第15話 お兄さん、わたしを買って

「おやまあ、えろう別嬪さんだこと。やっぱり黒田様は見る目があるねぇ。中見世から始めるなんて聞いたときにゃ、勤まるのかって疑ったもんだ。男とまともに話もできやしねぇし、困ったもんだって気を揉んでたんだよ。それが、ほれ。変わるもんだねぇ。どうりで、見世に出す前から客がつくはずだよ」


 あの日、十羽は見知らぬ忍びのような男に攫われて、目が覚めた時には吉原という街にいた。何日か眠らされていたのだろう。ここが吉原の、しかも遊郭であるのを知ったのは、見知らぬ女たちに囲まれていたからだ。


(鉄之助殿、どうしてるかしら。きっともう遠くへ行ってしまってる。だって、鉄之助殿には好いた人がいるもの)


「今夜はあんたの初仕事だからさ、綺麗にしてあげたけど、明日からは自分で仕度するんだよ。大夫でもないんのに、ここまで手をかけてもらえるなんて幸せなことだよ。いくらの借金があるかは知らないけど、ここの女たちはみんな同じ。早くここから抜けたいなら、男をとって稼ぐこと。まあ、中見世だからそこそこ銭子を持ってる男しか来ないけど。ほんと、あんたは運がいいね。さあ紅をひいて……うん、これでいい。鏡を見てみな、これがあんたさ。別人だろう?」


 十羽はひと通りの化粧を施され、鏡の前に押しやられた。十羽の肩越しに世話役の女が口の端を吊り上げて笑っていた。

 そして、その女の隣で艶やかな着物を着た女がひとり。まさかこれが自分の姿とは思えなかった。まともに化粧をしたのも初めてであったし、襟口をこんなに広げたこともなかった。


「なに、ぼやっとしてるのさ。今夜からあんたの名前は緋色ひいろだよ。この着物の下に着た赤い襦袢と同じ色。今夜相手にする旦那は、女の扱いには慣れた優しいお方だってさ」


 男から目をつけてもらうために、女たちは自分を美しく着飾る。十羽も同じだ。うなじがよく見えるように高く結われた髪には、煌びやかな簪や櫛が何本も刺さっている。目尻と唇には紅色をのせられて、胸元と背中が露出するように着付けをされている。

 鏡に映っているのは、まぎれもなく遊女であった。


「い、いやっ」


 やっと放った抵抗の言葉は、あまりにも弱々しかった。


「何が嫌だ。緋色に男を拒む権利なんてないからね。拒みたきゃ、花形の花魁になるしかないのさ。そして、誰よりも多くの男と寝る。間違えても足抜けなんてするんじゃないよ。あんたが逃げたら、あたいの首が飛ぶからね。さあ、時間だ。ついておいで」


 無理やり手を引かれ控えの部屋から出された。廊下を進む足取りは重く、幾重にも重ねた着物がさらに十羽の心を圧してくる。


「お梅、緋色を頼んだよ」

「あい、承知いたしました」


 十羽はお梅という少女に引き継がれた。お梅は可愛らしく首を傾げて、十羽ににっこりと笑って見せた。お梅のあどけない仕草に、十羽は眉を歪めた。少女もまた、いづれ男を取るのだ。

 この世界は残酷だと思った。作った借金は少女のせいでない。貧しい家がいけないのだ。家が貧しいのは国がいけないのだ。


「緋色姉さん、お手を。さあ、参りましょう」


 無垢な少女に手を引かれ、歩く廊下はなお辛い。

 十羽はたまらなくなって、足を止めた。この少女はここがどんな場所であるか、理解しているのだろうか。

 お梅は振り返って、十羽を見上げた。


「緋色姉さんはとてもお綺麗です。すぐに良い男の人がつきます。良い男の人はたくさんのお金を払って、お姉さんをお嫁さんにしてくれます。それまでの辛抱だそうですよ」

「お梅ちゃん……」

「緋色姉さんは、好きな人がいましたか? わたしは、その人がいちばん最初の人やったらいいのになぁって、ときどき思います。たくさんの男の人を相手にする前に、そんな人に出会えたなら支えになるから」


 少女もまた、この世界で生きようとしている。そして、ここで生きるためのすべを知っている。抗うことのできないこの世界にいても、少女の心の中には夢があるのだ。自分が好きな男と一度でいいから結ばれたい。普通の女ならば当たり前のことも、ここに住む女たちには叶わぬ夢なのかもしれない。


「好きな人と、結ばれたいよね」

「でも、わたしは物心ついた時からここにいるから、好きな人なんてできないかも」

「お梅ちゃん、外に出たことないの? ねえ、外に出たい?」


 十羽がそう問いかけると、お梅は小さく笑って首を横に振った。それからは何も言わないまま、十羽の手を引いて歩き始めた。十羽はその小さな手を見つめながら、引かれるがままに足を動かした。



