(11)

21.


 ドアチャイムの音で目が覚めた。

 起き上がると、身体中がぎしぎしと音を立てるようだった。頭痛がして、まるで全身に乳酸が溜まっているような気がした。もう一度チャイムが鳴った。はい、どなたですか、とベッドから叫ぶと、ドアの向こうから、宅急便です、という声が聞こえた。

 自分を見下ろすと、上半身ははだけたワイシャツのままで、下は裸だった。ベッドの脇に脱ぎ捨ててあったスラックスを拾って穿くと、よろよろと玄関先まで行って、ドアを開けた。

 日焼けした中年の男が、はい、とダンボールの箱を差し出して、伝票にサインをお願いします、と言った。僕はそれを受け取って彼の差し出すボールペンでサインをすると、ごくろうさまでした、と言って伝票とボールペンを渡した。

 床に置いたダンボールを見ると、発送人は母だった。米、と書いてあった。僕は開けてみようかと一瞬思ったが、結局開けずにキッチンの隅に置いた。

 昨日からどれだけ汗を吸ったか分からないワイシャツとアンダーシャツを脱ぐと、乱暴にスラックスも脱ぎ捨てて素っ裸になり、風呂場に行ってシャワーを浴びた。

 汗を流すと、大分気分はマシになった。悪くない、と僕は思った。悪くない。

 時計を見ると、十一時半だった。今日は休みを取ろう。会社に電話を入れようと受話器を取り上げようとすると、留守電のメッセージランプが点滅していた。再生ボタンを押すと、母の声が聞こえた。

―― えー、お米送っておきました。タマには自分で作って、ちゃんと栄養とってください。終わり。

 終わり、か。思わず笑みが浮かんだ。改めて受話器を取り上げると、会社に電話を入れて、今日休みます、と告げた。分かりました、という香取さんの無愛想な答えが返ってきた。どうやら今日は機嫌の悪い日のようだ。受話器を下ろして、これでよし、と独り言を呟くと、いつものようにコーヒーとトーストの朝食を作り始めた。


 外はむっとするほど暑かった。

 表参道で銀座線に乗り換えて、赤坂見附で降りた。時計を見ると、三時まではまだ十分に時間があった。本を読みながらサブウェイで昼食をとり、時間をつぶした。

 急な坂道を降りて、またそれを上ったところに目当てのレコード会社はあった。自動ドアを入り、受付の女性に宣伝の相原さんをお願いします、と告げた。お約束ですか、と訊かれ、はい、と答えると、こちらにご記入ください、と訪問者帳を出されたので、それに記入した。「貴社名」というところには、ちょっと考えて、何も書かずに置いた。受付嬢はそれを見ながら内線をかけ、受話器を置くと、あちらのロビーでお待ち下さい、と左手を指差した。僕は壁に貼られたさまざまなアーティストのポスターを横目に見ながら、指差された方に歩いて行くと、だだっ広いロビーに入った。ロビーの中には点々とテーブルが置かれ、僕はそのうちの空いているテーブルに座って、相原が来るのを待った。

 煙草を吸いながらぼうっと辺りを見渡すと、いくつかのテーブルでラフな格好のいかにも業界人という人間たちが打ち合わせをしていた。隅の方では取材か何かだろうか、派手な格好をした、どこかで見たことのある若い女の子が、ポーズをつけて写真を撮られていた。何もかもが活気に満ち溢れているように見えた。僕はごみごみとした自分の会社と、無気力な坂崎や小森の顔を思い出し、えらい違いだなあと思った。そして、アサコもこういう世界にいるのだな、とふと思った。

 煙草を灰皿で揉み消していると、「安川さんですか?」という声が聞こえた。

 見上げると、ジーンズにポロシャツという格好の若い男が、システム手帳と資料の束を持って爽やかな笑みを浮かべて立っていた。僕が「はい」と答えると、男は「相原です。お待たせしました」と答えた。僕は相原のいかにも業界人という格好を見て少々気後れを感じた。いつもの癖でネクタイを締めてスーツを着てきてしまったが、もっとラフな格好にすればよかったな、と思った。

