(7)
13.
一夜明けて、吊革に捕まりながら会社に向かっていると、昨日ジャズ喫茶で考えたことがやっぱり気になってきた。自分以外の誰かに憑依している可能性。もしくは誰かの人格のひとつである可能性。一度考え始めると気になってしょうがない。僕はせめて、僕の知っているテンコが本当に川島典子本人なのか、それだけでも知りたい、と思った。彼女が一時的な存在なのか、それとも永久不変な存在なのか。
渋谷から六本木に向かうバスに乗り込んで、一番後ろの窓際に座り、窓の外を眺めながら発車するのを待った。その間にも、先程以来考えていることをどうしたら確かめることが出来るのかを考えていた。
隣に人が座るのと同時に、肩を叩かれた。
「おはよ」
見ると、同期入社で編集に配属された、菱川果林だった。
「おはよう。珍しいじゃん、こんな早く」
「今日は編集会議があるんだ」
ふーん、と僕はやっかみ半分で答えた。正直、編集に配属された彼女が羨ましかった。僕も一度でいいから、喫茶店のモーニングサービスを食べながらだらだらとやる会議ではなく、編集会議なるものに参加してみたかった。
彼女とは面接のときに隣り合わせだった。キレイな子もいるな、と僕はそのとき思った。中山美穂にちょっと似てるが、もうちょっとボーイッシュにした感じだ。彼女のからっとした性格には、なかなか好感を持っていた。
「ふふ」菱川はおもむろに僕の顔を覗き込むと、意味深に笑った。
「な、なんだよ」
「見たわよ、昨日」
「見たって、何を?」
「安川くんも案外やるじゃん、誰、あの子?」
僕は、げ、と思った。
「な、なんでもないよ。大学の同級生だよ。おまけに人妻だ」僕は、元、という接頭辞を省いて答えた。
「へー」そう言って菱川は目を細めて、それからにこっと笑みを浮かべると、「でもちょっと安心した」と言った。
「なにが?」
「なんでもない」
そう言うと、前を向き直った。バスが動き始めた。僕はふと思いついた。
「ねえ、菱川ってさ、上智だったよね?」
「そうだよ」
「何学科?」
「独文」
それを聞いて僕はちょっとがっかりした。しかし、何もないよりはマシだ。
「なあ、菱川って口固い?」
「んー、相手と場合によるな」
「この場合は?」
「もちろん」
「それってどっち?」
「固い方」
「ちょっと相談したいことがあるんだ。会議終わってから時間ない?」
「あるけど」
「じゃあメシでも一緒に食おう」
菱川はうん、とうなずくと、聞こえないくらいの声で、ちょっと嬉しかったりして、と呟いた。僕はそれを聞こえていない振りをした。女難の相、というシホードーマサコの声が、どこからともなく聞こえた。
先に東日ビルの裏手の喫茶店に入って菱川が来るのを待ちながら、どこまで話したものか、と考えた。菱川はなんとなく信頼出来る印象がある。かと言って、百パーセント話すのは考え物だ。ここはそうだな、七十パーセントぐらいかな、それも訊かれたらにしよう。そこまで考えていると、菱川がドアを開けてやって来た。彼女は笑みを浮かべながら向かい側の席に腰を下ろすと、ゴメン、会議押しちゃって、と言った。
僕はなかなか話を切り出せず、サンドウィッチを食べながら、編集の仕事ってどう、などと話していた。食べ終わって、食後のコーヒーに口をつけながら、僕はマイルドセブンライト、菱川はマルボロのメンソールに火を点けた。
「それで」菱川はテーブルに肘をつくと、訊いてきた。「相談ってなに?」
「あのさ、哲学科に友達っている?」
「いるよ、ひとり、寮で一緒だった子が」
「連絡取れる?」
「うん、タマにお茶飲んだりしてるもん」
僕はほっとしながら煙を吐き出した。
「実はちょっと頼みがあるんだ」
「なによ」そう言いながら菱川は片手で頬杖をついた。
「あのさ、哲学科の一年後輩、つまり今の四年てことだけどさ、その哲学科の四年の女の子をひとり、紹介して欲しいんだ」
