第13話 宿酔の頭痛と心の騒めき

 手引茶屋は吉原の花魁に出会うための場所である。ここには芸達者な女たち、つまり芸妓が客をもてなし行儀よく彼女らの手順にそって大人の遊びをする場所である。

 決して不埒な淫らな遊びはしない。ここを紳士に乗り切らなければ、花魁への扉は開かれないのだ。


「固くなるな。ここはそういう事をする場所ではない。下心あれば摘み出される」

「下心など、けっして!」

「そんな目をするな。芸妓に嫌われては、例の女の行方も聞けぬぞ。とにかくお前は芸妓の言うことだけを聞いておけ」

「……はい」


 金のある男ならここで遊ぶことは幸せであり、他の男とは違うのだと威張れることかもしれない。

 俺は芸妓遊びができる粋なやつ。そう思っているかもしれない。

 しかし、常世にとっては全く逆だ。居心地の悪い、早く逃げ出したい場所だった。

 それでも、言われるがまま苛立ちを腹の底に押さえ込んで、芸妓たちと不器用ながらにも遊んだ。これも、十羽を助け出すためであると言い聞かせて。


「お兄さん、かわいい。顔を赤こうして……ふふっ。あら違うわ。これはこちら」

「ああ、これがこっ……くっ」


 真剣に、真面目に遊ぶ常世が可愛らしくて、芸妓たちは手取り足取り遊びを教える。

 白い手、白い首、真っ赤な紅をひいた唇。彼女たちが動くたびに、香袋が妖艶な匂いを放つ。


 ―― くっさ! こんなんじゃ、十羽の匂いも分からなくなる!


「お兄さんの手、豆がありんすな。なんぞ、鍛えたような男の手。まだ青い坊ちゃんかと思ったら、その着物の下はたくましい男が潜んでそうやねぇ。ふふ、また赤くなった。かわいい」


 常世の知らない女の香りが、あたり一面に広がっていた。

 まるで、戦争なんてなかったかのような世間とは乖離した世界であった。





「またおいでくださいね。あらあら、そちらの坊ちゃんは大丈夫でありんすか?」

「うむ、大丈夫だろう。まあ、ここまで酒が飲めぬとは思わなかったが……」


 生まれてこの方、女に囲まれることなどなかった常世だ。香袋と酒と真っ赤な紅にあてられたのか、途中から正気をたもてなくなっていた。

 そこそこの毒に耐性はあっても、酒の耐性は持っていなかったようだ。

 そろそろ夜が明ける刻限、不覚にも山口の肩を借りた状態で席を盛り上げた芸妓に見送られたのであった。


「なにも、聞き出せなかった……くっそ」

「酒も学ばねばならんな。まあ、飲めぬ体質かもしれんが」

「あの女たちは妖だろっ、おんな……くっせえ臭いさせて……」

「おい、足がもつれておるぞ。俺まで引き倒すつもりか」

「すみません! 俺、一人で歩きます」


 一人で歩くと言ってはみたものの、歩き始めると世の中がぐるぐる回って前に進めなくなる。一歩しか踏み出していないのに、気づけば手を地面についている。

 進んだはずが後退し、思っている方向とは別の方に体が傾いてしまう。


「典型的な酔っ払いではないか。永倉でもこんな風にはならんぞ。おい、鉄之助しっかりしろ」

「しっかりしているつもりですが!」

「まったく……ほれ、手を出せ」

「俺は、子供ではありませんのでっ、手など。うわあっ」


 山口はぐだぐだ煩い常世の手を引き揚げた。口で言うほどの抵抗などまったく、簡単に山口の肩に担がれてしまった。


「これはダメです。下ろしてください」

「煩いやつだな、少しだまれ」


 山口は口をニッと横に伸ばすと、空いた手のひらで常世の尻をパンと叩いた。

 本当に子供のように扱われているのだ。


「きさまっ、お、覚えてろよ!」

「あいわかった。しかと覚えておく。おまえも忘れるなよ」

「くそっ、くっそ!」


 常世の悪態もそうは続かなかったようで、気づけばぐにゃりと力を抜いて寝息を立てていた。

 山口二郎の肩の上である。


 まだまだ子供ではないか。親の顔を知らぬまま妹と二人で生きてきたのだと思えば、山口とはいえむげにはできなかった。いや、むしろ構いたくて仕方がないのだ。このヘソの曲がった兄は妹を守るために、そうならざるしかなかったのだろうと。


「十羽という女を助ける、か。しかし、なかなか厄介な男の名が出たが、どうしたものか」


 酒に潰れた常世とは別に、山口はしっかりと情報を得ていた。


 代々武将に仕えてきた忍び一族は、徳川幕府も後半になるとその仕事はめっきりと減った。隠密は役人並みの地位を与えられたが、昔のように派手な仕事はなかった。町人同士の、武家同士のごたつきの原因を探るようなものばかりだった。

