幽霊譚
高山 靖
(1)
1.
まだぎりぎり二十世紀だったころの話だ。もちろん、スマホなんてものはまだない。いろんなものがまだなかったとも言えるし、まだあったとも言える。そんなころの話。
ある晩、僕のもとに幽霊が現れた。
正確には、訪ねてきた。
二十世紀ももう終わろうというその年、僕は社会人一年目で、引っ越したばかりだった。右も左も分からなかった会社にもようやく慣れてきたころに偶然駅前の不動産屋で見つけた物件だ。渋谷から電車で十分ちょっとの私鉄沿線で、駅からは徒歩十分。三階建ての二階の真ん中で、南向きなので日当たりもいい。通りの向かいには小さな公園もあるし、閑静な住宅街だ。このロケーションで、振り分けの2DKの間取りで家賃が八万円というのは、いくら不景気だと言っても格安だ。バカ安と言ってもいい。紹介してくれた陰気な顔をした駅前の不動産屋も、こんな物件ないですよ、と眼鏡を意味ありげに直しながら言った。僕は即座に契約した。一年間バイトして貯めた金を使い果たすことにはなったが、これで僕も社会人三ヶ月目にしていっぱしのマンション住まい、というわけだ。
僕が入ったのは出版社だ。それほど大きくも、極端に小さくもない。僕は営業に配属された。本当は編集に行きたかったのだけれど、これはまあしょうがない。そのうち行ければいい。それよりも僕がラッキーだったのは、この仕事が案外楽だということだ。まず外出が多い。これは営業だから当たり前だが、行き先は取次と呼ばれる卸や、担当地区の本屋だ。直行や直帰という技も使えるのでかなり楽だ。しかも、編集に比べると、締め切りがあるわけでもないし、週に一度徹夜をするわけでもない。残業はほとんどないに等しい。土日もきちんと休める。ひと月ほど経って、次第に慣れて来ると、どうやらここは窓際に近いセクションだということが分かった。先輩社員も、どこかのんびりした人間ばかりで、いかにも出世街道からはずれたような人間ばかりである。おまけに皆絵に描いたようなナマケモノだ。これは楽である。つまり、皆が楽をしたいと思っているので、自分も楽ができる、というわけだ。後は自分がこのぬるま湯にずっと浸かっていたいと思うのか、それともここから這い上がって行こうとするのかは本人次第だ。とりあえず、今年一年はぬるま湯にゆっくり浸かっていようと思った。
そんなわけで、このところの僕はツイている、と思っていた。
話は僕が引っ越してから二週間ばかり経ち、ようやく新居にも慣れて腰が落ち着いてきたころのある晩に始まる。
幽霊はピンポーンとドアチャイムを鳴らしてやって来た。
僕はソファに寝っ転がって、ニュースステーションを見ていた。久米宏が、CMの後はスポーツです、と言った途端にドアチャイムが鳴った。こんな時間にいったい誰だろうと思った。もうすぐ十一時である。大体、引っ越してからというもの、両親以外にここを訪ねてきたのは、新聞の勧誘と宅配便ぐらいである。そのいずれにしても、訪ねてくる時間にしてはいささか遅過ぎた。
僕はいぶかしりながらも腰を上げ、どなたですか、と言いながら玄関先まで行った。返事はない。おかしいな、と思ってドアスコープを覗くと、若い女の子が立っていた。ドアスコープから覗いても可愛い女の子だった。僕はとりあえずここはこの際誰でも構わないから出るべきだ、と思った。僕には彼女がいない。可愛い女の子と知り合うきっかけは、どんな些細なことでも逃すべきではない。と、そんな風に理屈をこねるより先に、ドアを開けていた。
「こんばんは」
そう言って彼女は微笑んだ。彼女は白いポロシャツにカーキ色のスカートを穿いて、女子大生ぐらいに見えた。日本的な顔立ちだが美人と言ってもおかしくないし、とにかくキュートだ。肩ぐらいまでのワンレングスのボブにした髪型もとても似合っている。僕は二秒ほど見とれたあと、常識というものがアタマに甦ってきた。こういう場合、考えられるのは次の三つだ。
1. 宗教の勧誘
2. 風俗の飛び込み営業
3. 部屋を間違えた
この場合、2に関してはいささか常識的ではないように思えた。1と考えると、見た限り彼女は何も持っていない。手ぶらだ。とすると、可能性は薄い。残るのは3だ。しかし、彼女は僕の顔を見てもにこにこ笑っているだけである。