菱川は目を丸くした。それから眉をひそめると言った。
「わたしに女紹介しろってわけ?」
「いや、そうとも言えるが、そうとも言えないんだ」
菱川はますます眉をひそめて言った。
「なに訳の分からないこと言ってんの?」
「つまりその、なんだ、ある人間を探してるんだ。もう死んでるんだけど」
菱川はきょとんとした顔をして、形のいい口から煙を少しずつ吐き出した。
「探偵でも始めたの? どうするのよ、死んだ人間を探して」菱川は灰皿に灰を落とすと、困ったような顔をして言った。「まあ、安川くんのためだからしょうがないけど」
僕はどこまで話したものか迷った。
「あのさ、その子はオレの今住んでるマンションに住んでたんだ」
「それで?」
「そこで自殺したんだ」
「それってつまり、安川くんは自殺のあった部屋に住んでるってこと?」
「うん」
「でもその自殺した人を探すってどういう意味?」
僕は短くなった煙草を最後に思いきり吸い込んで、灰皿に押し付けた。
「幽霊を見たんだ」
今度こそ菱川は本当に目を丸くして、唖然とした。持っていたマルボロの先から灰がぽとりとテーブルに落ちた。僕は構わず続けた。
「それでそれが本人かどうか確かめたい」
菱川はようやく我に返ったように、煙草を灰皿で消すと、溜息を短くついた。
「それってマジ?」
「マジだよ」
菱川は呆れた顔をすると、もう一本の煙草をくわえて、ライターで火を点けながら言った。
「しょうがないなあ、ホレた男のためならば、か」僕は事態をこれ以上ややこしくしないために、その言葉は聞き流すことにした。菱川は煙をふうと吐き出すと、少し身を乗り出して言った。「で、どうすればいいわけ?」
「川島典子って言うんだ、その子。その川島典子と仲のよかった子に会いたい。出来れば写真があるといいんだけど」
菱川はコーヒーをひと口飲んで、ついでにもう一度溜息をついてから答えた。
「分かった。なんとかする」
「恩に着るよ」
「でも」菱川はちょっと眉をひそめて煙を吐き出すと言った。「なんて説明したらいいの? まさか幽霊が本物かどうかなんて言えないでしょう?」
「そうだな、フリーのライターだってことにしてよ。若い子の自殺について取材してるってことでどうかな?」
「うーん、それだったら幽霊の方がマシかもしれないな…… ま、考えてみる。急ぐの?」
「うん。すまん」
「いいわよ。たぶん大丈夫よ、安川くんってカッコいいから、実際会ったらすんなり協力してくれると思うよ」
「そうかな」
「まったく、朴念仁なんだから」そう言って、菱川はちょっと頬を膨らませると、席を立ちながら言った。「アンタって案外モテるのよ。自覚ないでしょ?」
僕はなんと答えていいものか分からず、頭を掻いた。正直、今はそんな自覚をする余裕はなかった。
三時過ぎに外出するついでに、念のために「特急名刺」と書いてある店に寄り、フリーライターの肩書きの名刺を頼んだ。住所と電話は自宅のにして、携帯の番号とメールアドレスも載せることにした。夕方戻ってくるころにはもう出来上がっているとのことだった。
浅草で三軒の書店に立ち寄り、浅草線で日本橋まで戻ろうと地下鉄の入り口に向かうと、携帯が鳴った。菱川からだった。
「見つけたわよ。本山さんって子。川島さんと一番仲がよかったらしいわ。安川くんの携帯の番号教えておいたから、電話かかってくると思う」
「ありがとう。さすがに仕事が速いね」
「それから、フリーライターってことにしてあるからね、よろしく」
「恩に着るよ」
「じゃあ、今度ゴハンおごってね」
「分かった」
通話ボタンを切って、ほっと安堵の溜息をついた。
会社に戻る直前に、名刺を頼んだ店に寄ってみると、名刺はもう出来上がっていた。僕は出来上がった名刺を眺めながら、マジでフリーライターにでもなろうかな、などとちらっと思った。
