第40話 溺れている


喉がひきつれ、上手く声が出せない。

言いたいことはたくさんあるのに、考えがまとまらない。



長い沈黙だった。



旦那様の指が、止めどなく流れ落ちる私の涙を拭った。


「一つづつでいいんだ。教えてくれないか。好きなもの、嫌いなもの、何をしている時が楽しいのか……、知りたいんだ。どうしたら……クリスティーナを悲しませないのか」


伏せていた顔を上げ、旦那様の瞳を覗き込む。

──今、私の名を……



「どうせ、また悲しいことは起こりますわ」


口からポロリと零れた。


「悲しいことも、苦しいことも、怒りで我を忘れることも。この先、何度だってあります」


そう。何度も、何度だって起こるだろう。

この件が起きるまで、私は一瞬も旦那様を、未来を疑わなかった。こんなことになるなんて、微塵も思ってはいなかった。


それなのに、事は起きた。


誰にも予想できないことは、起きるものなのだ。


「──その度に、私はきっと泣き、もがき、苦しみ、怒りを覚えるでしょう」


旦那様を待っている間、帰ってきてからも。

私は人生で一番、もがき苦しみ怒りに支配された。


今でもあの時の激情を忘れたわけではない。


けれども。


「けれども、その中にも楽しさや切なさ……幸せがあるのですわ」


旦那様に握られた手を包み込むように、自分のもう片方の手を重ねる。


「私から教えるだなんて、つまらないではありませんか。一緒に探しましょう? 良いことも、悪いことも、二人で模索するのが楽しいのだわ。──この先、長いのですから」


ぐ、と一瞬詰まったような声を出した旦那様が私の肩に顔を伏せた。暫く、そのままでいた。

私も、そのままでいたかったから。





「──ジョエル様」


二人だけの時間が終わった合図だ。


「……あぁ、アデルか。なんだ」


寝室と居間の間の扉の向こうから、アデルの声が届いた。

旦那様はアデルに入室の許可は出さず、このまま話をするようだった。


「──奥様は今どちらに」


旦那様は隣にいる私に視線を流すと、人差し指を口の前に出した。

静かに、と言うわけね


「クリスティーナは部屋に戻ったか……執務室だろう。なんだ。そのまま言ってくれ」


「かしこまりました。……ミア様よりご伝言です」


ミア嬢からの伝言……?

ちらりと旦那様を見上げるが、無表情のままだ。


「読み上げてくれ」

「はい。今夜、別宅にいらしてほしいとのことです」


思わず、旦那様から顔を逸らしてしまった。どんな表情で別宅に行くのか、見るのが怖くて。

すると、ゆっくりと旦那様の手が私の頬に添えられ戻される。抗わず、誘われるまま視線を戻すと以前と同じ温かい瞳で、旦那様は私に微笑みかけた。


「……今日は無理だな。明日の夜に遅くなるが行くと伝えてくれ。今日は王宮に……王太子殿下へ頼まれていたものを届けに行かなければならない」


「王宮に……では、急ぎ馬車の準備を」


「馬でいい。アデルも乗れたな?」


「はい」


「では、先に馬の支度を頼む。……馬の支度はステファンにでも教えてもらうんだ」


「はい。かしこまりました。……ミア様にも、そうお返事を出します」


「あぁ」


そう、アデルと言葉を交わす旦那様の口調は冷たいものだった。

しかし、私を見つめる瞳と手は温かいままだった。





その日、旦那様はアデルと王宮へ向かい晩餐の時間になっても戻らなかった。

代わりにクリフが晩餐後に邸へと戻った。


晩餐は終わってしまったので、サロンでハーブティーを飲みながらクリフが不在だった間の話しをした。


「──それで、兄上とはどう?」

「どうも何も……まだ何も変わったことはないわ」


気恥ずかしさから、誤魔化すようにハーブティーを一息で飲み切ってしまった。

空のティーカップを暫く見つめる。


「……今の兄上と一緒にいて、ティーナは幸せなのか」


ティーカップから顔を上げると、クリフはどこか思いつめたような顔をしていた。


「……私がうじうじとしていたせいね。クリフに心配かけたわ……ごめんなさい」

「いや、そうじゃない。……無理、を、しないでもいいと思ったんだ」


「無理なんてしていないわ」

「でも、ティーナは苦しそうだ」


ハッ、とどちらが息を飲んだのか。


「──いや、ごめん。あぁ、カップが空だね。俺が淹れよう」

「いえ、アビーを呼ぶわ」

「……すまない。まだ、二人で話したいんだ」


そう言ってクリフはハーブティーを淹れに、席を立ちティーテーブルの方へ少し離れて行ってしまった。

その背中を見ていたら、なんだか、とてもたまらない気持ちになった。


「……確かに、私、苦しいわ」


囁くような小さな声だったのに、確かにクリフの耳に届いたのか動きが止まった。


「息が出来ないぐらい苦しかった。まるで足のつかない海の中、溺れているみたいに。すぐにでも陸に上がって楽になりたかった」


振り向かないクリフの背中に語り掛ける。

いつの間にか、クリフの背中は大きく広くなり、私の知っている背中よりもずっとしっかりとしているように見えた。


「──私は、助けてもらうのを待っているだけだったの。

苦しい、助けてって思うばかりで自分でもがいて泳ぐこともせず。誰かが、何かが助けてくれるのを息が続く限り待って、そして沈みそうになっていたの。沈みそうになって、やっとわかったの。私は泳げるんだって。海を泳いでも、陸に上がっても、自分で選べるのだって」


クリフに語り掛けるようでいて、実のところ、自分自身にも語りかけていた。

自分の右手首にある、金の鎖を見つめた。



「私は、苦しくても泳ぐことに決めたの。旦那様と」



数拍の後、振り返ったクリフは私のよく知る"幼馴染のクリフ"の顔だった。


「──そうか。自分で決めたんだな。……成長したな」

「ええ。そうみたい」


ふふふ、と昔に戻ったかのように笑い合った。


目の前に、クリフがハーブティーを置いた。


「それを飲んだら部屋まで送るよ。今日はもう兄上も戻るのが遅くなりそうだ」


「ありがとう。……旦那様、大丈夫かしら」


クリフの淹れてくれたハーブティーは温かかった。


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