(3)
5.
歩道橋の上から見る246は家路を急ぐ車で下りが混み合っていた。僕はそれを見下ろしながら、これが日常というものだ、と思った。皆仕事に出かけ、そして帰る。その繰り返し。そうして年を取っていく。帰りを待つ家族。曲りなりにも幽霊が帰りを待つ者などいるわけがない。歩道橋の階段を降りて、矢沢川のたもとに来ると、僕はその小さな橋の欄干に肘を付いて、雨で水嵩が増えた川面をぼんやりと眺めた。雨上がりの涼しい風が吹いてくる。僕はさっきからいったい何を考えていたのだろう? いや、正確には朝起きてからずっとだ。だいたい彼女が幽霊であるかどうかはともかく、また来るとは限らないのだ。全てが僕の勘違いであってもおかしくないし、夢であってもおかしくない。むしろその方が普通だ。よしんば現実だとして、彼女がまた現れる保証などどこにもないのだ。それなのに何故僕はこれほどまでにこだわっているのだろう? 彼女がまたね、と言ったからか? もしかしたらそうかもしれない。僕はあの言葉に何かを期待しているのかもしれない。
何を?
結局のところ、僕にはなんとなく分かっていた。僕はもう一度会いたいのだ。彼女に。僕は彼女の笑顔が忘れられないのだった。おいおい、スグル、お前は幽霊に恋でもしちまったのか? お笑い種だ。
そこまで考えて僕はハタと気づいた。
もしかしたら本物の幽霊に出会ったかもしれないというのに、自分が全然怖がっていない、ということに。
昨夜からさんざん考えていたわりには、僕はちっともあの、川島典子と名乗る自称幽霊を怖いと思わなかった。それどころか、もう一度会いたい、などと思っている。一体全体、これはどうしたことだろう? もしかしたらこれが一番不思議なことかもしれない。しかし、いまさら改めて怖がろうと思って怖くなるものでもない。いくら考えても怖くないものは怖くないのだ。恐らく僕は単にひとりの女の子として見ている、ということなのかもしれない。しかし、可愛い女の子であるということと、人間か幽霊かということは別の次元の問題だ。いくら見かけが可愛くても、死んだはずの人間が現れたとなれば、普通に考えれば怖いはずである。しかし、いくら考えても怖くなかった。ひとつには、彼女がとても自分に危害を加えそうに見えない、ということもあるのだろう。これはつまり、僕は彼女を幽霊だと思っていないということなのか? しかし、それなら何故幽霊について調べてみようなどと思ったのか。やはり、これも不思議なことではあるが、僕の中では半分以上、本人が言うように彼女を幽霊だと思っているのだ。何故だろう?
僕は首を傾げながら、橋を離れて歩き始めた。
川沿いから公団住宅の間を通る私道の暗がりを抜けながら思った。だいたい、幽霊なんてものが現れるなら、こういう川沿いとか、暗がりから現れるものだ。あんな風にピンポーンなんてドアチャイムを鳴らして現れるはずがないのだ。やれやれ、僕はどうかしてる。確かにどうかしてる。
僕がうつむきながら人影のない私道を抜けて街灯のある通りへ一歩踏み出そうとすると、公団住宅の角の暗がりから声が聞こえた。
「おかえり」
僕は飛び上がるほどびっくりした。思わず辺りをきょろきょろ見回した。その声は、公団住宅の角に据えつけられた、藤棚の下に置いてあるベンチから聞こえた。そして、その真っ暗な暗がりから、うっすらと街灯の明かりが灯る通りに立ち尽くしていた僕の前に、川島典子が現れた。例の笑顔を浮かべて。
「お、脅かすなよ」
