第2話 旅立ちのとき

『幸運を祈る』

常世とこよ兄さま!』


 常世は市村鉄之助の姿に変わり、鉄の雨が降り注ぐ箱館の町を走り抜けた。腰に土方の愛刀を差し、懐には土方から託された遺書と遺髪、そして……玉簪たまかんざしがあった。


 ―― なんで、俺がっ! 土方なんかの為に!


 まさか鉄之助になり、妹の常葉ときわに代わって、土方の故郷である日野を目指すとは思わなかった。

 これが妹と最後の別れになるかもしれない。

 それなのに、なんとあっさりとした別れだっただろうか。

 常世にとって唯一血を分けた身内である妹を、瀕死のあかの他人土方歳三のもとに置いてきてしまったのだ。

 せめて、土方が命の危機を脱するまでは残ってやるべきだったかもしれない。


 ―― いや、常葉はそれを望まない。だって、あいつの為に一緒に死のうとしたんだ。俺がどんなに願っても、常葉は……。


 妹は土方を選んだのだ。

 いつのまにか妹は、兄の知らない所でひとりの女になっていた。


 ―― ……常葉


 幼い頃から共に過ごした、常世の知っている常葉ではなくなっていたのだ。あのあどけない、どこか頼りない、じゃじゃ馬な可愛い妹は記憶の彼方だ。

 色のある潤んだ瞳は、土方がそうさせたのた。


 あれから随分と時間が流れたが、二人はうまくやっているのだろうか。傷は、癒えただろうか。




「鉄之助、居るのかい」

「はい、ここに」


 声をかけてきたのは土方の兄である土方為次郎ひじかたためじろうだ。

 為次郎は幼い頃から盲目である。そのため土方の家の家督は彼の弟が継いだ。

 為次郎はもっぱら別宅で一日を過ごしている。


「ちょっと散歩に付き合ってもらえないかい。今日は空気が澄んでいるんだ」

「承知しました。身支度をして、すぐに参ります」

「悪いね。表で待っているよ」


 常世は箱館の戦火を潜り抜け、鉄之助として日野に辿り着いたのだ。土方の義理の兄である佐藤彦五郎に、遺品の数々を手渡すと、涙を流して頭を下げられた。

 この町に住みなさいと、半ば縋るように言うので常世はしばらく身を寄せることにした。

 そんな折に、土方をいちばん可愛がっていた兄がいると紹介されたのが、先ほど声をかけてきた為次郎だった。

 全く眼が見えないと言うが、その代わりに臭いや人の感情、気配に恐ろしく敏感で、鉄之助を鉄之助ではないとあっさりと見破ってしまった。

 常世にとってこれは、青天の霹靂へきれきだった。

 しかし、為次郎は「なにか事情があるんだね」と、責めもとがめもせずに、鉄之助として接し続けてくれた。


 為次郎といると時間の流れが穏やかだった。

 季節の移り変わり、風の流れ、川のせせらぎ、虫の鳴き声、それらのすべてに人は生かされているのだと思わされた。自然へのありがたみが身に染みる。


 佐藤彦五郎はそんな常世に、このまま為次郎の世話をしながら家の手伝いをしないか。家庭を持ちたければよい女性を連れて来る。そんなことまで言い始めた。


 そろそろ潮時だ。

 そう思い始めていたときである。



 ―― なんか、嫌な予感がするなぁ。あの人には術も誤魔化しもきかないんだから。


 常世はここのところ、そろそろ日野を離れねばなるまいと思っていたのだ。そうしなければ、常世は常世の姿を取り戻せない。


 ―― 自分の顔を、忘れてしまいそうだ……。


 まもなく二十歳になる常世は、少年から青年へと成長を遂げようとしていた。

 中性的な顔立ちが、男の性を隠しきれなくなる頃だ。


 常世は身支度をして庭に出た。

 為次郎は門のそばで遠くを見るように顎を上げている。

 たたずまいはまるで、ヒノキのようだ。静寂をまとい、真っ直ぐに天に伸び、品の良さを際立たせるその背中は、常世を魅入らせた。


「鉄之助。行こうか」

「はい」


 為次郎は背中で、常世の存在を確認していた。

 常世は知らずに音をたてずに行動していた。敵に自分の気配を悟られてはならない環境に身を置いていたからだ。

 幼い頃から共に過ごした妹の常葉ときわですら、正体に気づかなかったほど完璧だった。それなのに、為次郎はいとも簡単に常世を見つけてしまう。


 ―― 本当に見えてないんだよな……


「私は、光さえもこの眼では感じられない。嘘だと思うなら、くり抜いて見せてあげようか」

「ご冗談はおやめください。疑ったのは申し訳ありません。けれど、どうして心の声までも読めるのですか」

「別に読んでいるつもりはないんだけどね。きっと、君が話したがりなんだろうと思うよ」

「えっ、俺が」


 為次郎はそんなことを言った。


 ―― 俺が、話したがりだって?


