第17話 遊郭脱出

 黒装束の男に天井裏に連れ込まれた十羽は、男から微かにあの懐かしい匂いを感じとった。その男はもう一人しかいない。


(鉄之助、殿……)


 店の天井裏は這うほどのものではなく、立ち上がることはできないが思ったよりも広かった。男は天井の枠を元のようにはめ込むと、十羽にこう言った。


「その打掛、脱ぐことはできませんか。今からここを進まねばなりません。身動きが取りづらいかと」


(声が、少し……違う?)


「あ、はい。脱ぎます。たくさん重ねていますから」

「すみません」


 十羽はその場で帯を緩め、打掛を脱いだ。そして、もう一度、帯を締め直す。しかし暗闇のせいでなかなか手早く手が動かない。それを見かねたのか男が手を差し出す。


「失礼。あまり時間がないので」


 男は抑揚のない声でそう言うと、十羽の帯締めを手伝った。この男、夜目もきくらしい。


「暗闇でも、見えるんですね」


 十羽の問いに答えることはなく、男は無言のまま十羽の手を引いた。男の横顔は覆面で隠されていて確認できない。目元が辛うじて見えるが、十羽は夜目がきかないので確かな確信を得るに至らない。


(常世殿では、ないの?)


 下の部屋から差す光が天井板の隙間からこぼれた。そんな時はどうしてもこの男の正体を確認したくなる。十羽は自分の手を引く男の指先をその光にあてて見つめた。

 やはり、自分が慕う男のものに見えて仕方がない。


 そのとき、後ろの方で人の声がした。十羽は思わず振り返る。


「どういうことだ! 女をどこにやった!」

「知らねえな! こっちが聞きてえくらいだ!」


(私を買った男の声だわ。もう逃げたことが知れたの⁉︎)


 黒装束の男はそんな騒ぎには動じもせず、十羽の手を「行くぞ」と引いた。しかし、怖くなった十羽の足は動かない。自分のせいで逃げろと言ったあの男が、酷い目にあうかもしれないからだ。


「わたしのせいで、あの人……」

「あの男は大丈夫だ」

「でもっ!」

「しっ――」


 十羽の声は黒装束の男の静止を上回った。


「誰か上にいやがる!」


 すぐ下の部屋が騒ぎ始めてしまう。


 ―― まずいっ


 そして、


 ドン! ドン! ズザッ……ズザッ!


 槍が天井の隙間から突き出てきた。それは一本ではない。複数の槍の刃が隙間を突き破って飛び出してくる。その刃を避けたはずみで、十羽を引いた手が離れてしまった。男は尚も飛び出してくる刃を避けながら、懐に手を入れる。


 十羽には、何が起こったかわからなかった。ボンッという音がして、天井の板が一枚壊れたのだ。そして、煙のようなものが下の部屋を覆い、複数の男たちが咽せながら散った。


「行くぞ、手を出せ」

「あ、はいっ」


 その手はやはり、十羽が知っている男の手に似ていた。握ると強く握り返してくれるそれが、とても頼もしい。

 十羽は男と一緒に天井裏を逃げた。腰をかがめたまま走るのは容易ではない。打掛を脱いでいても、着物の裾を踏んでしまう。幾重にも重ねられた艶やかな着物は、十羽の足の動きを阻んでくる。


(ああもうっ! ぜんぜん足が動かない)


「くそっ、逃すか!」


 しかし、追手は諦めていなかった。一人の男が天井裏へと飛び上がり、今にも十羽の着物を掴もうとしていた。


「おらおら、逃げてんじゃねえぞ。死にてえのか!」


 突然、十羽の腰回りが軽くなる。男が腰から短刀を抜き、十羽の帯を切ったのだ。


「きゃっ」

「ここだ! ここを狙え! 刺せ! 殺せぇぇ!」


 男は天井板をドンドンと叩き、下にいる仲間に居場所を知らせる。その途端、無数の鋭い刃物が下からズサズサと突き出した。


「いっ……つぅ」


 十羽の足を刃物がかする。男の手に引かれながら、辛うじてそれらを寸前のところで避けている状態だった。しかし、狭い天井裏では限界があった。

 もう、ダメだ。そう思った時、逞しい腕が十羽の体を引き寄せる。

 そして、


 シュッ――


 黒装束の男は、懐から暗器を取り出し素早く投げたると、迫り来る男の肩にそれが命中した。


「ぐっ、き さ ま!」


 とうとう男は腰から、黒い鉄の塊を抜いた。それが何であるか察した黒装束の男は十羽を素早く自分の背中に庇う。


 パンッ!