僕が思わず一歩あとずさって言うと、彼女は「へへ、驚いた?」と無邪気に笑いながら、後ろに両手を組んで、スキップするようにぴょん、とひとつ跳んだ。
僕はつい先程まであれほど会いたいだのなんだのと思っていたことなどどこかに行ってしまい、今しがた自分が心底驚いたことに、つまり自分の小心さというものに内心腹を立てていた。僕はぷいと通りの向こうに向き直ると、仏頂面で「まあね」と答えながらすたすたと歩き始めた。
彼女は両手を後ろに組んだまま、やっぱりスキップするように後をついてきた。
「ねえ、なに怒ってんの?」
「別に」僕は前を向いて歩きながら答えた。
彼女はふーん、と言いながら、人通りのない道を、右へ左へスキップしながらついてくる。僕は彼女がステップを踏むたびに通りに足音が響くのに気づき、やっぱりこれは夢なんかじゃない、と思った。それに、彼女には質量がある、などと妙に科学的な分析までアタマに浮かんだ。僕はハタと足を止めて彼女の方を振り向いた。彼女は驚いたように立ち止まると、肩をちょっとすくめた。僕は彼女に尋ねた。
「どこ行くの?」
「スグルんち」彼女は当然でしょ、という顔をした。
「なんで?」そう僕が問いかけると、彼女はひとつステップを踏んで僕に近寄ると、僕の顔を覗き込むようにして言った。
「行きたいから」
「あっそう」この場合、僕にはこう答えるしかなかった。さらに、なんで? と訊き始めると、永遠に終わらないような気がしたから。それに、街灯に照らされた彼女を改めて見ているうちに、先程覚えた自分に対する苛立ちはもう収まっていた。
僕がまた前を向いて歩き始めると、彼女は僕の腕を取って並んで歩き始めた。歩きながら、彼女は小首を傾げて僕に尋ねてきた。
「ねえ、会いたかった?」
「どうかな」本当を言えば、また会えたことが嬉しかった。一緒にスキップを踏みたいくらいに。僕はそれが顔に出ないように、眉をちょっとひそめて答えた。
「嘘吐き」
彼女はそう言うと、悪戯っぽい笑みを浮かべながら、僕の袖をぎゅっとつかんだ。僕は内心、彼女には僕の考えていることが分かるのだろうか、と不思議に思った。それにしても、と僕は思った。何故僕はまた会えたことがこれほど嬉しいのだろう。それに、やっぱりこうしてみると怖くない。全然怖くない。
僕の腕を通して伝わってくる彼女の感触は暖かかった。けして冷たくはなかった。
僕が鍵を回して部屋のドアを開けると、彼女は「ただいまー」と言いながら玄関にスニーカーを脱ぎ捨てて部屋に上がり、まるでそこにあるのが分かっているかのように部屋の電気のスイッチを入れた。僕はそれにちょっと唖然としながら、ドアを閉めて靴を脱いだ。
「なにがただいまだよ、お前んちか、ここは」
僕がそう呟くと、彼女は振り向いて、「そうだよ」と笑いながら答えて、さっさとリビングに入っていった。僕はやれやれ、と呟きながら、鞄を開けて買ってきたコーヒーの豆を保存容器に移した。薬缶を火にかけて、ミルに豆を入れながら、コーヒー飲む? と訊いた。隣の部屋から、うん、という元気のいい声が聞こえてきた。なんか昨日と同じ会話をしているような気もするな、と思ったが、考えてみれば僕は帰ったら必ずコーヒーを淹れて飲む人間なのだった。
出来上がったコーヒーを持って行くと、彼女は昨日と変わらずソファに座っていた。違うところはと言えば、今日はあぐらをかいている、ということである。つまり、今日はスカートじゃなくてジーンズを穿いている、ということだ。幽霊っていつも同じ格好じゃないのか? 幽霊も着替えるのか?
