第6話 きみへの苛立ち

 沢で水を汲んだ常世は、これからの事を考えながら歩いた。とにかく、懐に隠し持っている玉簪たまかんざしを大坂にいる椿という医者に渡さなければならない。それが終われば晴れて自由の身だ。

 それにしても、あの十羽という女はどこまでついて来るつもりだろうか。どこか治安の良さそうな町を見つけたら、そこに彼女を置いて行こう。


 ―― お供はごめんだ。俺は一人で生きていく。


 十羽にもはっきり伝えておかなければならない。妙な期待をさせるのは良くないことだと、自分に言い聞かせた。

 信じて、期待して、裏切られることほど残酷なことはない。


「ん?」


 常世は先ほど握り飯を食べた場所まで戻ってきた。しかし、そこに十羽の姿はなかった。

 十羽のために広げた自分の手ぬぐいが、風で捲り上がって枝に引っかかっている。


「あいつ、どこに行ったんだ。じっとしていろって、言っただろ。まて、なんだこの臭いは……まさか!」


 常世は周辺を観察した。

 鼻にの奥に残る獣臭と不規則に踏まれた枯れ草は人が歩いた、あるいは走った跡のようにも見える。

 十羽は何者かにさらわれたのか。


「ばかやろう!」


 常世は地面を強く蹴り岩の上に飛び乗った。周辺の様子を把握するためだ。草木を掻き分けた形跡が山頂から続いている。ふもとからでないのは、十羽を攫った何者かがこの山に住んでいるからだろう。


「山賊か?」


 常世は岩から飛び降りると、再び地面を蹴った。今度はつま先で軽く草の上を滑るように走る。そうすると、足跡がほとんど残らないのだ。


 ―― 俺としたことが油断した。すぐに戻るべきだったのに。くそっ!


 常世の足は風のように速い。やっと走る事を覚えた幼き頃、おじじから疾風はやての術を教わったのだ。

 それは唯一の血を分けた妹の常葉ときわを守るため。しかし、常葉は黙って守らせてくれるような子ではなかった。おじじに自分にも教えろと、兄のように強くなりたいときかなかった。

 いつしか常世と常葉は並んで修行をするようになった。そして、妹は日本の行く末を見たいと言いだした。


 ―― ばかだな。なんでそんなことを今になって思い出す。


 今は十羽を救うことに集中しなければならない。彼女は心が読めても、戦う術を持たない非力な女なのだ。

 そのとき常世の目に大きな影が飛び込んだ。姿、形、臭いからして人ではない生き物だ。

 その大きな影の下に十羽の姿が見えた。

 常世は体を翻しながら、懐から飛び道具を出し影に向かって放った。


「キューン!」


 それは悲鳴のような音を出して倒れた。


「十羽っ!」

「鉄之助殿、どうしてここに」

「大丈夫なのか、怪我はしていないか。あの獣はおまえをさら......鹿!?」

「はい。貴重な食料になるのではないかと思いまして」

「食料、だと」

「はい。どうもこの山は山菜も豊富のようで、適当に摘んで鹿鍋に入れたら美味なのではないかと」

「おまっ、まさか追ってきたのかこの鹿を」

「あっ。すみません。じっと座っていろと言われていたのに」


 ―― 嘘だろこの女。信じられねぇ


 常世にしたら心臓が止まるほど焦ったし、彼女の命の心配をしたのだ。昨日会ったばかりの素性も知らぬ女だとしても、同じ時代を命をかけて生きぬいた。常世にとって少なくともどうなってもいい、どうでもいい存在ではなかった。


「ふざけるな、馬鹿野郎!」

「ひっ」



 ◇



「もうすぐできますからね。夜は冷えますから、栄養満点の鹿鍋を食べればきっと、疲れもとれます。強い肉体も作れますよ」

「はぁ……」

「もう少し待っていてくださいね」


 ―― あり得ないだろ……


 常世が怒鳴り散らしても、十羽はすこしも落ち込む様子はかった。すぐに笑顔を取り戻し、山小屋があるからそこで一晩過ごそうとまで言ったのだ。

 そして、あり得ないほど要領よく鹿をさばいた。

 常世の目の前では山の幸が加えられ、鍋の中のつゆがいい音を奏でていた。


「よかった。お塩やお鍋があって。もしかして、猟の季節だけここにマタギが来るのかもしれないですね。はい、できました。どうぞ、お召し上がりくださいませ」


 十羽はほんの少し顔を傾けて、具をよそったお碗を常世に差し出した。よく見れば十羽の瞳は二重で睫毛も長い。瞬きをするたびに、澄んだ光が目から溢れ落ちそうだった。

 眩い視線を向けられた常世は金縛りにでもあったかのように、ぴくりとも動かない。眉間に皺を寄せたまま、十羽を睨みつけていた。


「あの、鉄之助殿。もしもし?」


 瞬きもせずに不機嫌な顔をしたまま動かない常世を見た十羽は、手のひらを常世の顔の前でひらひらと大袈裟に振ってみた。

 しかし、眉間の皺だけがいっそうと深くなるばかり。


「お汁、冷めてしまいますけど。もしや、お身体の具合が悪いのですか」


 十羽はお碗を置いて、常世顔にぐっと近づいて手を額にあてた。


(熱は、ないみたいだけど)