 乾いた音が十羽の耳を刺す。この音を聞いたのは初めてではない。鳥羽伏見の戦いで逃げるときに、嫌というほど聞かされた銃声だ。


「……ううぅ」


 十羽を庇った男から呻き声がする。まさか十羽を庇ってこの男は被弾したのではないか。


「あの! もし⁉︎ 大丈夫ですか!」

「かまうな、逃げろ……っ」

「でも!」


 黒装束の男は十羽に行けと後ろ手で押す。その向こうには、まだ銃を構えた男がこちらの様子を伺っていた。


「十羽! おまえがここから逃げないと、俺も逃げられない。俺はおまえをここで死なすわけにはいかない! おまえには、おまえの人生を」

「鉄之助殿!」


 十羽は確信した。間違いなくこの黒装束の男は鉄之助であるということを。


「行けよ!」

「貴様ら、まとめて……殺して、くれるわ!」

「十羽!」

「鉄之助殿!」


 パンッ、パンッ――――


 天井裏で数匹の鼠が走り出す。銃声が響く中、大きな体が傾いて、倒れたはずみで板が抜ける。

 バキバキと音を立てて、大きな影が落ちていった。


 ドサ……ぴくりとも動かない男の体からは、赤黒い血が流れ畳に滴る。女廊たちの悲鳴が店を駆け巡った。



 ◇



 十羽が気づいたとき、自分の体は川の橋の下にあった。遊郭での騒動が嘘のようにあたりは静まり返っている。ただ、川のせせらぎが聞こえ、ときどき橋を歩く人の行燈が川の水面を照らした。

 そんな中、十羽は人の温もりを背中に感じ、はっと我にかえる。

 自分を助け出したのは鉄之助だった。そう思いながら上体を起こした。


「おっ、目が覚めたか。足を怪我してるようだが、なに、すぐに治るだろうよ」

「あ、あなたはっ」


 振り返った十羽は落胆した。自分を買った男が、十羽を抱きかかえていたからだ。慌てて男の腕の中から飛び出した。まさかの出来事に十羽は混乱する。


「なかなかの騒動でよ。あいつら鉄砲持ってやがった。今、警察ってやつが店の中に踏み込んでるんだ」

「あの! あの方はどこに」

「あの方って……ああ、あの若えやつか。まったくあいつはよ、本当に信じられねえぜ。暗器に毒を仕込んでいたらしいぜ。お陰であいつら、泡食って眠っちまった。それにしても俺をうまいこと騙しやがって。ま、騙された俺も俺なんだけどよ」

「ご無事なのでしょうか!」

「そんなに、あいつに会いたいのか。若いってのはいいねぇ。けどよ、お十羽ちゃんに受け入れられるかねぇ……苦労するんじゃねえのかな。あいつ、ひと癖もふた癖もあるぜ?」

「あの、仰る意味がわかりません」

「なんつうか、その……背負ってるもんが普通じゃなえっていうか」


 十羽は鉄之助が普通かどうかなんて考えたこともなかった。それよりも、この時代に普通の人間がどこにいるのかとさえ思う。吉原という街で男は女の体を買い、女は自らの体を売って借金を返す。あわよくば身請を願い、幸せな女の未来を夢見る。

 自分だって普通ではない。新選組に入る前の茶屋で働いていた以前の自分を、誰にも語れやしない。


(わたしの中に流れる血は……普通のものではないから)


 この読心術は忍びの末裔である証拠だと、里の長老から聞かされた。


「わたしも、普通ではありません」

「ああ?」


 そのとき、河原の小石が鳴いた。ふと、そこに目をやると黒い袴に黒い脚絆きゃはんが見えた。まるで忍びが着る装束に似ていて、十羽はその人物を見上げた。

 黒い頭巾を被ったその男は目元だけ覗かせて、じっと十羽を見ている。

 間違いない。

 十羽を天井裏から逃した黒装束の男だ。


「ご無事だったのですね! 鉄之助殿!」


 男が無事だったのが嬉しくて、十羽は叫んだ。鉄之助が危険を顧みず、忍んで助けに来てくれたのだと十羽は信じていたのだ。


「おっと……思ったより元気そうじゃねえか。んじゃ、俺は外すとするか。藤田はどうした」

「あと処理を警察と」

「分かった。行ってみるとするか。じゃあな、しっかり話せよ」


 大柄な男はそう言うと、砂利をじゃかじゃか草履でかき混ぜながら去っていった。橋の下に残されたのは、十羽と黒装束の男のみ。


「あのっ、ご無事でなによりです。お怪我は!」

「……大事ない。あんた、足は」

「こんなの、かすり傷です。すぐに治りますから。それより鉄之助殿、わたしを助けてくださりありがとうございました。これで、二度目、ですね」


 十羽は男に頭を下げた。男はそんな十羽に何も言わない。だから十羽は心を読もうとした。

 しかし、その前に男が口を開いた。


「俺は、市村鉄之助ではない」

「そんなはずは」

「俺は市村鉄之助ではないんだ。それは、本当だ」

「嘘です。その手も、その目元も、その声も、それにわたしを抱き上げたときの匂いも、わたしが知っている鉄之助殿でした! あなたは市村鉄之助です!」


 十羽は男の襟を掴んでそう言った。仮にこれで最後だと別れを告げられても、そんな嘘をつかれてはたまらない。


「これが最後だと言うのならば受け入れます。好いた人がいることも知っています。でも、そんな嘘だけはつかないでください。お願いします」


 十羽の縋るような言葉に、男は膝をついた。そして、黒頭巾の結び目に手を掛ける。

 しゅると衣が擦れる音がして、男の口元、鼻、そしてその顔の全てがあらわになった。男の黒い両の眼が、十羽を見上げとらえる。


「これでも俺が、鉄之助だといえるのか」

「え……」





 男の顔は十羽の知る、市村鉄之助……では、なかったのだ。

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