第9話 失態
子の刻は過ぎただろうか。
十羽は静かに寝返りをした。夕餉をとってからすぐに布団に入ったのに、ほんの少しも眠くならない。
風呂に入り身体は怠く休みたがっているのに、頭が冴えて瞼が落ちない。
(はぁ……眠れない。どうしよう、どうしたらいいの)
真っ暗な部屋も目を開けていると闇に慣れ、鉄之助が休む姿がくっきりと浮かび上がる。あの背中に身体を預け、山を降りた。今着ている着物も、間接的ではあるが鉄之助が買ってくれたものだ。
物言いは冷たいけれど、心底冷たいわけでなはい。優しいがゆえの、冷たさだと知っている。
(でも、鉄之助殿には好いたひとがいる)
十羽は恋仲や夫婦になりたいわけではない。ただ、旅の供になって救われたこの命の恩返しがしたいのだ。鉄之助の助けになりたい。
(なのに、いつも助けられてばかり。何かをしたくても、わたしにはそんな力はない。鉄之助殿はお供はいらないと。諦めた方が、いい? 私がついて行ったら、あの玉簪のひとに迷惑よね)
この町で離れた方がよいのかもしれない。十羽はそう思い始めていた。これ以上一緒にいるのは迷惑であり、女の影を感じながら過ごすのも辛い。
新選組にいた頃には味わったことのない、複雑な乙女心であった。
(生きているだけで幸せなこと。わたしは鉄之助殿とは結ばれぬ運命なんだから……だから、お供はこの町で最後にした方が、いい)
十羽はそう自分に言い聞かせ、鉄之助に背を向けて布団をかぶった。早く朝になって欲しいと思いながら。
◇
まもなく夜が明けようとするころ、常世は目覚めた。久しぶりに夢も見ないほど深い眠りだったなと、驚いた。
土方為次郎の家にいたときでさえ、こんなことはなかった。誰かが静かに厠にいく足音ですら感知して目覚めたものだ。
―― 鰻のせいか……いや、温泉か?
分からないのだ。
とにかく安眠であったのは間違いなかった。
布団から起き上がり伸びをしながら隣に目をやった。恐らく十羽はまだ夢の中だろうと思いながら。
「いない……」
厠にでも行ったのか、それとも散歩にでたか。
―― まさか、もうここを立ったのか
十羽の荷物が何ひとつ残っていない。
常世はもう一度あたりを見回した。十羽の匂いまでも消えている。隣に敷いていた布団も、揃いの寝巻きもなにもない。まるで、初めから一人だったような空気が部屋の中を漂っていた。
―― まて、おかしいだろう
常世は目を閉じ、精神を集中させて十羽の気配を探ってみる。この旅籠の中から周辺まで。
路を掃く人の気配、道行く人の声を耳と肌で感じてみる。しかし、その中に十羽のものまたは十羽に近いものはない。
「嫌な予感がする」
常世は素早く身支度を整えると、宿の者を呼び止めて十羽のことを尋ねた。
「連れの姿がないのだが、知らないか」
「お連れさまですかい。はて、どのような方でしょう」
常世は諦めて、朝餉を運ぶ女中に声をかけた。昨晩、夕餉を運んできて精を出せと言った女中である。彼女ならば十羽のことを覚えているはずだ。
「すまん。連れを見なかったか」
「お連れさま……旦那さまはお一人ではなかったでしょうか」
「おい、冗談はよせ。昨晩食事を運んできたときに、女がいただろう。二人分の鰻を運んできたことを忘れてのか」
「わたしが、ですか? さて……」
女中にふざけている様子はない。むしろ、常世がおかしな事をっているが客人ゆえにむげにできないと、困ったふうだ。
「もういい。邪魔した」
「お役に立てませんで」
女中は何人もの客を相手にしている。少しばかり言葉を交わしたからと言って、覚えられているとは限らない。常世はそう思うことにした。
―― 俺たちと違うんだ。普通の人間はいちいち人の顔や声を覚えたりしたない。ましてや、たった一度の面識ならばなおのことだ。
常世は旅籠の前の通りに出た。
大きな通りでけっして見通しが悪い場所ではない。風がよく通り、人々の活気が少しずつ湧いてくる。
「うん? なんだ、これ」
外に出たときに異変に気づいた。
常世の鼻が急に通ったのだ。常世は何気に今出てきた旅籠の方を振り返る。
「くそ! なんで気付かなかった! 俺はいったい何を惚けていた、馬鹿野郎だ!」
道行く人が怒り叫ぶ常世を振り返る。
常世はそんなことはどうでもいいと、通りの先を睨みつけた。
―― どこの忍びの仕業だ!
