第37話 触らないでください
ミア嬢が乗った馬車を見送り、やっと悩みの渦の糸口を掴んだと思ったのに気分は晴れなかった。先ほど私は彼女に貴族の義務や責任を説きながら、本当は自分に言い聞かせていたことに気付いていた。
そのまま朝食を始める気にもなれず、胸の中に広がる不安な気分を変えに朝の庭の散歩に出た。
しばらくすると、やはり今日も旦那様が庭に降りて来た。
晴れない表情の私とは反対に、旦那様の横顔は朝の光を浴びて生き生きとして見えた。
「──今朝は随分と調子が良さそうですね」
旦那様にもミア嬢が出立する日時は報告していたが、混乱を避けるため時間等は伏せられていた。ミア嬢が別邸へ運ばれ気を落とされているのでは、と思っていたがそのような素振りは無い。
仮にも自分の恋人であり、自分の子を宿している女性が一人で別宅へと移動した日の表情には見えず、戸惑ってしまう。かといってひどく狼狽えられてしまっても、やはり良い気分にはならないだろうとも思う。白黒つかない自分の気持ちが揺れていた。
「あぁ、珍しく夢を見てね。良い夢だったんだ」
「夢、ですか」
旦那様は夢の内容を思い出しているのか、穏やかな表情で眩しそうに目を細めた。
その表情は婚姻式の日に見た横顔と同じで、胸が詰まった。
夢のように幸せな時間だった。
皆に祝福され、そして二人ともこれから続く未来を信じていた。
夢のようだけれど、あれは現だった。
「……どのような夢、でしたの?」
「珍しいね。君から質問だなんて」
旦那様は揶揄うような流し目でこちらに視線を流すと、口端だけでニヤリと笑った。
「あら。聞いてはいけませんか」
その表情の中にある、からかいの色についムッと口を尖らせ表情を崩してしまう。しかし、感情の揺れを表に出してしまったことを次の瞬間には反省する。
「はは、本当に生意気になったな。最初とは大違いだ」
旦那様は私の様子がおもしろかったのか、軽い調子でそうおっしゃった。けれど旦那様のおっしゃる"最初"は、きっと私たちの本当の最初ではないのだろうと思うと、私の心は鉛がついたように重くなった。
「さて、どんな夢だったか……もう詳しい所は忘れてしまったが、帰る夢だったな」
「帰る、夢」
「あぁ。帰るのを楽しみにしていたり、あぁやっと帰ることが出来たと喜ぶ夢だ」
「……不思議な夢ですね」
「だな。まぁ、とにかくいい気分なんだ。今朝は特に」
帰る、夢。
それが私の元へと帰る夢だったのならいいのに。
胸に浮かんだ一抹の寂しさを振り切るように、足を進めた。
すると、私の隣を同じ歩調で歩いていた旦那様の足がピタリと止まったことに先に幾歩か進んで気づく。どうされたのかと振り返ると、旦那様はこちらを見てなんだか難しい顔をしていた。
「反対に君は……なんだか寂しそうな顔をしているね」
「──そんな顔をしていますか?」
あぁ。わかってしまったのか。
私の表情の違いがわかるほど、旦那様はしっかりと私を見ていたのかと思うと、少し仄暗い喜びが胸に広がった。
「あぁ。……君は最初からそうだ。君は一体、何を考えている。何を隠しているんだ」
最初とは、旦那様とミア嬢が馬車から手と手を取り合い降りて来たことだろうか
あの時の光景を思い出し、また表情が崩れそうになり視線をやや下へ逸らしてしまった。
「まさか、隠し事などございません」
何の説得力も無い返事がポタリと二人の間に落ちた。
「素直に話せないことがあるのは、隠し事があるからだろう」
「──隠していたのは旦那様ではありませんか!」
あまりの言い様にドクリと怒りが沸いて噴き出してしまった。しかし、つい口を出てしまった言葉を自覚すると
とたんに言ってはいけないことを言った、と後悔が襲ってくる。
「……いえ、失礼いたしました」
「良い。続けてくれ」
旦那様は一歩、私の方へ近づいて来た。
「嫌です」
ドレスの中で一歩、足が後ろに下がった。
「言いたいことも言えない子どもか」
旦那様が更に、一歩、二歩、と近づいてくる。目を逸らすことは許さないと、逃げることは許さないと全身で言っているようだ。
「違います」
怒りと、近づかれて心を覗かれるような、暴かれる不安な気持ちが混ざり混乱する。今度は脚が動かなかった。
「では、言ったらどうだ。さらけ出してしまえ。──それも出来ずに、夫婦とは言えないだろう……」
旦那様は私のすぐ側に立った。
見上げた旦那様は、なぜだか苦しそうな、泣きそうなお顔をしていた。
泣きたいのは私の方だ。泣いて、喚いて、逃げてしまいたい。
でも、旦那様の悲しそうな、痛みを堪える様な表情を見ていたら置いて逃げることはできなかった。
「──私は臆病なのです」
口が動くと同時に、視界が滲む。声が掠れ、引き攣れた喉が痛い。
「自分に自信が無く、傷つくことが怖いのです。私の知らない旦那様が怖いのです。私を忘れてしまった旦那様が。──ミア様の方が旦那様のことをご存じなのかと思えば思うほど、感じるほど、怖いのです。旦那様を求めて伸ばした手を、振り払われたらと思うと怖いのです」
一言づつ、言葉を私の檻から解放するたびに涙が流れ落ちていく。
言葉にして初めて気付く。私はこんなにも怖がっていたのか、と。
旦那様の手が、私へと伸びた。
「触らないでください!」
つい、触れられまいと体が跳ねてしまった。
しまったと思う気持ちはあるのに、止まらない。
「……私は臆病なくせに、欲深いのです。貴族として産まれ、教育を受け、理解していたとしても。旦那様が他の女性に触れることが、許せないのです」
旦那様から身を守るように手を胸の前で握り込め、心を隠すように身を縮めた。
「これから産まれる命すらも、喜ぶことが出来ない、非情な女なのです」
動きを止めていた旦那様の手は、私を掴み引き寄せた。
あんなにも待ち望んでいた、旦那様の腕の中に抱き込まれたのに。知っているのに、安心できた場所だったのに、知らない人物に触れられたかのような嫌悪感がよぎってしまう。
「触らないでと言いました!」
旦那様の腕の中で、もがき、暴れた。
けれども、旦那様の腕はほどかれなかった。
「私に触れていいのは、私の旦那様だけです!」
喉が引きつれ、熱くなる。
「私の、旦那様だけなのです……」
目を閉じれば、私の旦那様に会えた。
「──私の旦那様に、会いたい……」
旦那様はただ、私を抱きしめ、私の涙を受け止めてくれた。
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