タイムカードを押して、ひとりだけまだ残って相変わらずスポーツ新聞を読み耽っている坂崎にお先に失礼しますと声をかけると、会社を後にした。
バス停でバスを待っていると、携帯が鳴った。ディスプレイを見ると、見慣れぬ番号が並んでいた。
「もしもし」
「あの、安川さんの携帯ですか?」甲高い女の子の声だった。
「そうですが」
「あの、わたし、本山と申しますが」
「あ、ああ、どうも」
「あの、川島さんのことで何か取材だって聞いたんですけど」
「そうなんです。どこか時間取れますか?」
「明日の三時過ぎだったら何時でも大丈夫ですけど」
「そしたら四時でどうかな」
「いいですよ」
「場所は…… 学校は四谷だよね?」
「あ、どこでもいいです」
「じゃあ、渋谷でもいいですか?」
「はい」
「じゃあ、109の地下のカフェ・ラミル。あそこだったら携帯通じるから」
「分かりました」
「じゃあ、よろしくお願いします。あ」
「はい?」
「あの、聞いてるかと思いますが、何か写真があると嬉しいんですが」
「持っていきます」
「ありがとう。じゃ、明日」
電話を切ってから、オレもなかなか探偵の素質あるじゃないの、と思ったが、よくよく考えてみれば、これはほとんど菱川のセッティングなのだった。やれやれ、と思いながらバスに乗った。
駅を降りると、まだ日は落ち切っていなかった。考えてみれば、今は一番日が長い時期なのだ。コンビニに寄って弁当を買うと、とぼとぼと自宅に向かった。
帰って弁当を食べると、ディスカバリーチャンネルを見ながらテンコが現れるのを待った。ひとつ番組が終わり、時計を見ると九時だった。彼女が一番早く現れたのは何時だったかを思い出そうとした。確かあれは、公団住宅の陰から現れたときだから、九時半か十時近かった。後は、と考えて僕は唖然とした。数えてみると、僕はまだテンコと三回しか会っていないのだ。後は電話で話したのが一回。時間にしてみれば、ほんの数時間といったところだろう。信じられなかった。たったそれだけで、どうして僕は、もしかしたら僕らは、こうまで惹き付けられてしまったのだろう? アタマの一方では「運命」と「ヴァイブレーション」という文字が浮かび、もう片方の隅では、シホードーマサコと坊主が、一緒になって「悪いものが憑いています」と言っていたが、僕はそっちの方のボリュームを絞ろうと懸命に努力した。いずれにしろ、もっと以前から知り合っていたような気がしてならなかった。
僕は待った。
テーブルの上に携帯を置いて、ディスプレイをしばらく眺めたかと思うと、窓に近寄ってカーテンを開けてみたり、うろうろと落ち着きなく部屋中を歩き回った。終いにはコンピューターを立ち上げて、メールが届いていないか確認した。
僕は何度も時計を確認した。時計が十二時に近付くにつれ、ああ、今日が終わっちまう、と思った。昨日、坊主が僕に何やら印を切りながら呪文を唱えたのを思い出し、むらむらと腹が立ってきた。もしかしたらあのせいか? あいつがテンコを追い払ったのか? 腹立ちがようやく収まると、今度は不安が僕を襲ってきた。もしかしたらもうテンコは現れないのではないか? もうテンコには会えないのではないか? そう考え始めると、いても立ってもいられなくなり、風呂場に行ってシャワーを浴びた。いつのまにか、昨日の帰り道の途中までの思考回路になっていることに、僕は気づかなかった。
十二時を過ぎてもテンコは現れなかった。携帯も鳴らなかった。僕は洗いっぱなしの髪のまま、机の前に座り、もう一度メールをチェックした。
メールが一通届いていた。宮本からだった。
メールを開けてみると、宮本にしては珍しく、ほんの短いメールだった。
―― こんなページを見つけたので、参考までに。 宮本
