(9)

17.


 ベランダの手すりに肘をついて、日が翳って行くのを見ながら煙草を吸った。

 寝室には、まだアサコの女の匂いが残っていた。僕は日が傾くにつれて少しずつ陰影を深めて行く雲のように、自己嫌悪も増して行くのを感じた。この後味の悪さはなんだろう? 僕はアサコを傷つけてしまった。泣き腫らした目をして、肩を落として出て行ったアサコの後姿が、まだ鮮明に目に焼き付いていた。自分のせいだ、と思った。どうしてあのスパイラルカフェの時点で言えなかったのだろう? 僕はハナからよりを戻す気などなかったではないか。いたずらに彼女を傷つけてしまった、と思った。この優柔不断な性格のせいで。手にした煙草の先から、長くなり過ぎた灰がぽとりと落ちた。一年前、自分がそれ以上にアサコから深い傷を受けたことなど、どこかに行ってしまっていた。どこかでカラスがカア、と鳴いた。煙草を手すりに押し付けて消すと、駐車場めがけて放り投げた。オレは最低だ、と思った。吸殻はゆるい放物線を描いて、見えなくなった。


 久々に自分で料理した夕飯を食べ終わると、少しはマシな気分になった。食べ終わった食器を全部シンクに放り込むと、風呂場でシャワーを浴びた。頭からシャワーを浴びながら、もうアサコのことは忘れよう、と思った。今日身体に沁み付いたアサコの匂いを全部流してしまおうと、もう一度全身に石鹸を塗りたくった。

 バスタオルで頭を拭きながら、寝室に入ると、気のせいかまだアサコの匂いが残っているような気がした。僕はエアコンを切ると、腰にバスタオルを巻いて、窓を全開にした。ゆるやかな風が吹いている。机の上から煙草を取り上げると、一本抜いて口にくわえ、ジッポで火を点けた。ベランダに出ると、外はもう日が落ち切っていた。改めて見ると、夜でも雲がはっきり見えることに気づいた。それに比べて、星の数は数えるほどしか見えない。やっぱり東京の空だな、と思った。

 煙を夜空に向かって吐き出しながら、ふと思った。考えてみると、この一週間、やたらといろんなことが起きているように思えた。テンコが僕の部屋のドアチャイムを鳴らしてから。突如として忘れかけていたアサコが現れて、そして去って行った。菱川果林に本山加奈子。やっぱりこれはシホードーマサコが言うように、女難なのだろうか? そして、それを呼び寄せているのは、テンコなのだろうか? 考え過ぎたぞ、スグル。僕は自分に言い聞かせた。テンコがこのゴタゴタを呼び起こしたにしろ、それに自ら飛び込んでいるのは僕自身なのだ。これは自分自身が望んで飛び込んでいることなのだ。アサコを傷つけたのも、自分自身の性格が生んだ必然なのだ。そう思いながらも、自分でも気づかないうちに全てを飲み込んでしまうような、大きな流れの中にいるような気がした。


 ドアチャイムが鳴ったのは、十時を回ってからだった。僕はドアスコープを覗くこともなく、鍵を回してドアを開けた。そこには想像通り、テンコが両腕を組んで、頬を膨らませて立っていた。

「ごめん」

 僕は先に謝った。僕にはなんとなく分かった。テンコには少なくとも、この部屋で起こったことは分かるのだ。テンコは膨れっ面のまま、黙って靴を脱ぐと、つかつかと部屋に入っていった。ドアを閉めて振り返ると、テンコは寝室のベッドに腰をかけていた。僕は、申し訳ない、という言葉を顔中に貼り付けると、寝室に入っていった。