 相原は、本山さんの写真とは違って、ウェーブをかけた茶髪になっていた。切れ長の目に鼻筋の通った顔はやっぱりビジュアル系だな、と思った。それに思っていたよりも若く見えた。考えてみれば僕よりひとつかふたつ年下なので当たり前だ。その茶髪の前髪をかきあげながら、相原は「部屋を取ってありますので、こちらにどうぞ」と先に立って歩き始めた。僕は立ち上がってその後をついて行きながら、やっぱり全然似てないじゃないか、と思っていた。

 途中で書類をいくつか抱えた垢抜けた女の子が通りかかって、相原と微笑みながらなにごとか言葉を交わしていた。気のせいか女の子の顔は上気しているように見えた。僕は立ち止まってその様子をぼうっと見ながら、こいつはモテるんだろうな、とぼんやり思った。

 相原はロビーの片隅にある、試聴室と思われる部屋に僕を案内した。扉は防音になっているのか、やたらと分厚い扉になっていた。中には六人がけのテーブルと椅子と、オーディオセットが一通りと、アップライトのピアノが置いてあった。

 相原はテーブルの真ん中の椅子を指で示し、どうぞと言って、自分は反対側の椅子に座った。僕が腰を下ろすと、先程の女の子が失礼します、と言って入ってきて、アイスコーヒーをふたつ、テーブルの上に置いた。女の子が分厚い扉を閉めて出て行くと、中は防音室らしい息苦しいような静寂に包まれた。

 僕は無性に煙草が吸いたくなった。「ここって禁煙ですか?」と訊くと、相原は「あ、平気です」と言って、部屋の片隅からアルミの灰皿を持ってきてテーブルの上に置いた。僕はほっとして煙草に火を点けると、ふうとひとつ煙を吐き出した。

 相原はシステム手帳を開くと、遅くなりました、と言って名刺を差し出した。僕はそれを受け取ると、先日作ったフリーライターの肩書きの名刺を差し出した。

 相原はアイスコーヒーをひと口すすると、僕の名刺を手にして例の爽やかな笑みを浮かべて言った。

「それで、どのアーティストの取材ですか?」

 僕は相原のどこから見ても今風で自信たっぷりの笑顔を見ながら、こいつのためにテンコが死んだのか、とぼんやりと考えていた。

 あの、ともう一度相原は僕に声をかけた。僕はようやく我に返った。煙草を一度深く吸い込んで吐き出すと、僕は腹を据えた。

「亡くなった川島さんのことです」

「えっ?」

 相原は呆気に取られた顔をした。

「だから、亡くなった川島さんのことです」

 相原はせわしなく目を泳がせると、自分も煙草に火を点けながら言った。

「それってその、学生時代の」

「そうです」

「失礼ですが、彼女とはどういった御関係で」相原は不審の色もあらわにして言った。

「友人です、ただの」

 僕がそう答えると、相原はほっとしたようだった。先程よりリラックスした様子が目に取れた。煙草を灰皿にとんとんと叩くと、前髪をかきあげながら言った。

「それでしたら、僕はただの先輩後輩の間柄で」

 僕はちょっとむっとした。なんだこいつは? 僕はなんでこんな奴と会おうなどと思ったのだろう。僕は煙草を灰皿に押し付けて消すと、両肘をテーブルにつき、ネクタイを緩めて「ねえ」と声をかけた。「きみってゲイなの?」

 相原はぎょっとしたように目を見開くと、明らかに動揺した様子で言った。

「な、何言ってるんですか」

 僕は目を細めて、もう一度言った。

「ゲイなの?」

「違いますよ。誰が言ったんですか、そんなこと」

 相原はむっとしたように煙草を灰皿に押し付けた。

「テンコ」

 僕がそう答えると、相原はうざったく垂れ下がる前髪の間から、上目づかいにこれ以上ないほど目を見開いた。

「何言ってんですか?」

「だからテンコがそう言ったんだよ」

 相原はうっすらと汗を浮かべながら、テーブルの上に身を乗り出した。

「あんたさ、何言ってんだよ。あいつはもう死んでんだよ。だいたい、女と別れるのに」

 僕はそこで思いきり相原の顔の真ん中めがけて拳を叩き込んだ。うっとうめいて相原は椅子ごと後ろに倒れ込んだ。

「な、何を」

 驚いて目を見開いた相原の鼻から、つーっと鼻血が流れた。僕は相原の名刺をポケットに押し込んで立ち上がった。

「どっちでもいいや、もう」

 茫然としている相原にそう言い残すと、僕は試聴室を出た。そのまま受付を通り過ぎて自動ドアを出ると、むっとする暑気に立ち止まった。ネクタイをはずして上着のポケットに突っ込み、上着を脱いで手に持った。照りつける太陽を見上げて目を細めると、上着のポケットから相原の名刺を取り出して手のひらで握りつぶし、玄関先に捨てた。