その下に、サイトのアドレスが書いてあった。ブラウザを立ち上げて、そのアドレスのページを開いた。
どこかのホームページの一部分のようだった。シンプルなテキストだけのページだった。一行目にタイトルが書いてあって、「浮遊霊と地縛霊」とあった。その下に一行、「これらの霊が人間に憑依して霊障を起こす」とあった。その後に、浮遊霊と地縛霊についてそれぞれ、数行に渡って解説がしてあった。簡単に要約するとこうだ。浮遊霊は死者の霊が行くべきところに行かずに逃げ出したものである。地縛霊は、殺されたり、事故死、自殺等の変死を遂げるとなるもので、その死んだ付近の場所に縛られたものである。いずれの場合も、現世になんらかの未練を残し、特に後者の場合は自分が死んだことに気づいていないことも多い。
僕はディスプレイから目を離して考えた。テンコの場合はどちらになるのだろう? 自殺というところから考えると、地縛霊、ということになるのだろうが、地縛霊の特徴はその場所に縛られている、ということである。彼女は現に、帰り道の途中で現れた。あの公団住宅からここまでは、五十メートルぐらい離れている。ここに縛られているのなら、あれぐらい離れた場所に現れることは可能なのだろうか? それに、彼女は自分が死んでいることを知っている。次に、浮遊霊という可能性を考えてみた。しかし、彼女が何かから逃げ出しているようには見えない。テンコがいつか言った「先入観」という言葉がアタマに浮かんだ。だいたい、この分類自体が正確なものだとどうして言えるのだ? これはどうせ生きている人間の考えた分類だろう。幽霊本人が言っていることではないのだ。
しかし、と僕は考えた。引っ掛かるものがあった。もし彼女が現世に思い残していることがあるとすれば、それはなんなのだろう? そもそも、彼女が自殺した原因はなんだったんだろう? 二日目の夜、彼女にそれを訊きかけて、話がずれてしまって聞き出せなかったことを思い出した。また訊いたら嫌がるだろうか。そう考えてから、そうか、もう彼女は現れないかもしれないのだ、と思い、たまらなく寂しくなった。
僕はもう一度ディスプレイに目を戻した。いずれの場合も除霊によって成仏させることによって――
僕ははっと思い、サーチエンジンのページを呼び出し、「除霊」と打ち込むと検索ボタンを押した。ずらっと並んだページタイトルの中に、「除霊の方法」というタイトルを見つけ出し、クリックした。今度は何やら画像が含まれたページだった。真中辺りに「呪文」という文字を見つけ、そこに書いてあるものを読んで愕然とした。アビラウンケンソワカ。あの坊主が唱えていた文句だ。下の方には、手のイラストが描いてあって、印の切り方を示していた。あの坊主がやったのと同じ。
僕はあの渋谷の路地裏でのことを思い出し、くらくらした。画面の下の方に、上記の方法で霊は二度とこの世に戻ってこない、という文章を見つけ、さらに暗澹たる気持ちになった。煙草を一本くわえて火を点けて吸い込むと、煙と一緒に大きく溜息を吐き出した。
あの糞坊主、と心の中で毒づきながら画面に目を戻すと、呪文がそれだけではないことに気づいた。例のアビラウンケンソワカを唱えてから、リンビョウトウシャカイヂンレツザイゼンと唱える、とある。その際の印の切り方も図解で示してあった。さらに順番としては霊に浄土に行くことを諭し、その後でケンバイケンバイソワカと数回唱えることで除霊が完了する、とある。僕は安堵の息を洩らした。あれではまだ除霊は完了していなかったのだ。あの坊主の行なった除霊は不完全だ。そう心の中で言い聞かせながら、もう一度煙草を深く吸い込んだ。大丈夫だ。除霊はされていない。テンコは必ず現れる。そう繰り返し念じながら、ふーっと煙を吐き出して、ま、気休めみたいなもんだな、と思った。
明け方の四時まで待ったが、結局その晩、テンコは現れなかった。
14.