僕がそんなことを一瞬考えると、彼女は「なんか言った?」と訊いてきた。僕は思わずどきっとしたが、大方考えながら口までぶつぶつ動いていたんだろう、と思い直した。
「別に。へいおまち」
彼女にコーヒーを手渡すと、彼女は「サンキュ」と嬉しそうに言った。
僕は例によって床のクッションにあぐらをかいた。そして、コーヒーをひと口飲むと、今日こそは煙に巻かれないぞ、と決意を固めた。なんだかんだ言って、周りや本から情報を仕入れるよりは、本人に訊いてみるのが一番手っ取り早い。
僕は決意も新たに、煙草を一本くわえると、彼女に声をかけた。
「なあ」彼女は、ん、という具合にちょっと眉を上げると、例の笑顔を浮かべた。「あのさ、幽霊ってことはさ、その、つまり、死んでるわけだろ?」
「そうだよ」
「いつ死んだの?」
川島典子は天井を少し見つめながら答えた。「えーと、あれは四月かな」
「今年の?」
「そうだよ」
「ってことは、まだ三ヶ月も経ってないじゃん」
「そうだね」そう答えて、彼女は手にしたマグカップのコーヒーをひと口すすると、死にたてのほやほやだから活きがいいのよ、と訳の分からないことを言った。
煙草に火を点けながら、笑えないんだけど、その冗談、と僕が言うと、彼女は、だってホントだもん、と口を尖らせた。
僕は仏頂面をして煙を吐き出すと、どうも調子が狂っちゃうな、と思った。こうあっさりとわたしは死んでます、と言われると、はいそうですか、と思わざるを得ない。幽霊だから人間とは勝手が違うのか。僕は質問の矛先を変えてみることにした。
「そのなんだ、なんで死んだの?」
「それってどうやって、って意味、それともどうして、って意味?」
「両方」
「睡眠薬を飲んだのよ」
「ってことは自殺したの?」
「そう」
「なんで?」
「だって、首なんか吊ったら死体がみっともないことになるし、それにわたし、リスカってのも嫌いなのよね、なんかファーストフードみたいで」
「なにそのリスカって?」
「知らないの? リストカット。手首を切る奴よ」
「ああ」僕は煙草を灰皿に押し付けながら、妙に納得した声を出した。「あれをリスカなんて言うのか。なんかケンタとかスタバみたいで嫌だな、確かに」
「でしょ」
彼女は得意げに答えた。僕はなんか質問の方向がずれてるような気もするな、と思ったが、成り行きで質問を続けた。
「それで、どこで飲んだわけ?」
「ここで。わたし、ここに住んでたのよ」
唖然とする僕を尻目に、彼女はうまそうにコーヒーを飲んだ。
6.
これ、と川島典子は頭上に灯る蛍光灯を指差し、わたしが買ったのよ、と言った。僕は思わず、あ、ありがとう、と答えてしまった後で、ようやく合点がいった。彼女がこの部屋の造りに詳しいわけも、この部屋の家賃がやけに安かったわけも。ついでに、あのときの不動産屋の妙に落ち着かない仕草も。
「どうりで」
僕が思わず呟くと、彼女は「え、何が?」と訊き返したが、僕は「別に」とごまかした。
ということは、と僕は考えた。彼女は一種の地縛霊って奴になるのだろうか? 地縛霊、と心の中で想像すると、僕は一瞬、背筋が寒くなるような感じを覚えた。彼女と会って初めて、恐怖らしいものを感じた。しかし、どう考えてもそのおどろおどろしい名称と、目の前にいる、ソファにあぐらをかいて本棚にずらりと並んだ僕のビデオライブラリーを見ながら、あ、これまだ見てないんだ、などと言っている女の子とが結びつかない。
ビデオライブラリー?
僕は彼女が本棚に並んだビデオをいちいち取り出しながらタイトルを見ているのを見て、今彼女が見ている順番で行くと、あと三本で裏ビデオのダイジェストに辿り着くことに気がついた。僕は慌てて声をかけた。
「あの、川島さん」
彼女は面倒くさそうに振り向くと、「テンコでいいって言ってるじゃない」と口を尖らせた。
「じゃその、テンコはいくつなの?」
「三百歳」
テンコは大真面目な顔をして答えた。僕はまた一瞬寒気を覚えた。
「あ、マジでびびった」彼女は破顔一笑すると、「なわけないじゃん」と言って、しばらく笑い転げた。
「お前なあ」
僕はマジでむっとしていた。自分がびびったことに腹が立っていた。なにしろ先日、「インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア」という映画を見たばかりだったのだ。吸血鬼も幽霊も似たようなものだ、三百歳だったとしてもおかしくない。