 嫌な感じだった。炙るような陽射しの下を赤坂見附の駅目指して歩きながら、僕はやり切れない思いを覚えた。それは相原に対する嫉妬と言うよりも、絶望に近かった。もしかしたらそれは、テンコが自らの命を絶った日に感じたものに似ているのかもしれない。

 銀座線に乗ると、渋谷で降りた。

 僕はアテもなく渋谷の町を歩き、気がつくと大きな書店に入っていた。何をしたらいいのか分からなかった。ぶらぶらと棚に並ぶ本を眺めながら店内をさまよった。僕は小さいころから本屋というものが好きだった。本を読むのが好きだった。本屋の書棚にずらっと並ぶ本を眺めていると、そこには全てがあるように思えた。過去も未来も、そして夢さえも。本を書くのが夢だった。自分の本が書店の棚に並ぶのが。だから出版社に入った。僕の未来。僕の夢。それはいったいどこにあるのだろう?

 気がつくと新書のコーナーの前に立っていた。ぼんやりと棚に並ぶタイトルを眺めた。鬱病、という文字が目に入った。テンコが鬱病になったと僕に話したことを思い出した。僕はその本を手に取ると、レジに足を運んだ。

 冷房の効いた書店を出ると、ことさら蒸し暑さが応えた。東急本店通りの信号を渡ると、とにかく喫茶店にでも入ろうと思った。道玄坂に抜けると、例の二階にある喫茶店に入った。

 濃いコーヒーをすすりながら、相原のことを考えた。なんであんなことをしてしまったのだろう? 僕は相原を殴ってしまったことではなく、相原に会いに行ったことを後悔した。つまらん男だった。僕はそれを知りたくて会いに行ったのだが、いざ知ってみると、後には後悔と嫌な後味だけが残った。あんな男のためにテンコが死んだと思うと、それはどうしようもなく不条理なことに思えた。僕はやり切れない思いで胸が詰まりそうになり、煙草に火を点けた。

 ふと僕はぞっとする思いに捕らわれた。僕はもしかして相原を殴ることによって、テンコのこの世に残した思いを晴らしてしまったのだろうか? いつか考えた、テンコが地縛霊だとすると、そしてその原因が相原にあるとすると、僕がやったことでテンコはもうこの世に現れる必要はないのではないか? 考え過ぎだ。僕は頭を振ってその考えをアタマから追い払った。また相原に対する怒りが込み上げてくる。あいつのせいでテンコはもう年を取れない。

 でもわたしは年を取れないの。

 テンコの悲しそうな目がアタマに浮かんだ。僕は煙を溜息と共に吐き出した。そして僕は年を取ってしまう。いつかよぼよぼの年寄りになってしまう。僕の未来。僕とテンコの未来。切なさと同じ分量の絶望とがこみ上げてきて、僕は両手で顔を覆った。

 傍らに置いた、さっき買ったばかりの本を手に取った。ぱらぱらとページをめくった。もしかして、僕も鬱病になりかけているのかとちらっと思った。そういえば六時に医者を予約してあったことを思い出した。鬱病。医者。テンコもそうやって。

 そのとき、それは天啓のようにアタマに閃いた。それは素晴らしい考えのような気がした。僕の未来は輝かしいものに思えた。すぐそこにある未来。そして永遠。僕のとるべき道はそれしかないように思えた。アドレナリンが身体中を駆け巡るのを感じる。

 時計を見た。六時まではまだ時間がある。僕は冷めかけたコーヒーをぐいと飲むと、本のページに目を走らせた。


22.


