(8)

15.


 公団住宅の間の私道を通り抜けていると、頭上でカアという声が聞こえた。見上げると、いつかと同じように電信柱や電線の上にカラスの群れがとまっていた。僕は背筋が寒くなるのを覚えて、足早にそこを通り過ぎた。通りに抜けるところで、ふと足が止まった。いつぞやテンコが飛び出してきたところだ。結界、という言葉が何故かアタマにふと浮かんだ。もしかしたらこの通りを越えると、何かの敷居をまたぐように違う世界に入ってしまうのだろうか、とふと考えた。馬鹿馬鹿しい。僕は首を振ると、うつむきながら通りに一歩足を踏み出した。突然、キーッという凄まじいブレーキの音が聞こえた。驚いて顔を上げると、目の前にトラックがいた。窓が開いて、中年の男が顔を出し、馬鹿野郎、気をつけろ、と罵声を浴びせてきた。僕が一歩退くと、トラックはふたたびエンジンをかけて走り去って行った。遅れ馳せながらどっと冷や汗が出てきた。

 部屋に着くと、エアコンのスイッチを入れてから、薬缶を火にかけた。ブラウンのミルのスイッチを回すと、例によって派手な音を立ててコーヒーの豆が挽かれていった。僕は鞄からシステム手帳を取り出すと、本山さんから借りた写真を、韓国製スリードアの冷蔵庫の真ん中にマグネットで留めた。湯が沸くまでしばらく写真の中で笑いかけるテンコを見ていた。

 淹れたてのコーヒーをすすりながら、もう一度冷蔵庫の前に立って写真をまじまじと見た。何度見ても、どこから見てもテンコだった。僕が抱き締めて、そしてキスしたのは、確かに川島典子だったのだ。僕がこうやって現れるのを待ち焦がれているのは、もう既に死んだ人間なのだ。

 なんてこった。

 僕は死んでしまった人間に恋してしまった。もしかしたら僕はとんでもない馬鹿者なのだろうか? それとも、これがシホードーマサコや、例の坊主の言う、悪霊に取り憑かれた状態なのだろうか? この今の状態が災いって奴なのだろうか?

 僕には何も分からなかった。自分のことなど分かりたくもなかった。ただ、この部屋に間違いなくテンコは現れた。僕が知りたいのはテンコのことだ。僕とテンコのことだ。僕らはこれからどうなるのだろう?

 気がつくと、コーヒーを飲み干していた。煙草を吸おうとポケットを探ると、パッケージは空だった。小銭入れを持って、煙草を買いに行くことにした。携帯を一度手にしたが、結局部屋に置いていくことにした。今日はもう携帯はうんざりだった。

 歩いて三分ほどのコンビニに辿り着くと、マイルドセブンライトを二箱と、それからペプシのペットボトルを買った。明るいコンビニの店内は、僕に現実というものを改めて思い出させるようだった。

 コンビニから戻り、ドアに鍵を差し込んで鍵を開けようとしたが、そこでふと思い直して、階段を上って屋上へと上がった。誰もいない屋上はやけに殺風景だった。僕は通りと反対側の南側の手すりにもたれて、ペプシを飲んだ。見上げると、もう少しで満月になりそうな月が輝いていた。

 暑い夜だった。もうすぐ本格的な夏が始まる。今年の僕の夏は、どんな夏になるのだろう?

 僕はペプシをもうひと口飲んだ。

「何してるの? こんなとこで」

 後ろから声が聞こえた。何故か僕はそれほど驚かなかった。先程ここに上がる階段を上りながら、ここで待っていれば彼女は現れる、という気がしていた。

 僕は振り向いて笑った。

「待ってた」

 テンコは僕の隣に来ると、並んで手すりにもたれて、月を見上げた。僕も一緒に月を見上げた。テンコは僕の手を握ってきた。僕は感触を確かめるように指を絡めて、それからテンコの額にキスをした。

