった。横を見ると、菱川の顔があった。
「オレ、寝ちゃったのか?」
「もう、今度はちゃんとおごってよ」菱川は半分泣き顔のような笑顔を浮かべて言った。それから心配そうに僕の顔を覗き込んで言った。「大丈夫? 上まで送ってこうか?」
僕は開いたドアから外に一歩踏み出すと、「大丈夫、ひとりで帰れるよ」と言った。
「はい、鞄」菱川はよろけながら外に立った僕に鞄を押し付けた。それからドアから身を乗り出すと、鞄を持つ僕の手を握り締めて言った。「ねえ、ホントに何かあったら教えてよ。絶対だよ。無茶したらダメだよ」
僕はかろうじて笑顔を作ると、「分かった。ありがとう」と答えた。タクシーの自動ドアがばたんと閉じて、菱川は心配そうに窓に顔を寄せると、半分開いた窓から「絶対だよ」ともう一度言った。
僕は走り去って行くタクシーを見守りながら、ごめん、と心の中で呟いた。
睡眠不足と疲れとアルコールは、階段を上る僕の足に足枷でもつけているようだった。手すりにつかまりながらようやっとのことで二階の廊下に辿り着くと、ドアの前にテンコがしゃがんでいた。僕ははっとして腕時計を見た。十二時になろうとしていた。ふらふらとドアの前に辿り着くと、テンコが泣いていることに気づいた。
「ごめん」
僕は自分がなんで謝っているのかよく分からなかった。これじゃあまるで帰りの遅くなった亭主みたいだ、と思いながら、テンコの両肩をつかんで立ち上がらせると、唇に軽くキスをした。黙っているテンコの華奢な背中に腕を回して抱き締めた。そしてもう一度、ごめん、と言った。
鍵を開けてテンコの肩を抱くようにして部屋に入ると、電気のスイッチを入れた。靴を脱ぐ足元がちょっとよろけた。
「大丈夫?」テンコがようやく声を発した。
僕は、大丈夫、大丈夫、と言いながら上着とネクタイを脱いで放り投げると、そのままよろけながら寝室まで行ってベッドに倒れ込んだ。
テンコは走り寄ってきて、ベッドの脇にひざまずくと、心配そうに僕の顔を覗き込んだ。
「ねえ、酔っ払ってるの?」
「ちょっとだけね。それに、ちょっとだけ疲れてる」
僕は大の字に寝転がったまま答えた。首を横に向けてテンコの顔を見ると、まだ泣き顔だった。
「それよりテンコ、どうして泣いてるの?」
テンコはそれには答えずに、僕に覆い被さると、唇を重ねて舌を入れてきた。長いキスが終わると、僕はもう一度尋ねた。
「どうして泣いてるの?」
「もう会えなくなるような気がする」
そう言うと、テンコの頬を涙が一筋こぼれ落ちた。
「どうして?」
「そんな気がする」
僕はテンコの顔を抱き寄せると、髪にキスをして言った。
「大丈夫だ。オレはここにいるよ」
テンコは答えずに、皺くちゃになった僕のワイシャツの襟元を開けると、首筋や肩に何度もキスをした。僕はその髪を撫でながら、ぼんやりと天井を見ていた。それから訊いた。
「ねえ、テンコの誕生日っていつ?」
テンコはベッドの脇のワゴンに置いてある目覚まし時計を見て、十二時を過ぎていることを確認してから答えた。
「明後日」
「そうか、明後日か」
明後日。僕は心の中でもう一度繰り返した。
「テンコ、しよう」
僕がそう言うと、テンコは顔を上げて、激しくかぶりを振って言った。
「ダメだよ、スグル、死んじゃうよ」
「大丈夫だよ。しよう」
僕はもう一度言うと、テンコを抱き寄せて僕の上に跨らせ、ミニスカートをたくし上げてショーツを引きずり下ろした。それから固く勃起したペニスを、濡れたテンコの中に挿入した。テンコは、死んじゃうよ、と繰り返しながら、喘ぎ声を洩らした。僕は腰を突き上げながら、ノースリーブのTシャツの下から手を入れて、テンコの汗ばんだ形のいい乳房を揉みしだいた。テンコはいつまでも、死んじゃうよ、と繰り返しながら、喘ぎ声を上げ続けた。
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