第8話 女心
駿府で宿をとった。
言うまでもなく、一部屋だ。
しかし、身の上を話すのも面倒だし、いらぬ推測をされるより夫婦だと思わせていた方がいいと判断した。
「夕餉はいかがいたしましょう」
「そうだな、適当に頼めるか」
「お任せくださいませ。支度をしている間に風呂にでもどうぞ。うちの自慢の風呂ですから是非に。桶と手ぬぐいはそこにあります。ごゆるりと」
「うむ」
十羽の気分を変えてやろうと選んだ宿は、少しばかり値もはった。しかも、もてなしの良さに常世は気恥ずかしくなる。
風呂桶に手ぬぐい、よくよく見れば夜着らしきものまである。しかも寸違いの同じ柄である。
「くそぅ」
「鉄之助殿、どうかなさいましたか」
「いやなんでもない。とりあえず先に風呂に入れ。で、飯食ってさっさと寝るぞ」
「はいっ」
さっきまで泣いていた十羽は、もう眩しい笑顔を晒している。常世は思わず顔を背けた。
「さっさと行けよ」
「はい」
―― 調子が狂う。
◇
久しぶりの湯はやはり気持ちがよかった。とはいえ、常世にとってのゆっくりはその言葉の意味をなさないほどで、まるで烏の行水だ。
いつなん時に襲撃を受けるかわからない状況に慣れすぎていたせもある。
手ぬぐいで額の汗を拭いながら部屋に戻ると、常世はおもむろに腰を下ろした。
十羽はしばらく戻らないだろう。
常世はずっと隠し持っていた
玉の部分には椿の花柄が彫ってある。箱館の冬に、土方が自ら彫ったものらしい。それは常葉にではなく、大阪に居る医者の山崎椿という女のためらしい。
―― なんだって俺はこんなものを預かったんだ。自分の好いた男が、他の女のためにこしらえた品を托すなんてどう考えてもおかしいだろ!
「お人好しにもほどがある」
常世は椿と言う医者のことはあまり知らない。常葉がどれほど世話になったのかも知らない。知っているのは、新選組の軍医だったと言うことだけだ。
鳥羽伏見の戦いのあと、新選組から離れたらしい。よほど慕われていたのか、口数の少ない山口二郎が懐かしそうに話すほどだ。
「椿……か。どんな女だよ」
早く届けて自由になりたい。過去に縛られるのはこれで終わりにしたい。幕府も新選組も、大事な妹も常世の世界にはもう存在しないからだ。
「ぜんぶ、持っていかれたなぁ。何のために俺は生きているんだっけ?」
おじじとの約束。全ては妹を守るためだった。
常世は玉簪を丁寧に包むと、再び大事にしまった。
◇
十羽は急いで部屋に戻ろうとしていた。思いの外、長々と湯に体を浸してしまったのだ。
宿の風呂は広々としており、ちょうど良い湯加減だったので仕方がない。
(しまった、遅くなっちゃった。女は長風呂だなって、叱られちゃう)
火照った顔を押さえながら部屋の前まで来た。まだ、夕餉の膳は運ばれていないようだ。
十羽は一呼吸入れて、障子に手をかけた。油が引かれた障子は音もなく滑らかに滑る。
半分開けた時、鉄之助の姿が目に入った。同時に、慈しむような眼差しで可愛らしい簪を指先で転がしながら見ていた。
「お人好しにもほどがある……椿、かぁ」
ため息まじりに囁いたのは、椿という女の名前だった。
(あ……)
鉄之助には想いを寄せた女がいたのだ。そう、十羽は思った。
簪の玉の部分を丁寧に拭いて、大事そうにしまう仕草を見た十羽は心臓が痛んだ。
ぎゅっと強く握られたような、局部にはしる痺れるような痛みであった。さっきまで火照っていた身体は、あっという間に血の気が引いて寒さを覚えた。指先が震える。何も知らずに呑気にしていた自分が、とてもとても恥ずかしい。
その時ちょうど、食事が運ばれてきた。
「お待たせしました。よい頃合いでしたね。さあ、さあ、ご覧くださいませ。鰻のかば焼きをお持ちしました」
「鰻か、ありがたい。おい十羽、突っ立ってないで座れよ。腹減っただろ」
「あ、うん」
十羽の気持ちなどつゆ知らず、常世は箸を持ち上げた。宿の女中は去り際に常世にそっと囁く。
「若旦那様、精をお出しくださいませ……」
「ぶはっ」
何てことを言うのだと、顔を赤くしたまま睨み返したが女中は口元に手を当てて笑うばかり。
「お膳は明日の朝引きますので、そのままに。では、ごゆっくり」
二人を夫婦だと、信じているのだ。
互いになんとなく気まずい空気が流れ、ただ黙々と目の前の膳に箸を運んだ。鰻は大阪で食べたのが最後だった気がする。まだ、常世が新選組に潜入する前の記憶だ。
―― 懐かしいな。しかし、大阪で食べた時より甘いな……
背中から開いた鰻は甘辛い醤油で調理されている。甘味を感じると、なんとなく時代の落ち着きを感じる。いや、忙しない日々が甘味を忘れさせていたのかもしれない。
―― それにしてもなんだよ。ご機嫌斜めだな。風呂に行く前は笑ってたじゃないか。泣いたカラスがもう笑うって思ったんだが? まだまだガキだな。
「……違います」
「あ?」
「ガキではありません。機嫌もそんな、悪くないです」
「ちっ、読んだな」
「読んだのではないです。聞こえてくるんです、鉄之助殿の声は……大きいから」
「大きい? 俺の心の声が?」
「はい」
そう言えば、土方歳三の兄の家に世話になっていた時、盲目の土方為次郎が「常世の声はよく聞こえる。常世は話したがりなのだろう」と言っていた。
常世は為次郎のことを思い出すと何故か泣きたくなる。土方とは違い、為次郎には身体から優しさが溢れていた。ぽかぽかと春の日差しに包まれているような人だった。人を憎まず、人の善を信じ、人を見守るような人物だった。
しかし、自分の生き方を見失った常世には、縋りたくとも縋れないという苛立ちがあった。悟れるほど生きていない、全てを諦められるほど心はまだ満たされていない。
―― くそっ!
「ごめんなさい」
「なんで謝る」
「なんとなく……」
(声が聞こえてもわたしには、何もできない……)
勝手に人の心が読めてしまう十羽も、苦しいのかもしれない。互いにまだ経験が十分でなく、若さゆえの焦りや苛立ちがある。
「別に、十羽に怒ってるわけじゃない。自分に苛々しているだけだ。ほら、食えよ。鰻は栄養がある。おまえは笑っている方がいい」
「でも」
「おまえのせいじゃないだろ、心が読めるのは。まあ、俺にとっては厄介だけどな」
「やっかい……」
「おまえが厄介者ってことじゃない。俺の考えや思ったことが丸聞こえってのが調子が狂う」
―― 恥ずかしいだろ……
「裸にされてるみたいだ」
「はっ、裸にって! そんなつもりはありませんからっ。やだ、裸にだなんて」
十羽は箸を置いて、真っ赤になった顔を両手で隠した。細く見える常世の着物の下を、ついつい想像してしまったのだ。
自分を背負い、高く跳ね、速く走る常世の身体は間違いなく逞しい。硬いようで柔軟な筋肉は太くも細くもない。それでいて温かい。
「ばーかっ」
「ごめんなさい」
「もういいからしっかり食え。食ったら寝ろ」
でも、常世には想い
十羽は気づいてしまった自分の気持ちを、どう整理したらよいのか悩み始める。
十羽は、これまででいちばん長い夜を過ごした。
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