 受付に保険証を出して、待合室の椅子に座った。それは待合室と言うよりも、ちょっとしたカフェのような、やたらと洗練された部屋だった。壁の色ひとつ取っても、欧米の建物を思わせる色使いで、うるさくない程度に趣味のいい抽象画がいくつか壁にかけてあった。値の張りそうな書棚にスノッブな雑誌がコーディネイトされて置いてある。音量を抑えたニューエイジミュージックが流れる中、木のテーブルが三つ、おのおの余裕をもって配置されており、順番を待つ患者が出来るだけ他の患者が気にならないように配慮されている。これだけインテリア・コーディネイトされた医者の待合室というのも初めてだ。

 僕はそれらを物珍しげに眺めながら、神経を扱う医者というものはこういうところにも神経を使うのだな、と思った。精神科というと、田舎育ちの僕にとってはやたらと敷居の高い、入りにくいところという印象があったが、先週電話したときに感じたように、やたらと繁盛しているようだし、いまどきはそれだけ精神を病んでいる人が多いのかもしれない。

 僕はもう一度本で読んだ鬱病とパニック障害の症状をアタマの中でおさらいして、最初に書いてくださいと渡されたクリップボードのアンケート用紙に適当に症状を書き込んで受付に戻した。所在なげに待っている間に、他のテーブルで待つ患者をちらっと見ると、気のせいか少々神経質そうには見えるが、全く普通の人たちだ。僕が思い描いていたキチガイ病院のようなところとは雲泥の差で、名前の通りにクリニック、というのが正しいように思われた。

 僕は一度トイレに入って、鏡を見た。トイレも完璧に掃除されていて、完璧にコーディネイトされていた。鏡に映る自分の顔は相変わらず頬がこけてげっそりしている。もしかして健康そのものに見えたらどうしようかと思ったが、これなら安心だ。

 二十分ほどして、僕の名前が呼ばれた。診察室に、失礼します、と言いながら入った。そこは診察室というよりも、欧米の学者の書斎のようだった。実際、壁一面が書棚になっていて、部屋の真ん中に大きな書斎用の木の机が置いてあり、その向こうの椅子に、ラルフローレンのポロシャツを着た三谷幸喜そっくりの医者が愛想よく微笑んでいた。

 どうぞ、と言われて僕は机の前に置かれた椅子に腰を下ろした。三谷幸喜そっくりの医者は、先程僕が書き込んだクリップボードを手に、どうされました、と微笑んだ。僕はなるべくこの世の終わりのような表情を作ると、眠れないんです、と言った。いつごろからです、と問われて、二週間ぐらいになります、と沈痛な表情を作って答えた。それと、と僕は続けた。人が隣に座ると異常に圧迫感というか、ストレスを感じるのです。僕がそう言うと、医者はにこやかに微笑みながら、なるほど、と言った。それで、と僕は視線を落として苦悩とはこれだというような表情をしながら、数年前からときどきパニックの発作が起こるのです、と言った。数ヶ月に一度、とてつもなく死の恐怖に襲われて、不安で叫んでしまったりするのです。三谷幸喜そっくりの医者は少し同情するような顔で、なるほど、と言った。あと、と僕はさらに続けた。ときどき息が苦しくなって呼吸が出来なくなったりすることがあるんです。あの、僕は鬱病なのですか? と訊いた。

 三谷幸喜そっくりの医者は、眼鏡をちょっといじりながら、ちょっと早口に、軽い鬱だと思われます。それと、パニック障害という病気です。そこで表情を和らげて笑みを浮かべると、でも心配ありません、それはからだの病気なのです、薬を飲み続けることで治ります、と言った。あの、と僕は急に思いついたという振りをして、ときどき電車に乗っていて、急に気分が悪くなって冷や汗がどっと出たりすることがあって、次の駅で降りちゃったりすることがあるんですが、それもその病気ですか、と訊いた。それはパニック障害の発作です、と医者は自信たっぷりに言った。