常世は術にはめられたのだ。おそらく、宿に足を踏み入れたときから始まっていた。
十羽の様子を気にするあまり、ほんのり甘い鰻の味に気がつかなかった。関西との味付けの違いか、自分の置かれた環境の違いのせいだと思っていた。
夢も見ないほどの深い眠りは、そういうことだったのだ。
―― 盛られた! その間に十羽は
よく寝たくらいで済んだのは常世だからかもしれない。おじじとの鍛錬の過程で毒への耐性もできていた。もし普通の人間なら、二度と目が覚めなかったかもしれない。
常世はもう一度、町の様子を探る。匂い、音、そして十羽の影を雑踏の中に見つける。
「くそ! かなり遠くに行ってやがる」
常世はひと目も気にすることなく地面を強く蹴った。気づけば疾風の術で町を駆け抜けていた。
あかの他人でどこの生まれかも知らない女。知っているのは元新選組隊士で、すぐに泣くか弱い女。
ではなぜ必死に探しているのか。それは、担任常世が女に泣かれるのは困るからだ。
妹と同い年の十羽が泣くと胸が締めつけられたように苦しくなる。きっと今ごろめそめそと泣いているに違いない。
そう思うと、土を蹴る脚に力が入る。
―― どこだ! どこまで行った!
常世は十羽を連れ去ったのは複数人だと思った。
それも、かなりの手慣れた者たち。彼らが残した臭いとわずかな気配はこれまでの
それに、移動速度が速い。
それは単なる浪人や野盗ではないということだ。
とにかく常世は走った。
辺りに漂う花のような香りは、十羽が私を助けてと訴えているように感じた。
そして、常世が半日走り続けてたどり着いたのは、何日か前に出発した江戸(東京)の町であった。
「なぜ十羽は攫われたのかを考えろ。あのとき倒した輩の仲間か……目的は、十羽が元新選組隊士だからなのか。だとしたら、金目当てだな」
どこに行けば、残党狩りの情報が得られるのか。まさか、政府に面と向かって聞けるはずもない。それをすると、常世自身も危険だ。
「くそ……」
この町に常世の伝手はないに等しい。
このとき常世は初めて途方に暮れた。
◇
「あれ? 鉄之助じゃねえのか」
日が傾き始めたころ、常世の背中に話しかける人物が現れた。
―― 市村鉄之助のことを知っているやつか……めんどくせえな
「おい、なんとか言えよ。俺だよ、俺」
大柄な男が常世を肩越しに覗き込んだ。そして、常世が扮した市村鉄之助を確認すると、にかっと笑みをこぼし正面に姿を移した。
「やっぱり鉄之助だったか! いやぁ、デカくなったなあ。噂には聞いてたが、生きていたんだな。原田が生きていたら、喜んだだろうよ」
「な、永倉さん……」
永倉新八であった。
実は常世はあまり永倉のことを知らない。大阪から江戸に出てすぐに、永倉は原田と一緒に新選組と袂を分かったからだ。
原田がといった言葉から永倉だと推測したまでだ。
「おうおうおう! おまえ、いい男になったじゃねえか。あの頃のおまえは男か女かわかんねえ、どっちつかずの風体だったが……そうか、年月がそうさせたんだなぁ」
そう言いながら、永倉は常世を脇に抱え込んでしまった。
―― うおっ! なんなんだコイツ! 抜け出せねえ!
がっちりと抱え込まれた常世が、どんなに足掻こうとも永倉の腕は弱まらない。むしろ、その抵抗を喜ぶようにうりうりと締め付けてくる。
「かっ、勘弁してくださいっ」
「そうだ! 今から斎藤と会うんだよ。おまえも来いよ。でさ、土方さんの最期聞かせてくれよ。いろいろあったけどよ、嫌いじゃなかったからよ」
―― 斎藤って、会津で一緒だった山口二郎だよな。だめだって! 俺はあの男に会うわけにはいかない!
「今からって、俺には大事な用があるのです」
「いーや、ないね。宿も持ってないだろ。しのごの言わずについて来いってんだ。なんだったら仕事もみつけてやらぁ。所帯持ちたけりゃ、女も紹介するぜ? おまえは幸せになる権利があるんだよ」
―― いやいやいや、待て! 待て!
「すみませんがっ、その腕を離してくださいませんか! 苦しいのですが!」
「おっとすまねえ。ここじゃ周りの目があったな。積もる話は店についてからだ。行くぞ」
「うおっ、なぜ担ぐー!」
まさかの永倉新八に出会ってしまった。永倉は久しぶりに元同士に会えたことが嬉しいようだ。
それはさておき、山口二郎も合流するという。常世にとってそれだけは避けておきたい案件である。
なんせ、常世は会津で山口二郎の配下にいたのだ。沢忠助として。
その山口は、市村鉄之助のことを特別な目で見ていたのを知っている。
おそらく、市村鉄之助が女であることを承知していたのではないか。
―― 不味い……不味い!
さすがの常世にも永倉の拘束を解く術は持っていなかった。凄腕の剣士であったのは本当のようだ。
「永倉さん、自分で歩きます!」
「おうわかった、わかった。もう着くからよ」
「ですから!」
―― くっそー! もう、どうにでもなりやがれ!
常世はやけっぱちになるしかなかったのであった。
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