「二十一だよ。ホントはもうすぐ二十二だけど」
「そうか、テンコは年取らないのか」
「うん」テンコは消え入るような声で言うと、ちょっと寂しそうな顔をした。そんな彼女を見るのは初めてだった。だがその表情もすぐに消えて、元の笑顔に戻ると、「ねえ、スグルっていくつ?」と訊いてきた。
「二十四。でももうすぐ二十五になるけど」
「もっと若いかと思った」
「悪かったな。一浪した上に留年しちゃったしな」
「スグルってさ、ほら、ブラッド・ピットに似てるよね」
「オレあんなに背が高くないぞ」
「それに竹之内豊にも似てる」
「あんなに背が低くないぞ」
「せっかく誉めてるのに、素直じゃないな」
「それにオレは不精髭生やしてない」
「タイプなんだ、わたし」テンコはそういうとにこっと笑った。
僕は思わずちょっと赤面してしまった。
「あ、赤くなった、かーわいいー」
僕は間が持たずにマイルドセブンライトをもう一本くわえて火を点けると、せわしなく吸った。これはもしかしてからかわれているのか? それにいつのまにか、また相手のペースに乗せられて煙に巻かれているような気がする。とにかく話題を変えることにした。
「あのさ、ってことは学生?」
「そうだよ。っていうか、そうだった」
「どこの大学?」
「上智」
「何学科?」
「当ててみて」
「文学部哲学科」
「すごーい、何で分かったの?」
「理屈っぽいから」
僕がそう言うと、テンコはほっぺたを膨らませて膨れっ面をしてみせた。
「スグルはどこの大学だったの?」
「秘密」
「あ、もしかしてわたしより偏差値低いとこだったんだ」
図星だった。僕がむっとして黙っていると、テンコは矢継ぎ早に質問を浴びせてきた。
「学科は?」
「仏文」
「へー、なんで?」
「女の子が多そうだったから」
「すけべ」
僕は口をへの字にした後、煙を盛大に撒き散らした。
「ねえ、スグルって彼女いないの?」
「いないよ」
「なんで? モテそうなのに」
「いないものはいないんだ」
僕は仏頂面をした。僕に彼女がいないのは、僕なりの事情があってのことだ。それはあまり人に自慢できるような事情ではないし、ましてや幽霊に説明するまでのことはない。僕は憤懣やる方ない、といったことを表すように、鼻から煙を吐き出した。ところがテンコはそんなことはお構いなしに突っ込んでくる。
「まあ、じゃなけりゃ、部屋がこんなに散らかってたり、本棚にエロビデオ置いてたりしないよね」
僕はまた赤面してしまった。なんとか反撃しなければ。
「お前さあ、黙ってりゃ結構可愛いのに」
突然、テンコは真顔になると押し黙った。僕はバツが悪くなり、煙草を吸っては煙を吐き出した。ちらっとテンコを見ると、まだ真顔で押し黙っている。僕はとうとう我慢できなくなって言った。
「なにもホントに黙ることはないだろ?」
僕がそう言った途端に、テンコはぱっと花が咲いたような笑みを浮かべると、「ね、ね、可愛かった、ね?」と身を乗り出した。
僕が渋々、うん、と答えると、へへ、とホントに嬉しそうな顔をした。困ったことに、ホントに可愛かった。僕は胸がきゅんとするのを覚えて、慌ててこいつは幽霊なんだ、と必死で自分に言い聞かせた。この子は生きていないのだ、と。しかし、目の前に実際彼女が微笑んでいるのを見ると、どうしてもそれが信じられなかった。そう考え始めると、帰る道すがら、彼女のことを幽霊だと半分以上信じていたことも怪しくなってくる。
「なあ、テンコ」
「なに?」
「真面目な話さ、お前ホントに幽霊なの?」
「うん」
「でもどうやってそれ、信じたらいいんだよ」
テンコはしばらく上を向いて考えると、じゃ、今度なんか考えてくる、と言った。それから急に時計を見て、あ、帰んなきゃ、と立ち上がった。すたすたと玄関に向かう彼女を追いながら腕時計を見ると、十二時ちょっと前になっていた。またか、お前はシンデレラか、と背中に向かって心の中で呟いた。それからふと考えた。ここはひとつ、どこに帰っていくのかついていって確かめる、という手があるな。
テンコはさっさと玄関でスニーカーを履くと、じゃまたね、と言った。僕は慌てて、送ってくよ、と言うと、ありがと、でもいいよ、と言って急に背伸びをすると、僕の頬にキスをした。そしてあっという間に部屋を出ると、目の前でドアがばたんと閉まった。
そしてまた僕はひとりぽつんと取り残された。
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