「なあ」僕が声をかけると、テンコは「ん?」という顔で僕を見つめた。「今日本山さんにあったよ」

「カナコに? ヘンな子だったでしょ」

「ああ、ヘンな子だった」

「スグルはカナコのタイプだからな」そう言うと、テンコは握った指にぎゅっと力を込めた。

「なあ」僕は月を見上げたまま言った。

「なに?」

「相原って奴がそんなに好きだったのか?」

「カッコよかったのよ。でもカッコだけだった」

 そう言うと、テンコは僕の手を握ったまま、下を向いて足元のコンクリートを蹴った。

「なんで自殺なんかしたんだよ?」

 僕がそう尋ねると、テンコは夜空を見上げて、遠い目をして言った。

「なんでかなあ」

 僕は絡めた指に力を入れて、何も言わずにテンコが話してくれるのを待った。ほんのりと涼しい風が吹いてきて、テンコの髪を揺らした。

「死にたくなっちゃったのよ」テンコは片手で髪を掻き上げた。「最初はね、有頂天だったのよ。あいつは演劇部でも一番人気だったし。なんか信じられなかった。付き合ってくれるって言ってくれたとき。好きだって言ってくれたのよ」

 僕はとつとつと語るテンコの声を聞きながら、何故か僕とアサコのことを思い出した。

「だから堕ろしたのよ」

 僕ははっとしてテンコの横顔を見た。その目には涙が滲んでいるようにも見えた。

「就職が決まって、もう卒業するって段になって、あいつは急に冷たくなった。喧嘩ばかりするようになった。そして、あれはいつだったかな、三月の初めごろかな、あいつが言ったのよ、オレは本当はゲイなんだ、だからきみとはもう付き合えないって」

 カラカラと下の道を自転車の通り過ぎる音が聞こえた。僕はテンコの手を握っていない方の手で、ペプシをひと口飲んだ。そのままテンコにペットボトルを差し出すと、彼女はありがと、と言って喉を鳴らして飲んだ。

「なんか悲しかったなあ。それから悔しくなった。何故だか分からないけど、産めばよかったって思った。毎日毎日、そればかり考えてた。そしたらわたし、眠れなくなっちゃったのよ」

 そこでテンコはペプシをもうひと口飲んだ。僕は空いている方の手で、買ってきた煙草のパッケージを取り出すと、口で封を切って、一本くわえて火を点けた。ジッポの炎が風で揺らめいた。

「それで医者に通い始めたのよ。医者は鬱病だって言った。鬱の薬と、眠るための睡眠薬をもらった。それでようやく眠れるようになったのよ」

 テンコは弱々しく微笑んだ。僕が煙をゆっくりと吐き出すと、それは微かにたなびきながら駐車場の向こうに流されていった。

「医者に通うようになって、わたしはようやく普通の生活を送れるようになった。四月に入って、学校がまた始まって、あいつはもういなくなったし、あいつのことは忘れようと思った。実際、忘れかけてたのよ」

 テンコはペットボトルをもう一度傾けて、それが空になったことを確認すると、手すりの上に置いた。

「それがあの日、見ちゃったのよ。学校の帰りに渋谷に寄って、道玄坂で。あいつが見知らぬ女の人と手を繋いで道玄坂を上っていくのを。キレイな人だった。わたしなんかよりずっとオトナに見えた。わたしは走って地下鉄の駅に飛び込んだ。吊革に捕まりながら、泣いている自分の顔が窓に映ってた。周りの人はどうしたんだろうって顔でわたしをちらちら見てた。わたしはなんで泣いてるんだろうと思った。なんであんな奴のために泣いているんだろうって。わたしは悔しかった。泣いている自分が悔しかった。そして、なんだか分からないけど、やっぱり産めばよかったって思った。駅に着くころには、もう死ぬことしか考えていなかった。駅を降りてからのことはあんまり覚えてない。気がつくと部屋の中で座り込んでた。わたしはひとしきり泣いた。それから、医者からもらった二週間分の睡眠薬と安定剤を、冷蔵庫のビールで飲んだ。受話器を取って、短縮ボタンを押したら、お母さんが出た。どうしたの、って言うお母さんに、ごめんねって言ったところで、急に意識が遠くなった。部屋の景色がぼやけて、目の前が真っ暗じゃなくて、真っ白になってくの。ああ、わたしは死ぬんだと思った。人間て簡単に死ぬんだなって思った。死んだら、わたしが産むはずだった赤ちゃんに会えるかな、なんて考えた。それからね、よく走馬灯のようにって言うじゃない。細切れにいろんなことがアタマに甦ってきて、それがだんだん子供のころに戻って行くのよ。わたしが覚えてるのはそこまでよ」

