(6)
11.
気をつけなさい。
シホードーマサコの声が響いて、僕はわっと声を上げてベッドに上半身を起こした。汗をびっしりかいていた。嫌な夢を見たおかげで、目覚ましが鳴る前に目が覚めた。
カーテンを開けると、陽射しが部屋に飛び込んで来た。今日も暑くなりそうである。結局昨日も三時過ぎまで寝られなかった。汗だくになった寝巻き代わりのTシャツをランドリーボックスに放り込むと、シャワーを浴びた。
会社に着いても昨夜の出来事がアタマから離れず、頬杖をついてぼうっと宙を見つめては溜息をついた。隣の席では香取さんが、僕が溜息をつくたびに横目で怪訝そうな視線を送り、首を傾げていた。
何度目かの溜息をついていると、いきなり背中をどんと小突かれた。見上げると、小森という先輩社員だった。小森は、僕の隣の席だが、今週は昨日まで出張で留守にしていた。
「久しぶり」と言いながら、小森は名前に似合わない大きな図体を隣の席にどんと下ろした。
「なんだ、元気ないな、安川、お前も出張行ってこいよ、どっか。いいぞ、出張は」
小森は図体と同じデカい声でそう言うと、僕の背中越しに、はい、みやげ、と言って笹かまぼこの包みを香取さんに手渡した。
「またどっか温泉泊まって来たんですか?」僕がそう尋ねると、小森は「そうじゃなきゃ出張行く意味がないだろ」と答えた。
「それはそうとさ」小森は声を潜めると、僕に暑苦しい顔を近付けて意味深な声で言った。「見たんだよ、温泉で」
「何をですか?」僕は思わず生唾をごくりと飲んで、次の言葉を待った。
「石田ゆり子だよ、石田ゆり子。ドラマの撮影やってたんだ」
それとさ、共演の、と話を続けようとする小森に、僕はわざとらしく腕時計を見ながら、すいません、オレ出かける時間なんで、と言って鞄を持って立ち上がった。ホワイトボードに「市ヶ谷~飯田橋」と書いて、香取さんに出かけますと告げた。ドアを閉めるのと同時に、僕の席に移動した小森が、香取さんに向かって石田ゆり子だよ、石田、と言っているのが聞こえた。僕はドアが完全に閉まったことを確認すると、アホ、と呟いた。
外は真夏のような陽気だった。寝不足の身にこの暑さは応えた。市ヶ谷の書店を三軒ほど回ると、汗びっしょりになった。地下鉄の階段を降りながら、上着を脱いで手に持った。永田町で半蔵門線に乗り換えると、表参道で降りた。腕時計で時間を確かめると、まだ二時を回ったばかりだった。青山学院方面の出口に向かいながら、この後に控えていることを考えて、踏み出す足がやたらと重く感じられた。
昼下がりのスパイラルカフェは、いわゆる業界の打ち合わせや、暇な主婦や学生たちで、思いのほか混んでいた。僕はウェイターに案内された奥の二人がけのテーブルに座ると、パスタランチとポットティーを頼んだ。
ランチを食べ終わり、カップに紅茶をポットから注ぎ足しながら時計を見ると、三時まではまだ二十分ほどあった。煙草に火を点け、背もたれに身体を預けると、ぼんやりと昨夜もなかなか寝付けずに寝床で考えたことをまた考え始めた。あれはいったいなんだったんだろう? 僕にとってテンコとはどういう存在なのだろう? なんで好きだなんて言ってしまったんだろう?
僕はあっという間にフィルター近くまで吸ってしまった煙草を灰皿に押し付けた。
それは僕がテンコを好きだからだ。論理的に考えればそうなる。しかし、同じく論理的に考えれば、確かに四月に死んだはずの人間が、夜中にその自殺した部屋のベランダから現れるというのは、相当に怖い。
気がつくともう一本の煙草に火を点けていた。僕は煙を吐き出しながら、また同じ堂々巡りへと入っていった。
僕は本当に、夜中に二階のベランダからいきなり現れるような幽霊を好きになってしまったのだろうか? それに、どうしてその幽霊をいざ目の前にすると怖くないのだろう?
