第18話 俺は、俺として生きる
「これでも俺が、鉄之助だと言えるのか」
覆面の下から現れたのは十羽が知る顔ではなかった。そこに見えるのは十羽が知っている鉄之助よりも、どこか男臭さがあった。眉も目も鼻も唇も、顔の輪郭も端正で鉄之助とは違い、年齢もぐっと上に見えた。鉄之助はどこか子どもに近い柔らかさがあったように思える。しかし、目の前の男はまるで別人だ。
十羽は驚きと衝撃で足元が覚束なくなり、よろけながら尻もちをついた。手を胸に押しつけて必死に落ち着こうとした。言葉など出るはずもなく、息をすることだけで精一杯な自分を男はただ見ているだけだ。
夜の帳はとっくに降りて、辺りは真の闇へと変わっていた。街の灯りは頼りなく、橋を通る人もほとんどいない。少し肌に寒さを感じた。
「冷える」
男は十羽のそばに落ちていた羽織りをそっとかけた。十羽を遊郭から連れ出したときに、あの大柄の男が持ってきたものだろう。男物の着物だった。
十羽の肩にそっとかける男の仕草は乱暴ではない。十羽を気遣うように、葉が落ちるように静かにゆっくりだ。十羽が見上げると男の顔は、暗闇でも瞳の輝きがわかるほど近くにあった。
男と視線が合う。
男は動揺からから、その鋭い瞳を微かに揺らした。
「あのっ」
十羽は思わず離れてゆく男の装束の裾を握った。男はその手を払う様子はなく、そのまま動きを止める。
「あなたが鉄之助殿ではないのなら、いったい誰なのですか。鉄之助殿でないことは分かりましたが、あなたが鉄之助という人を演じていたのは分かります」
「……分かるのか。俺が鉄之助だったということが」
「なんとなくです。顔は違えど、その手とあなたが纏う匂いは同じでしたから」
十羽は男の顔をじっと見つめながら、願うように言葉を紡ぐ。
「あなたのお名前を、お教えください。お願い、します」
「俺の、名……」
常世は迷った。十羽に自分の本当の名を告げてよいものかと。己の名を告げれば、自分の中で抑えていた何かが溢れ出そうで怖かった。妹を守るために借りた他人の身分を返したとき、本当の自分はどうなるのか。近ごろは、本当の自分が存在するのかさえ不安になるほど、自分というものから離れすぎた。
ではなぜ常世は、十羽を助け出すときに鉄之助ではなく常世の姿に戻っていたのか。
―― 分からない。俺はなぜ、鉄之助の姿をやめたんだ。
藤田五郎と永倉新八と吉原にきたとき、自分たちの姿を見た女廊の女たちが、格子の間から手を出し足を出しして自分を買えと乞うてきた。これまで見たこともない派手な着物、真白な肌に紅をのせたまるで妖のような女たちが常世を見ていた。
あの中に十羽がいる。そう思うと、腹の中が熱くなった。
『お兄さん、あたしを買って』
その声が十羽であること、そして振り向いたときの女の容姿に鉄之助の姿を借りた常世は情けないことに怖気付いたのだ。助けを求める十羽の声に、常世は答えることができなかった。
もちろん、救出の計画をしていたのもあった。仕損じるわけにはいかなかった。しかし、あの時、十羽を連れ去っていれば、もっと安全に、外に連れ出してやれたのではないか。
永倉が買うふりをせずとも、藤田が警察をわざわざ呼ばなくとも、もっと早く十羽を逃してやれたはずだ。
「もう、会うことはないのでしょう? わたしを助けたばっかりに、あなたは好いた
十羽の裾を握る指に力が入った。お願いだから、黙ったまま私から去らないでと言っているようだ。
「ずっと他人の姿を借りて生きてきた。鉄之助の前は、沢忠助という男の身分を借りて会津の戦争を戦った。俺は俺に戻るのが怖いんだ。いまさら戻ってこの先どう生きたらいいのか分からない」
「でも、あなたを待っている人がいるのでしょう。その人をこれ以上待たせてはいけません」
「俺を待っているひとなど、いない」
「でも、
「簪……なんで知ってる」
「あ……それは」
駿府の宿に泊まった時、大事そうに手に取っていたのを見てしまったと十羽は言う。
「見られていたのか。なるほど……あの簪は俺の妹から託されたものなんだ。世話になった女の医者に渡してほしいと」
「妹さんがいらしたのですか」
「ああ。妹が市村鉄之助で土方歳三の小姓だった。ややこしいよな。妹も他人の身分を借りて新選組として生きていた。その理由は聞くな。説明が難しい」
「もしや妹さん戦死、されたのですか」
「さあな。箱館戦争のあとのことは知らない」
「妹さんの代わりに、あなたが鉄之助殿になられて……」
「おい、なぜ泣く」
十羽は泣いていた。
言葉には言い表せない感情が込み上げてきたのは間違いない。十羽の瞳からはらはらと涙が溢れてくる。それを拭うことせずに十羽は常世を見つめ続ける。常世にそんな十羽を慰める術は持ち合わせていない。どうしたらよいのかおろおろするだけだ。
「誰かに代わってまでして、使命を果たさなければならないなんて……苦しい。もう、自由になっていいのに。あなたの人生を生きてほしい」
「くっ――」
十羽の言葉に重なって、常世の耳に土方の兄の為次郎の声が聞こえた。
『行きなさい。自分の人生を生きておくれ』
穏やかで優しくて、なんでも見抜いてしまう心眼の持ち主は常世に自分の人生を歩めといった。
妹の常葉は全てを捨てて、土方と共に生きる道を選んだ。山口二郎は藤田五郎となり新しい道をゆくといった。誰もが過去よりも今、今よりも未来に向かって己の人生切り拓いてゆく。
だが、どうだ。
―― 俺だけが、ずっと、箱館戦争を引きずっているのか。あんなに嫌いだった新選組を、俺だけがこだわっているとでもいうのか! そんなの、嫌だ!