 女でもあるまいし、できれば他人とこれ以上は関わりたくないとさえ思っているのだ。

 常世は頭をかしげた。自身の生い立ちも、これからの事も誰にも話さないつもりだ。話したいとも思わない。それがどうして話したがるもんかと、眉に力を込めた。


「君は、そろそろ日野を出たいのだろう?」

「なぜそれを」

「いつまでも他人に化けているわけにもいかないし、君には君の人生がある。まだ二十歳はたちにも満たないわけだろ。こんな田舎に縛られている場合ではないね。まだ若いから、いろいろと見聞を広げて、いい女が見つかれば、所帯を持つのもいい」

「俺は所帯など持ちません。一人が気楽でいいのです」

「奪われるのはこりごりかい?」

「なにを仰って!」


 何もかも見透かしたように為次郎は頬を上げた。

 心を覗かれるていると、常世は思った。おじじ以来の強敵である。

 為次郎の歩みは一定で乱れることはない。光も感じないというが、とうてい信じがたい足取りだった。


「私は君に感謝しているよ。君に会えてよかった」

「なぜ、そう思われますか」

「君には辛いことだったかもしれないけれど、君が来たということはトシが生きているということだから」


 為次郎は立ち止まり、振り返ってそう言った。常世はその言葉に返すことができなかった。自信に満ち溢れた穏やかな笑顔だったのもあるし、為次郎の言うことに間違いがなかったからと言うのもある。

 そして、為次郎は再び歩き始めた。歩きながら、ゆっくりと土方のことを話し始める。


「トシが生まれてすぐに母が亡くなった。そのせいかはわからないけど、それはそれはヤンチャな子でね。奉公に出されてもすぐに逃げて帰ってきしまう。その度に私の部屋に隠れていたなぁ。我慢のできない短気な子だと、親戚たちを困らせていた。そんなある日、薬売りになると言い出してね。まあ、それなら迷惑はかけないかと思っていたら、あちこちで木刀を振り回して、生傷をこしらえて帰ってくるんだよ。問いただせば、俺は悪くねぇだの、家には迷惑はかけねぇの一点張り。どうも、怪我をさせた相手に薬を売っていたみたいでね」

「それって、石田散薬……」

「ああ、そうそう。打ち身捻挫によく効く薬さ」


 ―― 相手に怪我させて薬を売りつけてたのか……恐ろしいな


莫迦ばかで賢くて憎めない弟だよ。あはは。自分にはないものだらけで羨ましかったね。私はトシに自分を重ねて、果てない夢を見ていたのかもしれない。嘘だと思うだろうが、ああ見えてもトシは心の優しい人間だった。それを知っているから私は、あの子が可愛くて不憫でならなかった。君には悪いが、トシがもしも幸せな人生を迎えたなら、心から祝ってやりたいと思っている」

「俺は別に、なんとも思っていません」

「そうかい。有難いなぁ……有難い」


 だから、為次郎は土方が常世の大切な人を奪ったことを、許してやってくれと言いたいのだろう。

 常世の知っている土方は、新選組で最も腹黒い鬼の副長と呼ばれた男だ。新選組のためにしていることなのか、分からなくなるほどの冷酷さだった。

 それが、会津で合流した時はまるで別人だった。何か大きなものを削ぎ落としたような、さっぱりとしたいでたちだった。


 ―― 俺には分からない。どれが本当の土方だったのだ。常葉、お前には分かるのか……分かるんだろうな。


「俺、近いうちにここを離れます。彦五郎殿にはきちんと礼を述べてから去りますので、ご安心ください」

「そうだね。君は、ここに留まるべきではないね。私は嬉しかったよ君に会えて。君も、幸せになってほしい。トシなんかよりずっと」

「俺は幸せを求めているわけでは」

「最後にひとつ、頼みを聞いてほしいんだがいいかな」

「俺にできることならば」

「君の名前を教えてくれかいかい。なに、彦五郎たちには言いやしないよ。私の心の奥にとどめておくと誓う」

「俺の、名前を?」


 為次郎は大きくかぶりを振って、焦点の合わない瞳を常世に向けた。向けられた為次郎のまなこには何も映っていなかった。

 それが常世の胸をざわつかせた。この男には、夢も光も見ることを許されていない。耳と感覚だけが頼りなのだ。男の全身全霊が常世に向いている。


常世とこよ


 気づけば自分の名を口にしていた。


「とこよ、か。常世。ああ、良い名だ」

「っ……」


 為次郎の言葉に不覚にも喉の奥が熱くなった。誰かになりすまし、その誰かの人生を借りて生きることの苦しさから解放された気分だった。

 もう、常葉に代わって鉄之助を演じなくともよいと言われたような気がした。


「行きなさい。自分の人生を生きておくれ」


 そして為次郎はにこりと笑って眼を閉じた。その後、常世が去るまでの数日間、為次郎がその眼を開くことはなかった。

 住み慣れてしまった土方の家は常世の胸に、小さな疼きを残した。為次郎が去りゆく自分の背中を見ているのが分かったからだ。それを思うとなぜか、泣きたくなる。


 常世は一度も振り返ることなく、土方の家を去った。

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