 それから医者は錠剤をいくつか机の前に取り出すと、お薬をいくつかお出しします、と言って説明を始めた。ひとつはからだの方から治す薬、それと心の不安を取り除く薬です、と言って、緑色のパッケージの錠剤とオレンジ色のパッケージの錠剤を示した。これを毎日朝昼晩と三回、飲んでください。それと、パニック障害の発作ですが、もしなりそうだな、という感じがしたらこれを飲んでください、ともうひとつのパッケージを取り出した。これはこの、と先程のオレンジ色の薬を示して、薬と同じものの強い奴です。緊急常備用に持ち歩いてください。それと、と医者は新たに二つ薬を取り出して、眠れないということなので、寝る前にこの二つを飲んでください、と言った。ひとつはからだをほぐす役目で、もうひとつは眠るための薬です。睡眠薬の方はかなり強いですから、寝る直前に飲むようにしてください。それと、アルコールと一緒に飲むと記憶が飛んだりしますので気をつけてください。それじゃ、と医者はカルテにずらずらっとドイツ語か何かでひとしきり書き込んだあと、二週間分お出ししますので、それで様子をみてください、と言った。僕はそこでシステム手帳を開いて、すみません、と言った。再来週は一週間ほど出張に出るので、三週間後にしてもらえませんか。三谷幸喜そっくりの医者はにこやかに微笑むと、分かりました、じゃ、三週間分お出しします。三週間後にもう一度来てください。じゃ、お大事に。

 僕は待合室で薬が出るのを待った。

 名前を呼ばれて受付に行くと、看護婦が薬をずらっと並べて説明をした。僕は結構な量だな、と思った。看護婦が薬を全部入れると薬袋はパンパンに膨らんだ。精算を済ませて保険証を返してもらうと、僕は完璧にコーディネイトされたクリニックを後にした。


 外はどんよりと曇ってきて少しずつ薄暗くなり始めていたが、蒸し暑さは相変わらずだった。駅前のコンビニで弁当を買うと、酒屋に寄ってワインを一本買った。とぼとぼと帰り道を歩きながら、これで完璧だ、と思った。それからテンコのことを考えた。テンコが来るのを待つべきだろうか? テンコは僕のすることを止めるだろうか? 僕はやっぱり決心が揺るがないうちに決行すべきだ、と思った。これでいいのだ。これで僕らは永遠になる。未来は永遠になるのだ。都営住宅の私道を抜けると、頭上の電線には相変わらずカラスが群れていた。


 部屋に戻ると、エアコンのスイッチを入れて、服を全部脱ぎ捨てると、シャワーを浴びた。Tシャツと短パンに着替えると、茶を淹れて弁当を食べた。最後に食べたのがコンビニの弁当か、泣けるな、と思った。

 ふと思い出して、田舎に電話を入れた。呼び出し音が数回鳴って、母が出た。

「もしもし、オレ、スグル」

「米届いた?」

「届いた」

「元気なの?」

「うん。そっちは」

「元気だよ」

「父さんも?」

「代わる?」

「いやいい」

「風邪ひかないように気をつけるんだよ」

「そっちもね、じゃ、ありがとう」

「ちゃんと食べるんだよ」

 僕は受話器を置くと、キッチンの片隅に置いた、今朝届いたダンボールに目をやった。今日ぐらいは自分でつくるんだったな、と後悔した。

 ワインをコルク抜きで開けると、グラスと一緒にリビングのテーブルの上に置いた。それからソファに座り、医者からもらった薬袋の中身を出した。リモコンでテレビのスイッチを入れると、ゴールデンタイムだけあって、チャンネルを回しても歌番組やバラエティばかりだった。結局、ディスカバリーチャンネルに合わせて、アマゾンのジャングルに生息する動物たちを見ながら煙草を一本吸った。

 テレビを消すと、キース・ジャレットの「ケルン・コンサート」をかけた。何故か菱川のことがアタマに浮かんだ。携帯を手にすると、菱川にかけてみた。留守電のメッセージが流れた。発信音の後に、昨日はありがとう、とだけメッセージを入れて切った。

 さて、と。

 僕はワインをグラスに注いだ。封を切ったばかりのワインは、コンコンといい音を立てた。テーブルの上に置いた薬のパッケージからひとつずつ錠剤を押し出した。量が多くて、これはかなり面倒だな、と思った。僕は一心不乱に錠剤を出す作業に集中した。キース・ジャレットは時折唸り声を上げながら、センチメンタルにピアノを弾いた。

