第25話 落ち着かない
目覚めたばかりの空気が胸の中に満ちる。花々や草木についた朝露が朝日を反射し輝く中庭を、私は一人で歩いていた。同行しているステファンやアビーは、少し離れたところで待ってもらっている。
寝ても覚めても出口の見えない頭の中を整理するため、一人で考える時間が欲しかった。
誰かに心の内を相談するにしても、全くまとまっていないのだから話せそうにも話せない。それに、自分の気持ちさえもよくわかっていないのだから。
疲れた心を癒す朝日を浴びて目覚めたばかりの色とりどりの花々は、春に見た時とは表情を変えていた。
あの花も、この花も。旦那様と見た頃はまだ蕾でしたのに……
*
後ろから近づく音が聞こえていたけれど、私はわざと振り向かなかった。
『──ここにいたのか。目が覚めたらいなくなっていたから心配したよ』
思った通りの人物の声と香りと腕に後ろから包まれ、回された手に自分の手を重ねたのだ。
『旦那様、おはようございます。ふふ、よくお休みのようでしたので静かに出てきたのですが……探してくださったのですか?』
『あぁ、探したよ。窓から君が見えたから邸中を見て回らずに済んだ。それで、旦那様を一人寂しく新婚のベッドに残して奥様は朝から庭で何を?』
クスクスと静かな笑い声が二人を包んでいた。
『春薔薇がそろそろ見頃かと思いましたの。……でも』
『でも?』
『目当ての春薔薇は見頃を迎えていたのですが、これは一人では無く……旦那様と見たかったな、と思っていたところです』
『──では、探しに来てよかった』
花を見に来たと言うのに、私の視界の全てが旦那様に奪われた。近くにいたであろう使用人たちから隠れるように、春薔薇の陰で落とされたキスには愛情が篭っていた。
そう──思っていた。
*
旦那様がルートンへ視察に向かう前にはまだまだ緑だったユリの花が、今は見事に咲き誇っている。その美しい花の香りを胸に吸い込んでも、何か欠けているような気になってしまうと考えていたら。邸から続く道の方から走り寄る固い足音がした。
思い出の中の音と同じ音に驚き振り向くと、そこには旦那様が息を切らし立っていた。
「──だ……ジョエル様、おはようございます」
「……君だったのか」
あぁ。私の赤毛を見て、ミア嬢だと思ったのか。
ミア嬢より落ち着いた赤毛の、自分の髪色を思い出す。
一瞬、あの時のように探しに来てくださったのかと期待してしまった自分に気づき恥ずかしくなる。
「そんなにお急ぎにならずとも、ミア様は客間にいらっしゃいますわ」
「──いや、ミアを探していたわけでは無いんだ。窓から庭を見ていたら、なんだか、行かなくてはいけない気になって……」
旦那様の言葉に、体が跳ねた。ユリの花へ向けられていた視線が旦那様へと向いてしまう。
もしかして、本当に、私を探しに来てくださったのだろうか。
私を。
いや、そうじゃない。と悲観的な自分と
もしかしたら思い出されたのかもしれない! と喜ぶ自分がない交ぜになる。
旦那様は眉をぎゅっと寄せたまま視線をウロウロとさせると、チラッと私の目を見て──またすぐに逸らしてしまった。
「そんなにジロジロ見ないでくれ。君の目を見ていると、なんだか……落ち着かないんだ」
「──落ち着きませんか」
見ないでくれと言われたのに、見ることを、見つめることをやめられなかった。
旦那様。
思い出してください。
「──あぁ。最初からだ。君を見ていると体の内側を引っ掻かれているような気分にさせられて落ち着かないし、自分が自分で無くなるような気になる。それで……言い訳になるが、つい妻気取りなどと心無いことも言ってしまい……申し訳ないと思っている……。その目で見られると……説明が難しいが……とにかく、落ち着かないんだ」
「それは……失礼いたしました」
旦那様……っ
「いや、そうじゃない、ただ……」
旦那様は更に、一歩、二歩とこちらへ足を進める。
距離が縮まる度に心音が激しくうなり、耳の中で鼓動の音が強くなる。
旦那様の手が私へ伸ばされた。
「そうだ、君の瞳は翡翠色だった……」
久々の距離で呟かれた声は本物か
もう、あと少しで、ほんの少しで。旦那様の手が私の頬に触れてしまいそうだった。
それなのに。
また、”あの歌声”が聞こえて来た。
生命が目覚めるような瑞々しい朝の庭も、あの歌声を聞くとなんだか寂しげに見えてしまう。
あの歌声を聞いた旦那様は言いかけた言葉を飲み込み、縮まった距離にあった手を降ろした。
声のする方にゆらりと視線を向け、またあの何も映さない目をした。
がらんどうで、虚しそうで、遠くに行ってしまいそうな目。
この歌声が聞えると、旦那様の様子がおかしくなるわ……
「ジョエル様」
行かないで──そう気持ちを込め呼びかけると、今日はハッとした様子で元に戻った。
蒼の目を何度か瞬き頭を軽く振る仕草をすると、思い出したようにまた私の方へと視線を戻した。何か伝えようとしているのか、口を開いたり閉じたりを繰り返したが……口を閉じてしまった。
「ああ、いや、なんだったかな。もう行くよ。邪魔したね」
誤魔化すように話を切り上げられてしまった。近づいた距離も、また離れていく。
身をひるがえし邸に戻ろうとする旦那様の背を、思わず呼び止めた。
「──ジョエル様……いいえ、旦那様。お待ちください。わたくしから伝えたいことがございます」
離れて行こうとする旦那様の足が止まり、ゆっくりと振り返る。
「なにかな」
「わたくしと旦那様は夫婦です」
「あぁ……。そう……らしいね。どうやら本当に覚えていないだけらしい」
旦那様は目を伏せ、自嘲気味に笑った。
「これは事実であり、アドラー公爵家とクロッシェン侯爵家を繋ぐ政略結婚です。ミア様の存在は関係ございません」
「政略結婚、か……それで?」
旦那様。私を思い出してください。
「──私のことをお忘れになった旦那様に、今一度申し上げます。わたくしと夫婦になりませんか?」
旦那様。
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