目が覚めると、もう十時を回っていた。どうやら目覚ましも勝手に止めてしまったらしい。そそくさと顔を洗うと、会社に電話を入れなければ、と思ったが、考えてみれば今日は土曜日だった。
例によってトーストとコーヒーの朝食を摂りながら、昨夜テンコが現れなかったことを改めて思い出し、溜息をついた。結局、昼過ぎまで部屋で大リーグの中継を見て過ごした。イチローは無安打に終わった。
四時ジャストに渋谷に着いた。早足で地下道に入り、109を目指した。喫茶店に着いたときには、五分ほど過ぎていた。いざ着いてみると、店内は女の子ばかり、それも皆似たような年頃の若い子ばかりで、どれが目当ての本山さんか分からなかった。お待ち合わせですか、というウェイトレスにはい、と答えながら、昨日着信したものを保存しておいた、本山さんの番号に携帯から電話した。すると、目の前のテーブルから、ラブサイケデリコのメロディーが流れた。あ、と僕らはお互いに声を発した。
本山さんは、榎本ナントカという女優を思わせる、小柄で茶髪の痩せた女の子だった。僕はどうも、と言って向かい側に座ると、ウェイトレスにコーヒーを頼んだ。
本山さんは、しげしげと僕を眺めた後、「思ったよりお若いですね。それに、安藤正信にちょっと似てる」と言って微笑んだ。
僕は、誰だっけ、それは、と思いながら、昨日作ったばかりの名刺を差し出しながら、「すみません、遅くなって」と言った。
本山さんは名刺を受け取って、それをしばらく見ていたが、顔を上げて言った。
「あの、わたしもライターになりたいんですけど、どうやったらなれるんですか?」と訊いてきた。
僕は思わず、へ、と言う顔をして答えに詰まり、慌ててポケットから煙草を取り出した。
「あの」本山さんは追求の手を緩めなかった。「安川さんは、どうやってライターになられたんですか?」
僕はライターで煙草に火を点けながら、ライター、ライター、ライターになるには、と必死で考えて、口から出任せを言った。
「出版社に一年ほどいて、それから独立したんです」
「へー、凄いですね、そんなに早く」
「いや、その前からバイトしてたから」僕がははは、と笑ってごまかしている間に、タイミングよくコーヒーが届き、ほっとしながらひと口飲んだ。
「それで」ここは先に訊いたもん勝ちだ、と思いながら僕は口を開いた。「川島さんのことですが」
「あ、はい」彼女は気持ち沈んだ顔になった。
「彼女とは仲がよかったんですか?」
「ええ、一年のときから同じサークルで」
「どんなサークル?」
「演劇部です。あの」
「えっ?」
「取材って、テープレコーダーとか回さなくて大丈夫なんですか?」
「ここに入れますから」そう言って僕は自分の頭を指差して、ははは、と笑ってごまかした。まったく油断がならんな、この子は、と思いながら、僕はもう一度訊く側に回った。
「それでその、自殺の原因はなんだったんですか?」
「たぶん、失恋だと思います」
「たぶん?」
「ええ、遺書とかなかったんです」
「そうですか。で、その失恋の相手というのは」
「サークルの先輩です。テンコは、あ、みんなテンコって呼んでたんです、その先輩にずっと憧れてて」
僕はテンコという呼び名を耳にしてどきっとしたが、それを悟られないように横を向いて煙を吐いた。
「よかったら名前教えてもらえますか? その人の」そこで僕はシステム手帳を開いてボールペンを手にした。
「相原正人って言います」
「えーと、アイハラさんね、字は?」
「相原コージの相原に正しいに人です」
結構マニアックかもしれないな、この子は、と思いながら、僕は手帳に書き留めた。
「先輩ってことは、もう卒業してるんだよね、その人?」
「はい、今は、えーと、レコード会社の宣伝部に」そう言うと、本山さんはメジャーなレコード会社の名前を口にした。僕はアサコの勤める会社と違う会社であることに、内心ほっとした。
「ということは、もう演劇は止めちゃったってわけだ、その、相原さん」