「ごめん、待った?」
アサコの声が聞こえて、ようやく僕は我に返った。アサコは赤のワンピースを着て、ちょっと小首を傾げて微笑んでいた。相変わらずキレイだった。たぶん、今この店にいる女の子の誰よりも。しかし、僕の心は浮き立つどころか、朝無理やり起こされたような、そんな気分だった。
アサコは少し顔を上気させながら向かいの椅子に座ると、ウェイターにアイスティーを頼んだ。彼女は片手で髪をかきあげると、久しぶりね、と言った。僕はぎこちない笑みを浮かべながら、そうだね、と答えて、この店に着いてから都合四本目の煙草に火を点けた。
「スグル、ちょっとオトナになったね」そう言うと、彼女はテーブルの上で指を組んだ。
「そうかな」
「うん、カッコよくなった」
僕はまたそうかな、と答えると、視線をテーブルに落として煙を吐き出した。なんとなくアサコの顔をまともに見れなかった。
アイスティーがテーブルに届き、アサコはストローでそれをひと口飲むと、眉をちょっとひそめて言った。
「ね、まだ怒ってる?」
「え?」僕が戸惑った顔をすると、彼女はうつむいて、そうだよね、怒ってるよね、と呟いて、ストローでアイスティーの氷をかき混ぜた。
「怒ってないよ、もう」
僕がそう言うと、彼女は上目づかいに顔を上げてホント? と言った。その目はちょっと潤んでいた。
「で、どうしたの?」
「成田離婚しちゃった」彼女はそう答えると、目を潤ませたまま、へへ、と笑った。「わたしが馬鹿だったのよ。ただのおっさんだっていうことに結婚してから気づくなんて。あのころのわたしはとにかく結婚したかったのよ。それに」そこで彼女はちょっと恨みがましい目をした。「スグルはわたしと結婚する気がないんだと思っちゃったの」
そこで彼女はアイスティーをもうひと口飲むと、僕をきっと見つめて言った。
「どうしてあのときイエスって言ってくれなかったの?」
「そんなこと今言われても」
僕がそう答えると、彼女はまた目を潤ませて、そうよね、わたしが馬鹿だったんだよね、と独り言のように呟いた。彼女は五秒ほど下を向いて黙ったあと、顔を上げてぽつりと言った。
「会いたかった」
そう言うと、彼女の目からつーと涙がひと粒こぼれ落ちた。
やれやれ。僕は自分がそう思っていることにちょっと驚いた。半年前までは、あれほど未練がましく思っていたのに。正直言って、今はこの状況にほとほとうんざりしていた。
「スグルは会いたくなかった?」
アサコはさらに追い討ちをかけてきた。
「いや、会いたかったけど」消え入るような声でそう答えながら、半年前までは、という付け加えるべき言葉を言えない自分の性格を呪った。
「ホント?」そう言って、アサコは目をきらきらさせた。まるで少女漫画のように。「じゃあまた電話してもいい?」
「いいよ」僕は半ばやけくそで答えた。
「うれしい」そう言ってアサコがまた目をウルウルさせ始めた途端、ハンドバッグのアサコの携帯が鳴った。ごめんなさい、と言ってアサコは携帯を取ると、ちょっと横を向いて話し始めた。その横顔は、それまでの湿度百二十パーセントのような表情とは打って変わって、このカフェにいかにもお似合いの、てきぱきと仕事の話を受け答えするキャリアウーマンのそれになっていた。僕はその様子を、ちびた煙草をくわえながら、唖然として見ていた。
アサコは電話に向かってはきはきとはい、分かりましたと答えると、通話ボタンを切って携帯を折りたたんだ。そして、こちらを向き直ると、ごめん、わたし行かなきゃ、と言って伝票をつかむと、すっと立ち上がった。
「あ、それ」僕は思わず伝票を指差して言った。
「大丈夫、経費で落ちるから」アサコはそう言ってウインクすると、じゃあね、電話する、と言い残してバッグを手にすたすたとレジの方に立ち去って行った。
後には、僕と後悔とがテーブルに取り残された。アタマの隅っこの方から、女難の相も出ておる、というシホードーマサコの声が聞こえてきたが、僕はそれを煙草と共に灰皿に思いきり押し付けた。
僕はたっぷり五分間ほど、自分の優柔不断さを呪った後に、残りの紅茶を飲み干すと、席を立とうとした。
そのとき、僕の携帯が鳴った。上げかけた腰を椅子に戻すと、ワイシャツのポケットから携帯を取り出してディスプレイを見た。宮本からだった。