 ◇



 一応、規則だからと客が事前についていようが中見世に立つ。道行く男たちへの売りを兼ねているのだ。今夜の客が明日も来るとは限らない。常連客が付いたとしても、それだけでは稼ぐことは難しい。男がよほどの金持ちではない限りは。


「お姉さん、ここです。お部屋に出る前にここでお待ちください」

「ここ、で……」


 畳の上に座る女廊たち。格子越しには外をいく人が見える。前列に座っていた女廊たちは、その格子から白い腕を伸ばし、男に声をかけていた。


「そこの旦那、いい男だねぇ。今夜はあたいとどうだい?」

「お兄さん。あたいを抱いてみないかい? いい思いさせてあげるよ」


 格子から出すのは腕だけではない。白粉を振った艶かしい脚を出し、指先で着物をめくって見せる。男は立ち止まり品定めをするかのように、にやにやとこちらを見ていた。


「ほぅ。まだ、若えな。いいじゃないか。どれ、乳も見せてみな」

「うふふふ。みたけりゃあたいを買っておくれよ」

「気に入った。今夜はお前にする」


 ひとり、今夜の相手が決まった。

 女廊は嬉しそうに襟元を整えると、十羽を横目で見てしたり顔をした。

 あんたに客が引けるのかい? とでも言いたげだ。

 一人抜けると、ひとり分前に出される。男を誘う女廊たちに圧倒されながら、いやいや中央に座った。こんな風に男を取り、共に寝て、銭を稼ぐ。十羽は考えただけで体中にむしずが走った。

 言うまでもなく十羽は男と寝たことがない。ゆえに、吉原に売り飛ばされたこと自体が、人生最大の危機であった。新選組狩りから酷い仕打ちをされたときよりも、恐怖を感じていた。


(逃げたい……すぐに、ここから)


 しかし、できない。十羽を常に見張る者がいるからだ。黒田の手下から逃げられやしない。


(どうして、こんなことになったのだろう)


 外から男たちが覗き込む。その男たちに手を伸ばす女たち。その光景は十羽にとって理解しがたい風景だ。

 ふと、格子の向こうに三人で連れ立つ男が目に入る。堂々と手を振りながら歩く大柄な男に、二人の男がついて歩く。ゆっくりと彼らが十羽の前を通り過ぎた。その姿を見た十羽は、思わず前に座る女を推し退けて格子を握った。その隙間から男の横顔を見る。


(鉄之助殿――!)


「てつっ―― お兄さん! お兄さん!」


 間違いなく鉄之助だった。十羽は名前を叫びそうになって、慌ててお兄さんと呼びかけた。どうか気づいて欲しい。知らぬ男に買われるのなら、他に想いびとがいてもいい、鉄之助に買われたい。十羽は必死に手を伸ばす。悲鳴に近いその声はやがて鉄之助に届いた。

 鉄之助が足を止め、ゆっくりと十羽の方を振り返ったのだ。


「お、お兄さん。あたしを、買って。あたしを、どうか……おねが」


 鉄之助は十羽の叫び声に驚いたのか、顔を引き攣らせた。そんな鉄之助に前をいく男が鉄之助に声をかけ、鉄之助は再び歩き始める。


(気づいて、もらえなかった。そうよね、こんな格好じゃ……分からないもの)


 手の届くところに鉄之助がいた。それなのに、この手は届かなかった。鉄之助の背中が霞んで見える。あまりにもの出来事に、十羽は泣いていたのだ。


「ちょいと緋色! あんたはただじっと座ってればいいんだよ。ばかだね! 今夜の相手はもう決まってるんだからさ! まったく分からない子だねぇ」


 店の主人からは叱られ、周りの女廊たちからは冷たく笑われる。非情な世界に十羽は泣く以外に自分を慰める手段を持たなかった。


「泣くんじゃないよ! 化粧のやり直しじゃないかっ。泣くのは男に抱かれてからにしな」


 十羽は見世からだされ、控えの部屋に連れて行かれた。もうすぐ十羽を買った男が来るらしい。


(鉄之助殿……)


 自分の運命を受け入れるしかないと納得していたのに、まさか鉄之助の姿をみつけてしまった。


 諦めきれない。


「ほら、もっと肩を出すんだよ。そう、こうしていれば男は喜ぶ。あんた喋らなくていい。余計なことを言うと、興がそがれるからね」


 十羽の心はもう決めていた。ここから絶対に逃げてやる。たとえ追っ手に殺されようとも、見ず知らずの男から抱かれるよりはましだ。


 会いたい、何としても鉄之助に会いたい。

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