「そうだと思います。あの」
僕はまたどきっとした。頼むからその、あの、ってのやめてくんない、と心の中で思った。
「そういえばちょっと似てるかも知れない」
「誰が?」
「安川さん。相原さんと」
恐らく僕は思いきり嫌な顔をしていたに違いない。彼女は慌てて付け加えた。
「相原さんてカッコいいんですよ、サークルでも一番人気で」
そういう問題じゃないんだよな、と思いながら、僕は質問に戻った。
「それで、自殺に至る経緯なんだけど、知ってること話してくれないかな?」
本山さんはアイスティーをストローでひと口飲むと、どの辺から話せばいいですか、と訊いたので、どこからでもいいよ、と僕は答えた。
「入部したときからずっと憧れてたんですよ、テンコ。相原さんてやたらモテるのに、何故か彼女がいないって噂で。で、テンコ、去年の夏に思いきって告白したんです、相原さんに」
「それで?」
「付き合ってました」
「付き合ってた?」僕はコップの水をごくりと飲んだ。
「ええ、それが相原さんが卒業するって頃に突然振られて。それで彼女塞ぎ込んじゃって。医者にも通ってたみたいです」
「医者?」
「その、精神科っていうか、心療内科っていうか。鬱病だったんじゃないかな」
「なるほど」
「それで睡眠薬ももらってたみたいです。飲まないと眠れないって」
僕は懸命に平静を装ってうなずきながら、腹の中では相原って奴に猛烈に腹を立てていた。まるで生まれてからの仇ででもあるように。
「四月になってからはサークルにもあんまり顔を出さなくなって。で、突然あの日」
「その、誰が発見したのかな?」
「えーと、彼女のお母さんだったと思います。睡眠薬飲む前に電話したみたいで。ごめんねって」
僕はテンコの顔を思い出して、急に切なくなった。手に持っていた煙草が、とうにフィルターまで燃えて消えていたことに気づき、灰皿に捨てた。
「あの、頼んでおいた写真なんだけど」
僕がそう言うと、本山さんはルイヴィトンのセカンドバッグを開いて、二枚の写真を取り出して、これなんですけど、とテーブルの上に置いた。僕はちょっといいですか、と言うと、写真を手にした。一枚目は女の子がふたり、ピースマークをして写っていた。
そこではテンコが思いきり笑っていた。
もう一枚の写真を見ると、サークルの全員で撮った写真のようだった。その二列目の真ん中辺りにテンコがいた。
確かにテンコだった。
僕は思いきり目を見開いて、呼吸が速くなった。言葉が出なかった。口の中がからからに渇いた。
「あの」本山さんが心配そうな顔をして、僕を覗き込んだ。「どうかしましたか?」
「いや」僕はようやく声を出した。またコップの水を飲んだ。「こんな可愛い子が、と思うと」
「その」本山さんは集合写真の方を指差すと、一列目の真ん中の男を指差した。「この人が相原さんです」
確かに色男ではある。しかし、僕に似ているとは思えなかった。どこかのビジュアル系のバンドのボーカルみたいな奴だった。
その隣の隣がわたしで、と本山さんがぶつぶつ言っていたが、僕はほとんど聞いていなかった。もう一度テンコが大きく写っている方の写真をまじまじと見ると、テンコ、と心の中で呟いた。
「あの」僕が口を開くと、まだ写真を説明していた本山さんは、え、という顔をした。「こっちの」二人だけで写っている写真を手に持った。「写真だけお借りできませんか?」
「いいですよ。わたしネガ持ってますから」
「すみません」そう言うと、僕は写真をシステム手帳に挟んだ。
「あの、安川さんって彼女いるんですか?」
「えっ?」見ると、本山さんはこちらを見てもじもじと身体をくねらせている。僕はなんと答えていいものか分からなかった。「その、なんて言うか、正確に言えばいないと言うか……」
「あの、今度就職の相談に乗ってもらってもいいですか?」そう言って、本山さんは思いきり微笑んだ。
「え、ええ」
僕は無理やり笑顔を作って答えたが、脇の下に汗をかいていた。いったい、どうしてこうなるんだろう?