「もしもし」
「もしもし、スグル? オレこのあいだ言い忘れちゃったんだけどさ、オレ、アサコにお前の住所と連絡先訊かれたんで教えちゃったんだけど、まずかったかな?」
僕は携帯を持ってない方の手で、額を抱えると答えた。
「もう手遅れだよ」
「あ、わりいわりい。でもいいじゃん、またより戻せば」
「あのなあ」僕は頭痛がしてきそうだった。「で、それだけか、用件は?」
「あ、そうそう、この間の幽霊の話なんだけど」
「何か分かった?」
「あれからうち帰って本読み直してみたんだけど、向こうの幽霊については大体分かった」
「それで?」
「ま、本に書いてあったのは主にポルターガイストのことなんだけど、似たようなもんだ。で、ポルターガイストに関しては大きく分けると主に二つの説があって、ひとつは人間の念が引き起こすという説。これは比較的古い説なんだけど、思春期の子供が引き起こすという説だ。つまり、思春期の子供の無意識のエネルギーが、いろんな現象を引き起こすってわけだ。日本でいう生霊みたいなもんだな。これはポルターガイストが人格から分離した人格の断片だ、っていうところから始まるんだけど、その延長で、無意識理論っていう、個人の無意識の心霊が引き起こすって説に繋がる」
「で、もうひとつは?」
「もうひとつはそのものずばり、死者の霊が引き起こすって奴だ。この説はポルターガイストが最初に発見されたときからある説なんだけど、驚いたことに最近でもこっちの説の方を唱える奴が多いんだ。こっちはスピリチュアリズム、つまり死者の霊は死後も存在する、という前提に基づいている。こっちの説を唱える学者は、特定の場所で人間の過剰なエネルギーを通して霊が出現する、と言っている。その場合、必ずしもティーンエイジャーとは限らない。ま、こっちは日本で言う地縛霊みたいなもんだな」
「地縛霊?」僕は一昨日の夜、テンコにこの部屋で自殺した、と聞かされたときに覚えた、背筋が寒くなるような恐怖を思い出した。
「うん、浮遊霊っていうのもあるけど、この場合は場所が特定されるから地縛霊だな」
「なんかどっちも霊ってのが出てくるからややこしいな」
「まあ、生きてるか死んでるかの違いだ。サイコメトリーって知ってるか?」
「いや」
「よくテレビの特番でやってる、アメリカで行方不明者の捜索とか、FBIの犯罪捜査に協力してる奴がいるだろ、あれだよ。過去を透視するっていうか、物とか場所とかに過去がなんらかのかたちで記録されるっていう。前に流行った『リング』ってホラーがあったろう。あれもそうじゃん。あれ自体は作り話だけど、元になった実験は実際にあったわけで」
「それと幽霊がどう繋がるんだ?」
「幽霊は一種のテープ・レコーディングだって説があるんだよ。だから過去を透視したり、霊媒なんて職業の人間がいたりする。いずれにしろ、基本は死んでもなんかしらのものが残る、ってことなんだけどね」
「へえ」
「それでさ、興味深いのは、その、特に死者の霊が引き起こすって方の説なんだけど、これは一種の憑依なんだよな」
「ヒョウイ?」
「ま、憑きものだよ。憑きもの落としって言うだろ? つまり死者が取り憑くってわけだ。地縛霊にしろ、浮遊霊にしろ一種の憑きものだ。これには初期の頃から心理学的な解釈があった。ヒステリーだと唱える学者もいたし、人格分離、いわゆる多重人格説もある」
「多重人格ね、なるほど」
「解離性人格障害。別の人格を造ってしまい、それが憑依に見えちゃうってわけだ。しかし、実際にはこれで説明のつかない場合が多くて、例えば全く知らないはずの言語を話すとか、さっきのサイコメトリーのように知らないはずの人のことまで分かる、とか。ま、地縛霊にしろ、浮遊霊にしろ、いずれにしてもポイントは憑依ってことだから、どっちにしても憑きもの落とし、つまり除霊が必要なんじゃないか、その人?」
「その人?」
「その幽霊を見たって人だよ」
「あ、あ、そうか。言っとくよ」
「今のところはこんなところかな。なんなら除霊師でも探しとこうか?」
「いや、いいよ、ありがとう、助かったよ」
じゃあな、と言って携帯は切れた。僕はシホードーマサコの陰気な顔と声を思い出し、喉がからからに乾いた。すっかり氷の溶けたコップの水を、喉を鳴らして飲んだ。
12.