とりあえず僕の口から出たのは、「えーと……」という言葉で、後が続かなかった。その「……」の間に、彼女は既に玄関に片足を踏み入れながら、「上がってもいいかな?」と言っていた。僕がドアに片手をかけて唖然としている間に、彼女は靴を脱ぐとさっさと部屋に上がってしまった。
小首を傾げつつドアを閉めながら、「あの」と声を発して振り向くと、彼女の姿は既になかった。あれ、と思いながら元いたテレビのある部屋に戻ると、彼女はちょこんとソファに座っていた。ちなみに僕の部屋の構造を説明しておくと、玄関を入ると六畳ほどのダイニングキッチン、玄関のすぐ左隣が洗面所とトイレ、その奥が浴室、キッチンの突き当たりが四畳半の部屋で、ここにはベッドと机を置いて寝室に使っている。その部屋と隣り合わせに、つまり玄関から入るとキッチンの左手奥のドアを開けると、六畳の部屋があって、そこにソファとテーブル、テレビやオーディオといったものを置いて、リビングにしていた。彼女がさっさと入って座っていたのは、このリビングのソファだ。玄関で靴を脱いでから座るまでの時間を考えると、まるであらかじめそこにソファがあることが分かっているかのようだった。とにもかくにも、3の部屋を間違えたわけではなさそうである。
「えーと……」
部屋の入り口に立って、僕は先程と同じ言葉を発していた。この場合、なんと言ったらいいのか分からなかった。彼女は平然と、というか笑みを浮かべてこちらを見つめていた。
「コーヒーでも飲む?」
結局僕の口から出た言葉はこれだった。彼女は「うん」と勢いよくうなずくと、微笑んだ。テレビでは川平慈英が「いいんです」と必要以上に力を込めて言っていた。
僕はキッチンに戻って、薬缶を火にかけると、ブラウン製のミルに豆を入れてつまみを回した。ミルはこの時間にしては近所迷惑な馬鹿でかい音をたてて豆を勢いよく挽き始めた。挽き終わった豆をドリップに移すと、お湯が沸く間、彼女の様子を覗いてみた。彼女はきちんと両足を揃えてソファに座り、ニュースステーションを見ていた。
カタカタと蓋が鳴って湯が沸くと、二つ並べたマグカップにまず暖めるためにちょっとずつお湯を注いで、それからドリップの豆に蒸らす程度に湯を注いで、二十秒間待った。言うのを忘れたが、僕は凝り性なのである。ちなみに喫茶店でバイトをしたこともある。
出来上がったカップをふたつ持ってリビングに行くと、ひとつを彼女の前に置いて、自分はちょっと考えて床のクッションの上に座った。この場合、見ず知らずの女の子といきなりソファに並んで座るというのもヘンかな、と。ヘンと言えば、そもそもこの状況自体が既にヘンなのだが。
彼女はありがと、と言うと、カップを持っておいしそうにひと口すすった。そして、おいしい、と言って微笑んだ。僕は自分もコーヒーをひと口飲みながら、ありがと、と答えた。
テレビはCMになっていた。一見まるで恋人が訪ねてきたような妙なツーショット状態に、気詰まりを覚えて無性に煙草が吸いたくなった。僕は彼女が何か言い出すのを待った。マグカップを手に彼女を見つめると、彼女はにこやかな笑みを浮かべながら見つめ返すだけだった。僕は我慢できずに彼女に訊いた。
「ねえ、煙草吸ってもいいかな?」
「いいよ」
僕はほっとしてありがと、と言いながら、テーブルの上に置いてあったマイルドセブンライトを一本取り出すと、ジッポで火を点けた。深く吸い込むと、ふーっと大きく煙を吐き出した。まるで安堵の溜息のように。そこでふと考えると、僕と彼女の会話でさっきから一番多いのが、「ありがと」だということに気づいた。それに彼女がタメ口だということにも。それは全く自然だったということと、彼女ぐらいの年ごろの女の子はみんなそんなもんなのだ、という先入観があって、それまで不思議にも思わなかった。
しかし、考えてみれば考えてみるほど、この状況は不思議だった。
僕はとにかく、一番訊きたいことを尋ねてみることにした。
「ねえ、ところで、きみはいったい誰?」
彼女はちょっと小首を傾げて、そんなことも分からないのか、という表情をして答えた。
「幽霊よ」
「幽霊?」
「そう」
2.