 その仕事につきまつりごとに口を出せるのも、服部半蔵のような名門ばかり。ゆえに、仕事からあふれた者たちは、その忍ぶ能力を持て余し野盗に成り下がっていった。


 黒川田蔵。

 その野盗まで落ちた忍びの末裔である。山口二郎が耳に挟んだ厄介な男だ。

 その野盗まで落ちたはずの男は、明治政府とつながっている。この男が倒幕の邪魔をした武士たちを捕まえては政府に突き出して、金を稼いでいたのだ。

 噂に聞いた、元新選組狩りの張本人である。



 ◇



 翌朝、常世は布団の中で目を覚ました。

 少し焦げた臭いと、味噌汁の香りが鼻腔をついたのだ。ゆっくりと脳が覚醒し、慌てて飛び起きて気づく。


「いっ、て」


 頭が割れるほどに痛む。これを俗に言う、宿酔だ。常世は右のこめかみを指で押さえながら、うずくまる。こんな頭痛は初めてだったのだ。


 ―― なんだこの痛みはっ。それに、どうやって帰ってきたか覚えていない! 


「一服、盛られたのか! うぅ、痛え」


 頭を下げずにはいられなかった。常世はどんな薬を盛られたのかと必死に考えた。


「案外、おまえはバカだったようだな」

「なんだとっ……ぐ、痛え」

「おまえは毒を盛られたわけでもない。単なる余酔よすいだ」

「よすい?」

「宿酔とも言うな。ようは、昨晩飲んだ酒に酔い、その酒が体内に残った状態をいう。人にもよるが、吐き気や頭痛を起こす者が多い。しかしそれにしても弱すぎるだろう。これまでに飲んだことはなかったのか」

「酒など飲む暇など、なかった」

「土方さんの実家でもか」

「ひと様の家に邪魔になっている身分で、酒など飲めるかっ。いってぇ」

「なるほど。おまえは為次郎さんに大事にされたんだな」

「意味が、分からないってば」


 酒を飲む機会はあったはずだ。飲む暇がなかったのではなく、まだ子供だからと与えられなかったに違いない。男として酒を飲めないのは痛手ではあるが、飲めないからといって死ぬことはない。

 どちらかといえば、必要のないものである。

 酒に酔って殺された者、酒に逃げて人生をおかしくした者、酒で体を駄目にする者は後を経たない。

 これに女が絡むと、大変に厄介なことになりかねない。


「味噌汁を飲め。時間が経てば自然と治る」

「味噌汁が効くのか」

「ふっ、くくくく……」

「なんで笑うんだよ。腹立つなー」

「おまえはそのままでいろ」

「はあ⁉︎」


 そうやって誰にも頼らずに突っ張って生きてきたのだろう。それを思うと山口でさえわずかに心が痛むのだ。妹のためだけに生きてきた兄が、あかの他人の女を助けようとしている。


「十羽とやらの行方が分かった。話してやるからさっさと起きてこい」


 手を貸したくなるのも仕方がない。



 ◇



「してっ、十羽はどこに!」

「落ち着かんか。まずは飯を食ってしまえ。話はそれからだ。おい、飯粒がついているぞ。おまえはまだまだ子供だな。まったく……くははっ」


 ―― あんた、そんな笑い方ができるのかよ。


 相変わらず山口は落ち着いている。剣術の腕前だけでなく、酒も強いし、女との遊びも知っている。会津では見ることのなかった山口の表情は、戦場とは違い血の通った温かみを感じる。それがなんとなく、常世に親近感を抱かせた。


「さて」


 山口が橋を置き常世の方を振り向いた。常世は正座し両手の拳を膝の上においた。十羽の情報を聞くためだ。


「その前に、言っておく。俺は今日から山口ではなく、藤田五郎だ。よいな」

「はい。え、改名ですか」

「そうだ。人は姿を変えられないが名を変えて、新しい人生を歩くことができる。おまえのように、鉄之助の人生を引き継ぐのもよいが、俺は新しい道をゆく」

「新しい、道」


 常世は山口から藤田五郎として生きると聞いて、自分のことを考えた。今は鉄之助として生きているが、あの簪を届けたあとどうするのか。本来の常世の姿に戻り、生きていくのだろうか。

 そのとき、これから助けようとしている十羽はどうなるのか。助けて、はいサヨナラでよいのか。


 ―― どうでもいいだろう? 命さえ助けてやれば、あとはあいつの勝手だ。


 新しい人生という響きに、心の奥がわずかにざわついた。

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