 机の前の椅子を百八十度回転させて、テンコと向かい合うように座ると、もう一度「ごめん」と言った。テンコは膨れっ面をやめて、悲しげな顔をして言った。

「そんなに謝ってくれなくてもいい」

「どうして?」僕は身を乗り出して訊いた。

「たぶん、わたしのせいだから」そう言ってテンコはうつむいた。

 僕はさらに身を乗り出して、テンコの額の生え際にキスして言った。

「オレのせいだよ」

 テンコは激しくかぶりを振ると、僕にしがみついてきた。そして、ごめんね、と言った。

「なんでテンコが謝るんだよ」

 テンコはそれには答えずに、僕の腰に顔を埋めると、僕の短パンに手をかけて下ろし、ペニスをくわえた。僕は一生懸命舌を動かすテンコの頭を見下ろしながら、何か切ないものを見ている思いがした。

 テンコはペニスから一旦口を離すと、顔を上げて「わたしだって出来るんだから」と言った。その目には涙が光っていた。テンコは固く勃起した僕のペニスをふたたびくわえると、激しく舌を絡めて、頭を前後左右に振った。僕は目を閉じて、その快感にしばらく身を委ねた。

 僕らは何度も体位を変えて交わった。僕は二度射精した。二度目は彼女にせがまれて、口の中に射精した。テンコは喉を鳴らしてそれを飲み込んだ。

 終わった後、お互いに全身に汗を浮かせながら、僕らは抱き合っていた。僕の胸に頭をもたせかけたテンコの首筋に、ほくろをひとつ見つけて僕はそれにキスをした。

「ねえ」

 テンコが呟いた。僕はテンコの髪を撫でながら、なに、と訊いた。

「もうすぐ誕生日なの」

「テンコの?」

「うん」

 テンコは上半身を起こして僕を見下ろすと、唇と左耳と右の眉毛にキスをした。それから泣き顔のように眉をひそめて言った。

「でもわたしは年を取れないの」

 それは本当に悲しそうな目だった。僕は彼女の両頬を手で挟んで引き寄せると、唇を重ねて舌を絡ませた。長いキスが終わると、テンコは僕の胸の上に顎を乗せて言った。

「スグルの誕生日っていつ?」

「来月の二十日」

「それまで一緒にいられるかな?」

「いられるさ」

 僕はそう答えてみたものの、言い知れぬ不安が胸の中を埋めていた。テンコの目から涙が一粒こぼれ落ちた。


「もう行かなきゃ」

 そう言うと、テンコは服を着始めた。僕は上半身を起こすと、「どうしても?」と尋ねた。

「どうしても」そう言ってテンコは寂しそうに笑った。

 着替えを終わると、テンコはじゃあね、と言って玄関に向かった。僕はベッドの中からその背中に声をかけた。

「明日も来るだろ? テンコ」

 テンコは振り返ると、うん、と言って満面に笑みを浮かべた。そして、ドアを開けて夜の中に帰って行った。

 僕はベッドのヘッドレストに上半身を寄りかからせると、煙草に火を点けた。カーテンの隙間から漏れる月明かりの中に、うっすらと煙が漂った。僕はそれをぼんやりと見つめながら、さっきテンコが口にしたことを考えていた。

 でもわたしは年を取れないの。

 それはいつか自分も考えたことだった。このままでは自分だけどんどん年を取って、いつかはよぼよぼのジジイになってしまう。テンコはいつまでも今のテンコのままだ。それは考えれば考えるほど切ないことだった。僕は知らぬ間に自分の頬を涙が伝っていることに気づいた。

 僕はいったいどうしたらいいんだろう?

 何もいい解決策は思いつかなかった。何か大きな川のようなものがあって、それが渡れないでいるような気がした。僕は煙草を灰皿に押し付けると、両腕を頭の後ろに組んだ。

 いずれにしろ、テンコはもう死んでいるのだ。

 僕はテンコが屋上で語った自殺の理由を思い返した。それは考えようによっては、酷く馬鹿馬鹿しい理由のようにも思えた。しかし、いったいどれだけの人間が、納得の行く理由をもって自殺していると言うのだ。そもそも人生を途中で終わらせてしまおうなどと考える人間は、傍から見れば不条理の中でもがいているようなものだ。ちょうど今の僕のように。

 僕のように?