 テンコは僕の方を向くと、はにかむように微笑んで言った。

「まったく、馬鹿よね。そんなくだらないことで死ぬなんて」

 僕は短くなった煙草を最後に大きく吸い込んで、それから足元に捨てた。

「それで」僕は吸殻をスニーカーの底で踏みつけながら言った。「会えたの? 子供に」

 テンコは弱々しい笑みを浮かべて首を左右に振った。それから僕の踏み消した吸殻をつま先で蹴飛ばして言った。

「たぶん、まだ小さ過ぎたのよ。意識もなんにも出来てなかったのよ。でも」テンコは僕の肩に頭を預けた。彼女の髪が風でなびいて、僕の頬をくすぐった。「その代わりにスグルに会えた」

 僕は肩の上にあるテンコの頭に頬を寄せて言った。

「なあ」

「なに?」

「テンコは悪霊なのか?」

「なにそれ?」テンコはくすっと笑った。

「いろんなこと言う奴がいるんだよ」

「だったらどうする?」

 テンコはそう言うと、顔を上げて僕の目を真っ直ぐに見た。僕はテンコを抱き寄せると、キスをした。僕らは舌を絡めて、吸い合った。


 僕らは手を繋いだまま、キスを繰り返しながら屋上から降りた。

 部屋の前まで辿り着くと、鍵を開けるのがもどかしかった。ドアが開いた途端に、僕らは靴を乱暴に脱ぎ捨てて、明かりも点いていない部屋に飛び込むと、そのまま暗い寝室へともつれ合うように辿り着き、ベッドに倒れ込んだ。

 僕らは慌しく服を脱ぎ捨てると、抱き合って互いの唇を貪った。左手でテンコの乳房をつかむと、それは掌にちょうど収まるくらいの、以前想像したように形のいい乳房だった。人差し指と中指で乳首を挟むと、それは固く勃起していた。右手を臍の辺りに伸ばして行くと、陰毛の下の性器に辿り着いた。そこは暖かく湿っていた。テンコは唇を離すと、背中をちょっと反らせて、微かに喘いだ。僕はテンコの唇を追いかけて、舌を入れた。テンコはそれを強く吸った。

 テンコの中は暖かかった。汗だくになった僕の背中に爪を立てて、テンコは反り返った。それから僕の腰に足を絡めて、首にしがみつくと、僕の右肩を強く噛んだ。

 僕はテンコ、と叫びながら彼女の中に射精した。

 僕らは手を繋いだまま、真っ暗な天井を見つめながら汗が引くのを待った。

 僕は顔を横に向けると、「ねえ」と声をかけた。

「なに?」

「中に出しちゃったけど、大丈夫かな?」

 テンコはくすりと笑うと、僕の目にキスをした。

「馬鹿ね、わたし幽霊よ」


 いつのまにか、僕はそのまま眠ってしまった。


16.