僕は次の取材があるんで、と嘘を吐いて、喫茶店を後にした。109の外に出ると、思いきり深呼吸をした。とにもかくにも、本山さんから解放されたことにほっとしていた。ほっとすると同時に、どっと疲れが押し寄せた。僕はひとつ大きなあくびをした。考えてみると、今週はロクに寝ていない。時計を見ると、六時を回っていた。何か食べて帰ろうと、地下通路から地上に出た。
気がつくと、自分がプライムの目と鼻の先にいることに気づいた。シホードーマサコのことが頭に浮かび、ぞっとすると、とにかくここから離れようと歩き始めた。道玄坂を渡って、井の頭線の駅に通じる道を歩いた。どこか落ち着いて食べられる店に入ろうと、井の頭線のガードをくぐりかけた途端に、携帯が鳴った。菱川からだった。
「もしもし」
「で、どうだった?」
「ありがとう、助かったよ」
「ねえ、安川くん」
「なに?」
「幽霊は幽霊だよ、タマには現実を見てね」
「ああ、分かった」
「ホントにゴハンおごってね」
「うん、分かった」
通話ボタンを切ると、いい奴だなと思った。テンコがいなかったら、僕もよろめいていたかもしれない。そう思いながら携帯をポケットに戻そうとすると、また携帯が鳴った。アサコだった。番号を登録しておいてよかったと思った。ここは出ないでおこう。しかし、呼び出し音が四回、五回と鳴るにつれて、自分が酷く悪いことをしているような罪悪感を覚えた。僕はそれに負けて六回目の呼び出しで通話ボタンを押した。そして後悔した。
「もしもし、アサコ」
「あ、ああ」
「あのさ、今日これからって空いてる?」
「あ、今日はちょっと」
「明日は?」
「まだ分からないな」
「そうか…… じゃ、また電話するね」
「あ、ああ」
「ねえ、スグル」
「なに?」
「ホントに怒ってない?」
「怒ってないよ」
「よかった。じゃあね」
「あ、アサコ、あのさ、オレ」
僕がそう言ったときには、もう既に電話は切れていた。うなだれて溜息をついた。ふらふらと歩きながら携帯をポケットにしまった。途端に、またもや携帯が鳴った。僕は立ち止まって天を仰ぐと、目を瞑って携帯を取り出した。目を開けてディスプレイを見ると、本山さんからだった。今度こそ僕は携帯をポケットに戻すと鳴り止むまで待った。ようやく携帯が鳴り止むと、僕はまた歩き始めた。歩きながら、心の中で毒づいた。何が女難の相だ、馬鹿野郎。モテてるだけじゃないか。モテてどこか悪いんだよ。気がつくと、目の前から歩いてきたOLが、こちらをぎょっとした目で見ながら通り過ぎた。どうやらいつのまにか声に出てしまっていたようだった。僕は立ち止まってガードレールに腰を落とすと、煙草に火を点けた。頭上のビルの屋上辺りを目がけて煙を吐き出した。疲れていた。酷く疲れていた。どうしてそう煮え切らないの、というテンコの声がアタマの中で聞こえた。彼女が目に涙を浮かべた顔が浮かんだ。僕は足元に煙草を捨てて踏みつけると、ごめん、と呟いた。
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