彼女は当然じゃない、とでも言いたげな顔をした。おかげで、僕はしばし呆けたように口を開けたあと、はいそうですか、という顔をせざるを得なかった。しかし、そう簡単に納得のできる答えではない。僕はもっと突っ込んで訊いてみることにした。それにはテレビがうるさ過ぎる。
「ねえ、テレビ消してもいいかな?」
「いいよ」
僕はありがと、と言いそうになるのをこらえて、リモコンでテレビを消した。部屋に静寂が戻り、ちょっとした緊張感が、たぶん僕の方だけに漂った。僕はせわしなく煙草を吸いながら言った。
「あのさ、幽霊って言ったって、足があるじゃない」
彼女は一瞬きょとんとした顔をすると、「どうして幽霊に足があったらいけないの?」と逆に訊き返し、眉をひそめると言った。「それって先入観じゃないかな」
「そう言われればそうだけど……」
「だいたい、あなた幽霊を知ってるわけ? 見たことあるわけ?」
「いや、ないけど……」
僕は彼女の勢いに思わず語尾が消え入るように答えた。そうなのだ。確かに僕は幽霊を見たことがない。UFOも見たことがない。僕の実家は山形の片田舎にあるのだが、実家の真向かいが大きな寺なのだ。大きな墓地もある。子供のころ、僕はよく墓地で遊んだ。墓に乗っかったりもしたし、蝋燭を立てる釘が足の裏に刺さったこともある。夜暗くなってから肝試しに墓地を歩いて、小心者の僕は凄く怖かったのだが、それでも幽霊どころかひとだまも見たことがなかった。そもそも僕には霊感というものが足りないのか、いわゆる心霊スポットと呼ばれる有名なところに行っても、何も見たことがなかった。金縛りなら何度かなったことはあるけど、あれはレム睡眠云々という科学的解明が既になされている。つまり、僕は幽霊とかお化けとかポルターガイストとかゾンビとか、その手のものは一度も見たことがなかったのである。
どうもそんなことがアタマに浮かんで、僕は一瞬気弱になった。なんか、彼女の方が正しくて、僕の方が間違っている、という気がした。
気がつくとフィルター近くまで燃えていた煙草を灰皿で消して、ここで弱気になってはいかんと思いながらコーヒーをひと口飲むと、改めて訊いた。
「で、何しに来たのかな? その、幽霊が」
「理由がいるわけ? 幽霊が来るのに」
「そりゃそうだけど……」
僕はまたしても劣勢に言葉を詰まらせながら、確かに彼女は可愛いけれど、少々理屈っぽいのが難点だな、と思った。まあこれは半分負け惜しみみたいなものではあるが。
僕は話題の矛先を変えてみることにした。
「きみ、名前はなんて言うの?」
そう言ったあとに僕はしまったと思った。これまでの経緯から察すると、当然、幽霊に名前なんて必要なわけ? という答えが返ってくると思ったからである。ところが、意に反して、彼女はにっこりと笑みを浮かべて答えた。
「のりこ。川島典子。でもテンコでいいわよ、みんなそう呼ぶから」
「みんなって誰?」
「親とか友達に決まってるじゃない」
「幽霊に親とか友達がいるの?」
「バカね、生前の話よ、生前の」
僕はなるほど、と思ったが、彼女は口調ほど人を馬鹿にした様子はなかった。むしろ無邪気に見えた。
「えーと、僕は」
「スグルくんでしょ。安川スグル」
「なんで…… あ、そうか、幽霊だもんね」
「ちゃんと表札に書いてあるじゃない。アルファベット付きで」
そう言って彼女はコーヒーをひと口すすった。