 蒸し暑さに目が覚めた。

 隣に目をやると、当然のようにそこにはテンコの姿はなかった。僕は上半身をゆっくりと起こすと、溜息をひとつついた。時計を見ると、正午を過ぎていた。

 ひとつ背伸びをしてベッドから起き上がると、カーテンを開けた。途端に、陽射しが一度に飛び込んできて、僕は思わず目を細めた。そこでふと、昨夜はカーテンを開け放したままだったことを思い出した。たぶん、テンコが閉めていってくれたのだろう。

 エアコンのスイッチを入れると、風呂場に行ってさっとシャワーを浴びた。バスタオルで身体を拭きながら鏡を見ると、右肩には昨夜テンコが噛んだ跡が赤く残っていた。僕はもうそれを不思議だとは思わなくなっていた。左手でその跡をそっと触ると、僕は鏡の前を離れた。


朝食と昼食が一緒になった、トーストとコーヒーの食事を済ませると、リビングのソファの上で、頭の後ろに両手を組んで背伸びをした。テーブルの上に置きっぱなしの携帯が目に入った。充電しようとそれを取り上げると、ディスプレイに着信の表示が点いていた。着信履歴を見ると、アサコからの着信が二件あった。いずれも昨夜のものだった。念のために携帯の留守電を聞いてみたが、メッセージは残されていなかった。やれやれ、と呟くと、携帯を充電器に押し込んだ。

 時計を見ると、まだ一時を回ったばかりだ。夜になるのが待ち遠しくてならなかった。これじゃあまるでドラキュラだ、と独りで苦笑した。ふと思い立って寝室に行くと、机の前に座ってパソコンの電源を入れた。

 メールソフトを立ち上げてネットに繋ぐと、メールが四通届いていた。例によってアダルトサイトの紹介のダイレクトメールが一件、それから見慣れぬメールアドレスのメールが一件、菱川から一件、それと、タイトルも発信者も空白のメールが一件。

 まず最初のダイレクトメールを削除して、次の見慣れぬメールアドレスのメールを開いた。タイトルは笑顔を表す顔文字になっていた。中身もなにやら顔文字で一杯だった。一行目を読んで、僕はげっそりした。

 本山加奈子です。今日はごちそうさまでした。その後にお辞儀をしているらしい顔文字。取材うまく行くといいですね。その後にピースサインをしているらしい顔文字。わたしはもうすぐ夏休みです。またピースサインの顔文字。でも、まだ就職が決まってないので就職活動です。泣き顔らしい顔文字。またお時間あったら、今度はわたしの相談に乗ってやってくださいね。お辞儀の顔文字。携帯いつでもオッケーでーす。笑顔の顔文字。

 その後に、名前と住所と電話番号が書いてあって、まだ下に続いているようなのでスクロールしてみると、字を組み合わせて作ったでっかいハートマークが現れた。僕は天を仰いで溜息をつくと、次のメールに移った。タイトルは「月曜日」。こちらは顔文字はひとつもなかった。一行だけのメールだった。

 菱川です。例のゴハンの件、月曜日の夜が空いてるんだけど、どうかな?

 僕はちょっと考えて、ま、仕方ないだろうな、と思って返事のメールを書いた。

 月曜日の件、OKです。

 送信ボタンを押すと、次のメールに移った。これも一行だけだった。

 ありがとう。嬉しかった。

 それだけだった。受信時刻を見ると、午前三時だった。僕はしばらくディスプレイに映る文字を眺めると、それからメールソフトを閉じた。


 タマには自分でメシでも作ろうと、駅前のスーパーに出かけた。サラダ用の野菜や、味噌汁の具を買い込むと、結局メインのおかずは焼くだけのハンバーグにした。ついでにミネラルウォーターのボトルと、朝食用のパンなども買い込み、帰りは重たいポリ袋をぶら下げて帰ることになった。

 冷房の効いたスーパーを出ると、ことさらむっと暑さが応える。もうすっかり夏の陽射しのようになっていた。スーパーの袋を持って歩くと、自然と額に汗が滲んでくる。ああ、もう夏なんだな、と改めて思った。

 マンションの入り口までようやく辿り着くと、一階にある郵便受けをチェックした。宅配のちらしがひとつと、自宅出張のファッションマッサージとホテトルのちらしがいくつか。ちなみに僕はゴミになるので新聞は取っていない。インターネットで事足りる。結局そのまま郵便受けの蓋を閉じると、ふうふう言いながら二階へと上がる階段を上った。