 錠剤を全部取り出すと、シャワーを浴びたばかりだというのに額に汗をかいていた。一ヶ所にまとめると、結構な量だった。僕は空になったパッケージを傍らのゴミ箱に突っ込むと、薬の山を混ぜ合わせた。錠剤そのものは皆白いので、混ぜるとどれがどれだか分からなくなった。僕は煙草に火を点けて、ゆっくりと煙を吐き出してから、手のひらに十個ほど錠剤を載せた。口の中に放り込むと、ワインで流し込んだ。僕は「死」というものを考えてみた。今日、あの医者に言ったことは全部が嘘というわけではなかった。僕は子供のころから死ぬことが怖くてたまらなかった。何年に一度かは、「死」というものを突き詰めて考えて、夜中にパニックに陥った。僕はもうひとつかみ錠剤をワインで流し込んだ。こうしてみると、案外怖くないな。テンコが言ってたように、人間て案外簡単に死ねるもんだ。僕は去年自殺した同級生のことを思い出した。彼とはアパートが近くて、よく一緒にメシを食った。自殺した、と聞かされて全く思い当たるものがなかった。自殺の理由は彼の家族も知らないようだった。僕らは一様に首をひねった。あいつはなんで自殺なんかしたんだろう? しかし、こうしてみると、死ぬことにそれほどの論理的な理由はいらないのだ、と思った。テンコがあれだけの理由で、あんなつまらない男のせいで死んでしまったことが分かるような気がした。自殺というものは常に理屈に合わないものなのだ。僕の場合はどうだろう? 全く理に適っているように思えた。僕がテンコと同じになるにはこれしか方法がない。僕は間違っていない。僕は永遠を手にするのだ。ぐらっと眩暈がした。僕はソファに横になると、新たな錠剤をまたひとつかみ、口に入れて、ワインを飲んだ。横になると、眩暈は一時的に治まり、気持ちがふわりとしてきた。世界が全く平和に思えてきた。僕がこれまで抱いてきたさまざまな不安が全て馬鹿らしいものに思えてきた。いろんなことに怯えてきたことも。シホードーマサコの言葉や坊主に怯えたことも。目に見えることが全て厄介事や不吉なものに思えたことも。僕は何を怯えていたのだろう? もうひとつかみ飲もうとしたが、朦朧としてきてうまくつかめなかった。テーブルの下にバラバラと何錠かがこぼれ落ちた。僕はかろうじて手に残った五錠ほどの薬をワインで飲み下した。テンコのことを考えた。テンコ。オレは間違っているのか? しかし、間違っていようが、それはどうでもいいことのように思えた。アサコのことがアタマに浮かんだ。僕はもうアサコを傷つけることも、アサコに傷つけられることもない。菱川の泣き顔が次に浮かんだ。僕はもう誰も傷つけることはない。それは素晴らしいことのように思えた。グラスのワインが空になっていたので、ボトルから注ぎ足した。十錠ほどつかむと、ワインで流し込んだ。部屋の中が歪んで見えてきた。眩暈が酷くなった。テンコ、これでいいんだよな? これでもうオレは年を取らない。テンコと同じように。僕らはもう永遠に今のままだ。これで僕らの未来は永遠になるんだ。僕はもう一度テーブルに手を伸ばした。風景が曖昧になり、ワインのボトルに触れてボトルがテーブルの上に倒れ、ひと転がりすると、床の上に血のように垂れ始めた。薬はうまくつかめなくて、僕の手は宙を切った。テンコの舌と、汗ばんでくびれた腰の感触を思い出した。世界はますます曖昧模糊となり、僕の意識は水の中を漂っているようだった。左手に持ったグラスが傾いてTシャツの上にしみが広がった。テーブルに手を伸ばすと、バラバラと錠剤が床に落ちていった。キース・ジャレットは上空百メートルぐらいのところで鳴っていた。何もかもが次第に混ざり合って行くのを感じた。僕は世界と一体になるのだ。そして未来と。あれ? と思った。テンコ、走馬灯のようにならないぞ。どうしたんだろう? 僕自身が走馬灯になっているのだろうか? 僕はいまや全ての中心だ。ここにはもう何もない。こぼれたワインも、散らばった錠剤も、開けなかったダンボールも。母さん。ここには全てがある。世界はここにある。全てが。僕は浮かんでいるのだろうか? 沈んでいるのだろうか? テンコ。


……


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