僕はようやくこの状況に慣れてきた。彼女のキャラクターも徐々に分かってきた。少しは冷静になりつつある。改めて彼女を観察してみた。確かに色白ではあるが、いわゆる生気のない死体のような青白さではなくて、近頃で言う美白という程度である。どちらかというと健康そのものに見える。つまり、外見からは、どこから見ても生身の人間で、しかも若さとかみずみずしさといったものさえ感じる。要するに、彼女はとても快活で、元気だ。まあ、元気な幽霊というものがいてもおかしくないのかもしれない。そもそも僕はそこまで幽霊というものについて詳しくない。ここはひとまず、女の子だという観点からだけ観察してみることにする。目は奥二重で目尻が優しい。鼻は高過ぎず、小振りなところがかえって愛らしい。口もちょうどいい大きさだ。笑うとちょっと笑窪が出来る。ポロシャツの襟元に覗く首筋からうなじにかけてはすらりとして、どこか少女を思わせるものがある。それに比べると、胸の膨らみは小振りな顔や華奢なからだつきに比べて思ったよりも大きくて張りがあることが見て取れる。くびれたウエストからヒップにかけてのラインといい、この子はセクシーなのだ。スカートから伸びた足も、モデルのように長いわけではないが、太過ぎず、細過ぎず、僕にとっては完璧だ。つまるところ、この子は僕にとってほぼ理想の女の子である。少なくとも外見上は。
そんなことを考えているうちに、喉が乾いてごくりと生唾を飲みそうになり、僕はそれをごまかすために残りの冷めたコーヒーを一息で飲み干した。
ふと気づくと、彼女はソファの足元にあった週刊誌をパラパラとめくっていた。そして「あ」と声を上げると、「ねえ」と声をかけてきた。「なに?」と僕が訊き返すと、彼女は週刊誌の真ん中あたりを開いて僕の方に向けた。それはヘアヌードのグラビアだった。巨乳の女の子が黒々とした陰毛もあらわに、爽やかな笑顔を見せていた。
「やっぱりこういうの見ながらひとりでするわけ?」そう言うと、彼女は悪戯っぽい笑みを浮かべた。
僕は思わず顔を赤らめると、「いや、それは、タマにはそういうこともあるかもしれないけど……」としどろもどろになって答えたが、どうもからかわれているらしいことに気づき、むっとして彼女が差し出す週刊誌を奪い取って言い返した。
「勝手に人の物見るなよ」
「あ、赤くなってる。かーわいいー」
僕はぶすっとした顔で週刊誌を部屋の隅に放り出したが、内心、見つかったのが無修正の裏本でなくてよかったと胸を撫で下ろした。そこでハタと気づいた。もしかして彼女は、さっき僕が彼女の肢体を想像して、少なからず性的な妄想に浸ったことを感じ取ったのだろうか? もし彼女が幽霊ならばそれも不思議なことではない。
と、そこまで考えて、自分がすっかり彼女の言うことを信じかけていることに気づき、馬鹿馬鹿しい、とアタマから今の考えを振り払った。
「なに難しい顔してんの?」彼女は笑みを浮かべながら、僕の顔を覗き込むように訊いた。
「別に」
そう答えながら、僕はどうも自分が空回りをしているような気がしてきた。
「あ」
彼女がまた声を上げた。僕はまた何か突っ込まれるのではないかと身構えた。
「もうすぐ十二時だ。帰んなきゃ」そう言うと、彼女はすくっと立ち上がった。そして来たときと同じようにすたすたと玄関の方に向かった。
僕は間抜けな付き人のようにその後を追いながら、間抜けな質問をした。
「幽霊にも門限があるわけ?」
彼女は足を止めて振り向くと、きょとんとした顔で答えた。
「あるわけないじゃない」
彼女はさっさと靴を履くと、僕に最上級の笑みを浮かべて言った。
「じゃ、またね」
僕が呆気にとられて立ち尽くしていると、ドアを半分開けていた手を止めて彼女が振り向いた。その振り向いた顔が結構マジだったので、僕はちょっとたじろいだ。
「ねえ」
「な、なに?」
「スグルってゲイじゃないわよね?」そう言って彼女は眉間に皺を寄せた。
「ち、違うよ」
僕は我ながら何をどもっているのだろう、と思いながら答えた。彼女は再び思いきり笑顔を見せると、またね、ともう一度言って出て行った。
ドアがバタン、と閉まった。
後にはぼうっと突っ立った僕だけが取り残された。
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