 二階に辿り着いたところで、僕はスーパーの袋を持ったままフリーズした。

 部屋のドアの前に、アサコがジーンズの膝を抱えてしゃがみ込んでいた。僕に気づくと、アサコは立ち上がってジーンズの尻をぱんぱんとはたき、首を傾げて、へへ、来ちゃった、と言って微笑んだ。

 僕はスーパーの袋を手に、唖然としてそれを見ていたが、「お前なあ」と言うのが精一杯だった。額から汗が一筋、つーっと流れ落ちた。


 鍵を開けながら、ま、上がれよ、と僕は声をかけた。内心ではしょうがねえなあ、と何度も呟いていた。アサコは僕に続いて玄関に靴を脱ぎながら、昨夜携帯に電話したんだよ、と言った。僕は、あっそう、と言いながら、先程の着信履歴を思い出していた。スーパーの袋を床に置きながら、冷蔵庫の写真が目に入り、僕はまずい、と思った。写真を隠すように冷蔵庫にもたれて立った。

 アサコはハンカチで汗を拭いながら、眉を八の字にして、「迷惑だった? ね、迷惑だった?」と言った。

「い、いや、そんなことないけど」そう答えながら、アタマの片隅では何言ってるんだ、スグル、びしっと言ってやれ、という声が聞こえた。しかし、僕の口から出たのは、「突然現れるからびっくりしたんだよ」という言葉だった。

 アサコは、よかったあ、と言って満面に笑みを浮かべると、床に置いたスーパーの袋を見て、ね、何買ってきたの、わたし作ろうか、と言って、ごそごそと袋の中を見た。

 僕は冷蔵庫に背中を貼り付けたまま、いいよ、自分で作るから、と答えた。

 アサコはハンバーグを手にして、僕を見つめると、不思議そうな顔をした。

「ね、何してるの?」

「別に」

「これ、冷蔵庫に入れないと悪くなっちゃうよ」

 僕は、そうだね、と答えながら、背中に回した手で写真を取ると、気づかれないようにTシャツをめくってジーンズの後ろに押し込んだ。僕はようやく冷蔵庫の前から解放されると、暑いね、と言って寝室に入ってエアコンのスイッチを入れた。アサコは冷蔵庫に僕が買ってきた野菜やらを詰め込んでいた。

 僕はキッチンに戻ると、しゃがんで冷蔵庫に向かっているアサコに、「暑いけどコーヒー飲む?」と声をかけた。

 アサコは顔を上げると、「そうだよね、スグルはいつもコーヒーだもんね。飲むよ」と言って笑顔を浮かべた。

 マグカップを二つ並べて、薬缶を火にかけると、例によってブラウンのミルで豆を挽いた。突然、アサコが後ろから背中に抱き付いてきた。僕は酷くびっくりしながら、「お、おい、暑いよ」と言うと、アサコは舌をぺろりと出して、「そうだね、ごめん」と言った。僕は「そっちの部屋にソファがあるから、そこで待ってて」と言うと、アサコは、はいはい、と言いながらようやくキッチンを出て行った。僕はふうと溜息をつくと、後ろを振り向いてアサコがいないことを確認すると、背中から写真を取り出して、食器棚の引き出しにしまった。

 コーヒーの入ったマグカップを二つ持ってリビングに入ると、アサコはソファに座って物珍しげに部屋中を見回していた。

 テーブルの上にマグカップを置くと、アサコはありがと、と言って、それをひと口すすると、おいしい、と言って微笑んだ。僕はマグカップを手に、床のクッションに腰を下ろした。