メシを食って帰ろうとしつこく誘ってくる小森に、今日は用事があるから、と断って会社を後にした。
渋谷でバスを降りると、青山通りを渡って桜ヶ丘町のジャズ喫茶に入った。とにかく独りになりたかった。古ぼけたドアを開けると、ジャコ・パストリアスのベースに合わせて速いパッセージを弾くハービー・ハンコックが、大音響で聞こえてきた。店内は、この店にしては客が多かった。袈裟姿の坊主が隅の席に独りで座っているのが目に入り、へえ、と思った。ジャズ喫茶と坊主という取り合わせも、考えようによっては粋だ。坊主とは反対側の隅に座り、明太子のスパゲティを頼んだ後で、昼もパスタを食べたことを思い出し、しまったと思ったが、後の祭だ。
食後のコーヒーを飲みながら昼間携帯で宮本と話したことを考えた。
憑依。
不動産屋で川島典子という人間が実在したことを確かめた時点から、僕はテンコが間違いなく本人が言うように幽霊であると思い込んでいた。しかし、それは飽くまでもテンコが川島典子本人である、という前提の話である。昨夜抱き締めたあの身体が、テンコの実体そのものが川島典子であるという保証はない。僕は昨夜の華奢な背中の感触、弾力のある胸の膨らみ、絡み付く舌、そして顔を少し赤らめながら、半分泣き顔でおやすみ、と笑ったテンコの顔を思い出し、胸が苦しくなった。
もしも彼女が誰かに憑依しているのだとしたら? あの身体は本物の人間で、川島典子じゃない他の誰かの身体を借りているだけだとしたら?
とすると、あの身体はいったい誰なのだ?
僕は首を振って煙草に火を点けた。次第にアタマが混乱してきた。
煙をひとつ吐き出しながら、待てよ、と思った。もし誰かに憑依していると仮定しても、それでもテンコが幽霊であることには変わりないのだ。そう考えると、何故だか分からないが少しほっとした。それからふと思った。馬鹿げている。幽霊だということにほっとしているなんて。
アルバムが変わって、キース・ジャレットのピアノソロになった。僕はもうひとつの可能性を考えた。テンコが幽霊じゃなかったら? 誰かの人格のひとつだったら?
そう考えれば、彼女は確かに人間であると言えるが、逆に永遠とは言えなくなる。いくつかある人格のひとつであるとすれば、いずれは消え去る運命なのかもしれない。僕は頬杖をつきながら煙をゆっくりと吐き出した。しかし、人間なんてどうせ永遠ではないではないか。皆いずれは年老いて死んでいく運命にあるのだ。そこまで考えて、僕のアタマは逆戻りした。幽霊は永遠なのだろうか? 一度死んでいるだけに、この先永遠に年を取らないのだろうか?