 何かそこに糸口のようなものが垣間見えた。しかし、それはあまりにも頼りなくて、すぐに消えてしまった。僕は諦めて煙草をもう一本くわえて火を点けた。

 煙を吐き出しながら、テンコを自殺に追いやった相原という男のことを考えた。本山さんが持っていた集合写真の顔を思い浮かべた。テンコがあんな男の子供を何故産みたいと思ったのか、僕には理解出来なかった。それは、テンコが自らの命を絶ってしまったことと同様にどこか曖昧で不可解なことだ。しかし、恐らくそれはそういうものなのだ。僕は男であり、けして身篭った者の気持ちは分からない。灰皿に灰を落とすと、もう一度深く煙草を吸い込んで煙を吐いた。いつかの夜、テンコが地縛霊だとしたら思い残したものはなんだったんだろうと考えたことを思い出した。それがあの相原という男のことだとしたら、くだらな過ぎる。そう考え始めると、むかむかと腹が立ってきた。テンコを死に追いやった男。僕とテンコの間に大きな川を作ってしまった男。そして、テンコが産みたいと思った子供の父親。僕は無性に腹が立った。恐らくそれは嫉妬であり、自分が何者ともしれない男に嫉妬していることにも腹が立った。一度会ってみないと気が済まない。とにかくどんな奴か見てみたい。そう思い始めると、それは抑えようもない欲求として僕を突き上げた。僕は苛立たしげに煙草を灰皿に押し付けると、ベッドから起き上がってカーテンを開けた。外はそろそろ白み始めていた。鳥の鳴く声が聞こえる。もう眠れそうになかった。キッチンに行ってコップにミネラルウォーターを満たすと、ごくごくと喉を鳴らして飲んだ。

 もはや一日が始まりかけている。もう月曜日なのだと思うと僕はやり場のない焦燥を感じた。また一週間が始まり、僕はいつものように会社に出かけ、仕事をし、時折ちょっとだけさぼる。それを繰り返して僕は年を取って行く。僕はもう一杯水を飲んでから、Tシャツと短パンを穿いて、ゴミ袋に部屋中のゴミを詰め込むと外に出た。昇り始めた太陽が空を染め始めていた。一階まで降りると、マンションの脇のゴミ置き場にゴミ袋を置いた。カアという声と羽音が聞こえて僕は振り向いた。マンションの角の電信柱に、そこから伸びる電線に、そして隣家の壁の上に、無数とも思えるカラスがとまっていた。僕はひとつ身震いをすると、部屋に戻った。

 

18.


 奇跡的に目覚ましの音で目が覚めた。気がつくとまたベッドにもぐり込んで寝てしまったようだ。寝不足のせいで頭痛がする。今日は隔週の月曜日に行う会議のある日なので、遅刻するわけにはいかない。油断すると遠ざかって行く意識を無理やり引き戻すと、ベッドからよろよろと起き上がった。

 

 ホームで電車を待っている間も、眠気でくらくらした。ようやく構内に電車が入ってくるのをホームの端で見つめていると、突然眩暈がした。足元がふらつき、ぐらりと前方によろめくと、線路が目に入った。電車の警笛が大きく鳴った。僕は体勢を立て直すと、どっと冷や汗をかいた。

 いつもに増して混み合う田園都市線の吊革に捕まりながら、窓に映る自分の顔を見た。それは酷くげっそりとやつれていた。おまけに目の下に隈までできていた。ふとシホードーマサコのことがアタマに浮かび、これが死相というものだろうかと思った。

 必死の思いで辿り着いた割には、会社に着いてみるとまだ二三人揃っていなかった。部長の坂崎は、先に行ってよう、とその場にいる者に声をかけた。営業部の会議と言っても、せっかくある会議室を使わずに、会社の裏手にある喫茶店で行うのが習慣になっていた。おまけに、みんなでモーニングサービスを食べる、というのも習慣になっていた。要するに、どうせ会議をやるなら経費で食べながらのんびりやろう、ということらしかった。頭数が揃った時点で、適当にひとりずつそれまでの経過を報告して、それから今後の予定を確認すると、会議らしき部分はあっという間に終わった。後はおのおのスポーツ新聞を読んだり、だべったりしてだらだらと昼近くまで過ごす、というのがこの部署の会議だ。僕は早速目の下の隈のことをみんなに突っ込まれたが、土日に酷い風邪ひいちゃって、となんとかごまかした。僕は今週の予定をシステム手帳に書き込みながら、明日の夕方に医者の予約を入れていたことをようやく思い出した。そう言えばそうだった。どうしよう。いまさら自分が幻覚を見ているかも、などと相談してもしょうがない気がした。僕の中ではとっくに幻覚ではない、という結論が出ている。まあ、放っておくか、と僕はシステム手帳を閉じた。