「ここ広いね」コーヒーを飲みながら、アサコは感心したように言った。「高円寺のときのボロアパートとは大違い」

「ああ、そうだね、確かに」僕はエアコンのない高円寺のボロアパートで、汗だくになってアサコと交わったことを束の間思い出し、苦笑した。

「高いでしょう、家賃?」

「それがそうでもないんだ」突っ込まれたらどうしようと、内心冷や汗をかきながら答えた。

「へえ、ラッキーじゃない」

 幸いアサコはそれ以上家賃のことには触れなかった。僕はこの事態をどうやって収拾をつけようかと考えながら、煙草を取り出して吸った。ちらっとアサコの方を見ると、アサコはマグカップを手に満足そうにこちらを見ていた。困ったことに、やっぱりアサコはキレイだった。僕は困惑を覚えて、足元に目をそらすと、煙草をせわしなく吸った。お互いに言葉を発しないと、部屋の中に妙な緊張感が漂った。僕は気詰まりを覚えて、テーブルの上からリモコンを取ると、テレビのスイッチを入れ、ワウワウにチャンネルを合わせた。ブーンと音がしてブラウン管一杯にキスシーンが映し出された。濃厚なキスだった。僕は思わずごくりと生唾を飲んで、かえって墓穴を掘ったことを悟った。目には見えないが、アサコも生唾を飲んでいる気配がこちらにも伝わってきた。

「ねえ」顔を少し上気させたアサコが先に声を発した。「隣の部屋も見ていい?」

「ああ、いいよ」僕はほっとしながら答えた。

 アサコは立ち上がると、隣の寝室へと消えた。僕は思いきり安堵の息を漏らしながら、手にした煙草がフィルター近くまで短くなっていることに気づき、灰皿で消した。

「ねえ、スグル」

 隣の部屋からアサコの声が聞こえた。僕はリモコンでテレビを消すと、「なに?」と訊き返した。

「ちょっと来て」

 今度はなんだよ、と思いながら僕は重い腰を上げた。

「なに?」

 そう言いながら寝室に入ると、僕はまたフリーズした。アサコは一糸まとわぬ姿で、机の前の椅子に座ってこちらを向いていた。

「アサコ、いったい……」

 ようやく声を発したときには、アサコは立ち上がって僕に抱きついて唇を重ね、舌を入れていた。僕のアタマは混乱の極みに至っていた。その間に、アサコは僕の短パンの中に手を入れて、ペニスをつかんだ。僕の脳の中で記憶を司る海馬は、僕の意志とは関係なく、勝手に昔のアサコとのセックスの記憶を引っ張り出してきて、ペニスを固く勃起させていた。アサコは唇を離すと、そのまましゃがんで膝をつくと僕の短パンを引きずり下ろし、勃起したペニスを口に含んだ。アサコの舌が巧みに亀頭に絡みつき、僕の脳には大量のドーパミンが溢れ出した。気がつくと、アサコの頭を両手で押さえて僕は目をつぶって快感に身を委ねていた。アサコはペニスを口に含みながら、片手で睾丸を握った。亀頭の先から根元まで舌を這わせると、また亀頭へと戻り、喉深くまでペニスをくわえた。僕は思わず、うっ、と小さく声を発した。射精寸前のところで、アサコはペニスを握ったまま口を離し、僕を見上げて、「ねえ、感じる?」と言った。

 僕はそれがテンコの声に聞こえて、目を開けてアサコの顔を見下ろした。

 そこにはテンコの顔があった。

 僕は驚きのあまり、目を見開いて後退った。もう一度見ると、そこには僕のペニスを握ったまま、驚いた顔で見上げるアサコの顔があった。アサコは「どうしたの?」と言った。僕はアサコの両肩をつかんで立ち上がらせると、「ごめん」と言った。アサコは何が起きたのか分からない、という表情で、「なにが?」と訊いた。僕はアサコの両肩をつかんだまま、アサコの目を見て言った。

「アサコ、ごめん、オレ、他に好きな子がいるんだ」

 アサコの目にみるみるうちに涙が溢れてきた。そして、声を震わせて、「そんな、酷い」と言った。僕は頬に涙をぼろぼろと落とすアサコを抱き締めると、もう一度言った。

「ごめん。ホントにごめん」

 アサコは僕の胸に顔を埋めて、しゃくり上げていた。こぶしを握って僕の両肩を繰り返し叩いた。僕はアサコの小さく震える背中を擦りながら、いつまでも、ごめん、と繰り返した。そして、これでようやく僕とアサコは終わったのだな、と思った。


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