もう何がなんだか分からなくなった。僕のアタマは収拾がつかなくなっていた。もうなんでもいい。単なる幽霊でも、誰かに憑依している霊でも、誰かの人格のひとつであっても。僕に分かっているのは、テンコのことを考えると、やけに切ないということだけだった。
煙草を灰皿に押し付けて、冷めかけたコーヒーを飲んだ。そのとき、誰かの視線を感じた。僕は見られている。
顔を上げると、目線の先にこちらを見つめる例の坊主の姿が目に入った。年のころは三十代後半といったところか。思ったよりも若かった。精悍な顔で、身じろぎもせずに僕の方をじっと見ていた。僕はきまりが悪くなって視線をそらした。煙草をポケットにしまうと、残りのコーヒーを飲み干した。もう帰ろう。今夜もテンコは来るのだろうか。
僕は伝票をつかむと、鞄を手にレジへと向かった。
木の狭い階段を降りると、路地に出た。腕時計を見ると、九時だった。僕は緩い坂道を駅の方に足を向けた。
「ちょっと」
後ろから野太い男の声がした。足を止めて振り向くと、先程の坊主が立っていた。僕が驚くと同時に薄気味悪さを覚えて黙っていると、坊主はこちらを見据えながら言った。
「悪いものが憑いているようです。落としてあげましょう」
有無を言わせぬものがあった。僕が茫然と目を見開いていると、坊主は伏目がちに目を閉じて、右手の人差し指と中指で印を切りながら、何事か唱え始めた。それはアビラウンケンソワカと繰り返しているように聞こえた。僕は恐怖を感じた。テンコと二度と会えなくなるような気がした。ようやく声が出た。
「け、結構です。止めてください」
僕がひとつ後ずさると、坊主は最後に二本指を僕の胸の辺りに突き出して、呪文を唱えるのを止めた。それから目を開けると、思いのほか穏やかな笑みを浮かべて言った。
「余計なことをしましたかな」
僕は何も言わずに駅に向かって駆け出した。振り返らずに。
ホームで電車が来るのを待っている間も、まだ少し息が切れていた。ようやくやってきた田園都市線は混んでいた。僕は吊革に捕まりながら、窓に映る自分の顔を見た。それは不安に怯える顔だった。
駅から歩きながら、もう会えなかったらどうしようとそればかりを考えた。勝手なことをしやがって、と坊主に対して怒りを覚えた。それからシホードーマサコをちらっと思い浮かべて、どいつもこいつも悪霊呼ばわりしやがって、と心の中で毒づいた。怒りに任せて、いつしか早足になっていた。もう悪霊でも生霊でも地縛霊でもいい、オレはテンコが好きなんだ。いつのまにかそう自分に言い聞かせていた。
公団住宅の間の私道を抜けようとすると、頭上でばさばさっという音が聞こえて足が止まった。見上げると、電信柱や電線に十羽以上のカラスが群れていた。僕はその数の多さにぞっとして肩をすくめた。気がつくと、ちょうど一昨日テンコがひょいと現れた藤棚の前だった。僕はもしかしたら、と思って目を凝らしたが、どう見ても藤棚の下のベンチには誰も座っていなかった。頭上でカラスが気色の悪い声でカアと鳴いた。僕は薄気味悪くなって、また歩き始めた。
カラスのお陰なのかどうなのか、先程まで僕の足をむやみに動かしていた怒りは収まっていた。普段のテンポで歩き始めると、次第に冷静さが戻ってきた。マンションまであとワンブロック、というところでまた足が止まった。前方には下弦の月が輝いていた。少しアタマを冷やす必要があると思った。僕は左手に向きを変えると、寄り道をすることにした。矢沢川まで辿り着くと、橋の欄干に両肘をついて真っ暗な川面を見つめた。川の両側に立ち並ぶ桜の樹々が、街灯に照らされて川面にその陰影を落としていた。僕はポケットから煙草を取り出すと、ジッポで火を点けて、ゆっくりと吸い込んだ。
僕はいったい何を熱くなっていたのだろう?