 そして、その手をそっと首筋に伸ばした。男らしい筋肉と太い筋が通っている。その逞しさに、十羽は胸の奥がかすかに疼くのを感じた。


「おい、断りもなく触るな」

「はっ、すみませんっ。熱でもあるのかと」

「別にどこも悪くない。いただく」


 常世は十羽の作った鹿鍋を黙々と食べた。味付けは塩だけだというが、控えめに言っても旨いとしか言いようがなかった。でも、そんな言葉は口にしない。十羽を褒めれば常世の中で何かが壊れてしまいそうだったからだ。


 ―― なんなんだ、なんなんだよ!


 理由なき苛立ちと鹿鍋の旨さが、常世の腹を満たしていった。

 そんな常世に十羽は頬を緩めて、お代わりを差し出すのだ。


「明朝、ここを離れるぞ」

「はい」

「……寝る!」

「おやすみなさい」


 常世はなぜか不甲斐なさでいっぱいで、十羽に背を向けて床に転がった。寝るとは言ったものの眠れる気がしない。

 囲炉裏についた火ら柔らかな温もりを放ち、外は秋の虫が鳴き、吹き抜ける風が戸を叩く。囲炉裏の向こうで十羽が身体を横にした。着物の袖が床にはらりとつく音がする。

 ひとつひとつ、いちいち彼女の気配を感じてはそれを追ってしまう。


 ―― まったく腹立たしい。


 常世はふんっと、短く息を吐いて己を律するように瞼を閉じた。



 ◇



 翌朝、常世が目を覚ましたとき、十羽の姿は家の中にはなかった。常世は慌てて庭に飛び出す。


「おはようございます。鉄之助殿」

「おっ、おまえ何をやってるんだ」


 十羽が昨日の残り、鹿肉を同じ大きさに切ったものを、麻の紐で縛って軒下に干していた。


「干し肉を作っているのです。勝手に小屋を使わせてもらい、塩まで拝借したのでお礼です」

「礼?」

「持ち主が戻ってきたときに食糧にでもしてもらえたらと思って。あ、もう立ちますか?」

「いや。終わってからでいい」

「はい。では、急ぎます」


 小屋に持ち主がいるのか、戻ってくるのか分からない。それでも十羽は勝手に使ったお礼だと、残りの鹿肉を処理した。


 ―― 鳥に喰われて、しまいになりそうだけどな。


「変な奴」


 食うか食われるか、生きるか死ぬか、殺さねば殺される。そんな世界で生きてきたとはとうてい思えない。


「おまえ、よく生き残ったよな」

「鉄之助殿、参りましょう!」


 常世が十羽を見つけた時は、息をしているのか怪しいほどぼろぼろであった。新選組と共に散りたかったと、声を押し殺して泣いた女とは思えない。

 朝日を浴びたその女は、目を細めて未来を見ているようであった。


 常世は腰に差した刀をひと撫でして歩き始めた。

 その後ろを十羽が、ときどき木の根やつるに足を引っ掛けながら小走りでついてくる。

 躊躇いなく鹿を追い、勇ましくさばいたというのに、不器用な気配にため息しか出ない。

 たまりかねて常世は立ち止まった。


「あのさ、乗れば」

「えっと、あの」


 常世は十羽に背を向けたまま腰を下ろした。背負って山を下りるつもりなのだ。


「乗れよ。その着物では走れぬだろ」

「そんなこと、ご迷惑ですからっ」

「転けて怪我をされた方が迷惑なんだ」

「あ……」

「それに」


 その着物は常世が宿主に頼んで買わせた着物だ。思っていたよりも、十羽に似合っていた。それを、汚したくないとも思った。


「鉄之助殿?」

「いいからさっさと乗れ」

「はいっ」


 女は綺麗な着物を着て、好きな男と生きるのが幸せなのだ。そう思うと、また妹のことを思い出す。

 命を取り留めた土方は、常葉に綺麗な着物を着せてやっただろうか。常葉は女として、穏やかな生活がおくれているだろうか。

 なによりも、常葉は土方と夫婦めおとになれただろうか。


「落ちるなよ」


 常世は十羽を背負い、過去を振り切るかのように疾風の術で山を駆け下りた。




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