「俺はっ、藤林常世という」
「ふじばやし、とこよ」
「ああ。忍びの末裔だろうとだけ、おじじに聞いた。俺と妹は生まれてすぐに捨てられたんだ。海に流され南の国で育った」
「忍びの末裔……わたしと同じ。私も里の長老にそう言われた。だから人の心が読めると。藤林……もしかしたら伊賀でしょうか。私は青山というの。甲賀なんだって」
「俺には伊賀とか甲賀とかどうでもいい。捨てられたんだから、忍びでもなんでもない」
「そうですね。関係、ない。それに、もう心は読めなくなりました。わたしを買った、大きな男の人の心、全然読めませんでした」
「あれは永倉新八という。新選組の組頭だった男だ」
「ええ! 原田さんと同じ新選組の」
十羽は屯所を出入りしたことがなかったため、他の組の長すら知らなかったのだ。原田と共に新選組を抜けた永倉にも会ったことがなかった。
「読めなくなったんじゃなくて、読ませてもらえなかったのかもな」
「そう、だったのですか。でも、わたし、常世殿の心も読めませんでした」
「それは、たぶん。鉄之助ではなくなっていたからかもしれないな」
鉄之助の顔をたもてなくなったのは、天井裏から十羽の艶かしい姿を見てしまったからだ。自分より年下の妹のようなあどけない顔が、男を惑わす遊女になっていたからだ。それはどの女よりも美しく、妖艶だった。
常世は十羽の頬に流れた涙を指で掬った。ぱちぱちと瞬きをする十羽はもう妹とは重ならない。
「あの、常世殿」
「殿も様もいらない。常世でいい」
「急には無理です」
「まあ、いいか。それより行くぞ。ここは寒い」
常世は十羽の手を引いて立ち上がらせた。遊郭での騒動も落ち着いただろう。作戦が成功したら、藤田五郎の家に向かうことになっている。
常世が十羽の手を引いて歩き出したそのとき、背中に嫌な気配を感じた。ぴたりと常世の足が止まった。
「常世殿」
「ああ、ちょっと不味いよなこの気配」
「……はい」
常世は十羽を背に庇いながら、ゆっくりと振り向いた。暗闇の中に浮かび上がる黒い影。その黒い影はただならぬ殺気を放っていた。
常世には分かる。この男はわざと殺気を出している。これだけの気配を剥き出しにするのは、男に相当な自信があるという証拠だ。
「女を置いて行け」
男は地を這うような低い声でそう言った。男も忍び装束を身につけている。背中には刀が二本、ひたいに鉄の鉢巻。この時代に、絵に描いたような忍びが現れるとは常世にとっても想定外だった。
「嫌だ、と言ったらどうする」
時間を稼ぎたかった。
隙を見つけたかった。
「であれば、おまえを殺す」
完璧までの威圧感に隙は見つけられない。
「なぜこの女にこだわるんだ。遊女の一人が消えたって、大した問題じゃないだろ」
「遊女の一人ならこうまでして追わぬ。その女の両親は我が一族を裏切った。掟によってその血を引く者は皆、抹殺される」
「へぇ、野蛮な掟だな」
じりと、足元の小石が鳴いた。
次の瞬間、
「常世どの!」
常世はいつのまにか膝をついていた。腕を後ろで固定され、背中にあの男の足がある。抗うとその足は容赦なく踏みつけ、腕は捻り上げられる。
―― うっ、
「おい、女。こいつを助けたかったら今すぐ自害しろ。できねぇなら、この男を殺してからおまえを殺す」
「十羽! 逃げろ!」
常世、十羽、ここに来てまさかの危機である。
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