少しずつ煙を吐き出しながら、思い返してみた。先程までの自分は、シホードーマサコや坊主に闇雲な怒りを覚えていた。それは恐怖と言ってもよかった。何故だ? 何かが偏っているような気がした。自分が一方向に吸い寄せられているような。もう一度深々と煙草を吸い込むと、ゆっくりと煙を吐いた。川面に街灯の光の断片がきらきらと反射するのを見つめながら、今日一日の自分の思考を追ってみた。アサコを待つ間に考えたこと、それからアサコが現れて、宮本から携帯に電話があって。ジャズ喫茶で考えたこと。それからあの坊主。
憑依。
憑依だ。僕は憑依ということに関して、テンコが誰か他の女の子に憑依している可能性しか考えていなかった。自分に憑依している、という可能性を考えてもみなかった。考えてみれば、それは真っ先に頭に浮かぶはずのことであるにも関わらず。シホードーマサコも、あの坊主も、全てそれを示唆していたというのに、僕はそれを否定するのに躍起になっていた。それは恐怖になり、怒りに変わった。そこでようやく、ついさっきまでテンコを好きだと自分に言い聞かせていたことを思い出した。これが憑かれている、ということなのか?
そこまで考えて、僕のベクトルはもう変えようのないところまで来ていることに気づいた。僕はテンコに惹かれている。それは否定しようがない事実だった。例えそれが彼らの言う、憑かれているということであったとしても。僕はテンコを悪いものだと思えないのだ。思いたくないのだ。だからそれを示唆するものを否定したいのだ。僕はテンコにではなく、テンコを否定するものに恐怖を覚えているのだ。これはいったいどうしたことだ? 僕はもう一度煙草を深く吸い込むと、川に放った。
川面を流れて行く吸殻をぼんやりと見ながら、絶望とも、諦めともつかない思いが突き上げてきて、僕はそれを溜息と共に吐き出した。もう遅いのだ。僕はもう恋をしてしまっているのだ。例えそれが幽霊で、僕に取り憑いているものであっても。
僕は溜息をもうひとつつくと、帰りの途に就いた。
蒸し暑い夜だった。十二時まで待ったが、テンコは現れなかった。たまらなく寂しかった。誰かと話していないと気がヘンになりそうだった。僕は携帯を手にすると、タンクトップに短パンのままで部屋を出た。
通りを渡って、向かい側の公園に辿り着くと、木のベンチに腰を下ろした。手にした携帯を見つめて、誰に電話しようか考えた。誰も思いつかなかった。こんな気分のときに電話で話せる相手は。携帯を手にうなだれていると、足元に猫がいるのに気づいた。この公園に住みついている野良猫だ。猫はスニーカーを突っ掛けた僕の足に身体を擦り寄せて、それから僕の足元に寝転んだ。
「なあ、オレは間違っているのか?」
僕は猫に話しかけた。猫はちらっと僕の方に一瞥をくれると、退屈そうに離れて行った。携帯をベンチに置くと、両手を頭の後ろに組んで、身体を反らせて上を見上げた。たわわに葉を茂らせた木の枝の隙間から夜空が見えた。心地よい風が吹いて、枝の葉を揺らした。オレはいったい何をやっているんだろう? 思わず声に出して独り言を言った。
突然、携帯が鳴って、僕は飛び上がるほど驚いた。手に取ってディスプレイを見ると、非通知だった。昼間のアサコのことを思い出し、気が乗らぬまま通話ボタンを押すと、もしもし、と言った。
「もしもし」
今度こそ本当にびっくりした。聞こえてきたのはテンコの声だった。
「ごめん、今日は行けない」
「どうかした?」
「とにかく今日は行けないんだ」心なしか今日のテンコの声は元気がなかった。
「今度いつ会える?」
「たぶん明日」
「なあテンコ」
「なに?」
「オレのこと好きか?」
「好きよ」
「ありがとう」
「じゃあね」
電話は切れた。僕は溜息をひとつ洩らすと、この場合は適当ではないかもしれないが、神様に感謝した。誰でもいいから感謝したかった。今日考え続けたことなどどうでもよくなっていた。よしんば彼女が僕に取り憑いた悪霊だとしても。とにかく、これでようやく今日は眠れそうだった。
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