 昼近くなって会社に戻ると、眠気がどっと襲ってきた。トイレで顔を洗うと、少しはマシになった。一緒にメシ食いに行こうという小森たちの誘いを断って、大方が出払ってから独りで昼食に出た。会社の人間に出くわさないように、六本木の交差点を越えた裏手の方の喫茶店に入った。ひとまずランチを頼むと、店内にある電話ボックスに入った。備え付けてある電話帳を開くと、目当ての番号を探し出し、ブースの中に置いてあったアメリカンエキスプレスのメモに書き留めた。それを破ってポケットに入れると、席に戻ってランチを食べた。

 食後のコーヒーを飲みながら、ポケットから先程のメモを引っ張り出し、携帯の番号ボタンを押した。通話ボタンを押して呼び出し音を聞きながら時計を見ると、一時ジャストだった。昼休みでいないかもしれないな、と思っていると、電話が繋がった。受付嬢らしき女性の声が出た。僕は名前を告げて、宣伝部の相原さんをお願いします、と言った。お待ち下さい、と返事があって、保留音の代わりに新曲の宣伝が流れた。僕はナントカというバンドの宣伝文句を聞きながら、コーヒーをひと口飲んだ。程なく、先程の女性の声が出て、申し訳ありません、相原はただいま会議中でございます、と答えた。何か伝言がありましたら、という女性の声に、後程またかけ直します、と言って電話を切った。ふうと息をひとつ吐いた。相変わらず眠気は襲ってきたが、それ以上に今日の僕はアドレナリンが全身を駆け巡っていた。


 どうやらようやく梅雨が明けたらしい炎天下を歩いていると、くらくらと眩暈がした。僕は門前仲町の駅前のガードレールに腰を下ろすと、ハンカチで額の汗を拭った。煙草をくわえて火を点けると、時計を見た。三時だった。携帯を取り出すと発信履歴を呼び出して、相原の会社にかけた。先程と同じ女性の声で、お待ち下さい、と言われ、また同じプロモーションが流れた。

「はい、相原です」

 今度は繋がった。いかにも演劇をやっていた、という通る声だった。

「安川と申します」

「失礼ですが、どちらの」

「フリーのライターです。取材をお願いしたいんですが」それから僕は音楽雑誌の名前を挙げた。「明日の午後はどうです?」

「分かりました。三時ごろだったらなんとか…… あの、アーティストはどの」

「じゃあ三時にそちらにお伺いします」僕は間髪を入れずに言った。

「分かりました」相原は声に少々戸惑いの色を交えながらも答えた。

 僕は相手に深く突っ込まれないうちに電話を切った。煙草を深く吸い込んで、安堵の息と共に煙を吐き出した。さてと、と声に出して腰を上げようとすると、携帯が鳴った。ディスプレイを見ると、菱川からだった。そこで僕はようやく昨日のメールを思い出した。通話ボタンを押すと、菱川の早口な声が聞こえてきた。

「もしもし、まさか忘れてないでしょうね?」

「まさか」

「ならいいけど。どうする? わたしは七時過ぎなら大丈夫だけど、どこかいい店知ってる?」

「そうだな…… そしたら七時半に渋谷でどう?」

「いいわよ。渋谷のどこ?」

「えーと、モアイ像の前」

「オーケイ。じゃ、七時半に」

「じゃあ」

 通話ボタンを切ると、僕は大きなあくびをひとつした。


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